後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

現代の物欲を全て捨て去り信仰に生きる人々

2017年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム
高度な物質文明を誇るアメリカに、全ての物質文明を捨て、信仰に生きるキリスト教の宗派あります。物欲を捨て自動車も家電製品も持たない生活をしているのです。日本の仏教の宗派には無いものなので注目に値すると思います。
アーミッシュという宗派の人々で、アメリカの東部や中西部に彼等の村落が散在しています。
このアーミッシュの人々のことは何度もご紹介してきました。しかし自分の心が弱くなり、贅沢を憧れる度に何度でも書くようにしています。

私は1989年と90年にオハイオ州立大学で働いていたことがあります。単身赴任でしたので、週末になるとオハイオ州の農村地帯をよくドライブして楽しみました。
その折りに近代文明を拒否して原始的な生活をしている村落を偶然見つけたのです。帰宅していろいろ調べてみました。そしてアメリカ人の同僚に聞きましたところ、是非訪問して一泊してみなさいと言われました。
アーミッシュ派の人々は自動車、電気、ガス、水道を拒否して、中世のヨーロッパの農村生活を現在でも続けているのです。
アーミッシュ派はルターの宗教改革で生まれた純粋原始キリスト教の一派で絶対平和主義の信仰を守っている人々です。

私はオハイオ州の北部にあるアーミッシュ村を1990年に訪問し、一泊しました。
その時の旅行記をご紹介したいと思います。
@アーミッシュ村の風景
アーミッシュの村に入ると、「路上で黒塗り箱型の馬車が近付いたら徐行すべし」という意味の絵看板が増えてきます。
周りは一面の実り豊かな麦畑です。その間に牛馬がのんびり草を食む牧場が散在し、素朴な木造一階建ての農家が栃の大樹の木陰に見え隠れしています。
看板通りの黒塗りの箱形馬車が近付いて来ます。慌ててブレーキをかけ、徐行しながらすれ違います。手を挙げて挨拶をすると、黒いシルクハットをかぶり、襟の小さな黒い背広を着た老人が目を上げないで、手をわずかに振って挨拶を返すのです。
麦畑では刈り取った麦束を馬車に積み上げています。農夫はさすがに上着を脱ぎ、黒いチョッキ姿で汗を流しながら一心に働いていました。

アーミッシュに車で観光に行った場合のマナーを大学の同僚が教えてくれまさいた。
「御土産店、喫茶店、民宿の前以外の道端に絶対車を停めないこと。馬車が見えたら急いで減速し徐行せよ。必ず挨拶をすること。しかし相手の目を見たりしない。もちろん話し掛けてはいけない。女性は黒い長い服を着ているが、車と馬車がすれ違う時、前から覗き込んではいけない。アーミッシュ専用のスーパーマッケットがあり、黒い馬車がたくさん止まっているが、スーパーの店内へ入ってはいけない。ソーッと遠方から眺めるだけにすること」「御土産店では村への入場料のつもりで多めにチーズやヨーグルトを買って上げなさい」

@その豊かな人生の質
夜は木造2階建ての民宿に泊まりました。部屋にはローソクしかないが、外の方が明るいのです。窓から見ると、満天の星空です。
「夕食ですよ」と呼びに来たので食堂へ降りて行きます。
食堂には明るく電気がついています。新鮮なホーレン草のサラダと鶏肉のソテーのみでしたが、農薬を使わないので実に美味しいのです。もちろんビールや酒類は一切ありません。
布に包んだ温かい焼きたてのパンが籠に入って出てきます。

そばに座ってくれている女主人にいろいろ聞きました。電気は来ているので、冷蔵庫、洗濯機、井戸水の汲み上げポンプには電気を使っていると言います。そして食堂と調理場だけは電燈が灯っています。
アーミッシュの人の職業は農牧業しか許されていないので、民宿やスーパーマーケット、御土産店などの経営者は普通のアメリカ人だそうです。

「ところで、明日、アーミッシュの人々の生活を見たいし話も聞きたいので、誰か紹介してくれませんか」
「泊り客はそういうことをよく頼みます。でも丁重にお断りしています。アーミッシュの信仰中心の日常生活を邪魔しない。それが正しい接し方と思いますよ。」「日本にもキリスト教徒がいるのですか?」

五島列島の隠れキリシタンの250年の歴史や現在のキリスト教信者の話をしながら、ふと気が付いたらもう十時を過ぎていました。ローソクの炎の揺れる暗い部屋へ引き揚げ、星明りの窓の外をもう一度見てベッドへ潜り込みました。
アーミッシュの村は静けさに満ち、時がゆっくり流れている。ここには間違いなく人生の豊かさがあると思いました。
しばらく帰っていない日本の人々の生活を想い、日本の「人生の豊かさの質」を考えているうちに眠ってしまいました。

さて、そのアーミッシュの生活を示す写真をお送りします。

1番目の写真は自動車を使わない彼等の日常の乗り物の馬車です。

2番目の写真は多人数が乗れる大型の馬車です。

3番目の写真は彼等の家の中の様子です。衣類も壁にぶら下がっているだけで、何枚もクローゼットに並べて吊るしておくほど沢山持っていません。下着は箱にしまい、農作業と礼服を共用する黒い服を毎日着ています。

4番目の写真は彼等の農作業の様子です。
農作業にはトラクターは一切使いません。この写真のように馬車と人力だけで刈り取りを行います。

5番目の写真はアーミッシュの村の静かな夕方の様子です。彼らの村は本当に静かなのです。
彼らはアメリカの義務教育を受ける義務はありません。税金も収める必要もありません。しかし徴兵には従うのでアメリカ人としての国籍を持っています。徴兵に応ずるときは徴兵期間を延長して平和的な看護兵や後方勤務につきます。

さて日本にはいろいろな仏教の宗派があります。しかしこのアーミッシュのように近代文明を排除して質素な生活をしている宗派はあるのでしょうか?
何か深く考えさせられます。

写真の出典は以下通りです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Amish 
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&q=%EF%BC%A1%EF%BD%8D%EF%BD%89%EF%BD%93%EF%BD%88&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=univ&sa=X&ei=x21sTdiDCoXovQPLhoHYBA&ved=0CDQQsAQ

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

日本の伝統的風景とヨーロッパ文化の風景

2017年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム
デジタルカメラの普及で手軽に鮮明で美しい写真が撮れるようになりました。
そのお陰で多くの人が沢山の写真を撮っています。私はもともと節操が無い傾向があるのでこの流行に乗って毎日沢山の写真を撮っています。
節操が無いと言っても私なりの多少のこだわりがあります。主題を日本の美しい風景にしているのです。
そして風景を日本の伝統的な風景とヨーロッパ文化の影響を受けた風景と分類しています。
そうするとその風景の背後にある人々のいとなみの歴史が見えて来て面白いのです。
明治維新の大きな変革がよく理解出来るので興味深い思いがするのです。明治維新で変わったもの、変わらなかったものが見えて来るのです。
昨日も江の島に行って、2種類の写真を撮って来ました。その対比を見ると日本の文化についていろいろ想われて楽しいのです。
それでは早速、日本の伝統的な風景の写真から始めます。

1番目の写真は江の島神社の入り口の写真です。この神社は日本三大弁天の一つに数えられています。1182年、源頼朝の命により文覚が島の岩屋に弁財天を勧請しました。これをもって創建とする人が多いようです。
しかしよくあるように社伝によれば、欽明天皇13年(552年)に天皇の勅命により、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝えられています。
この写真の入り口の門は近年建てられたものですが、その形が日本の伝統的な風景になっています。

2番目の写真は江戸時代の寛政元年に創業したダンゴ屋の店先です。古そうな店なので入ってダンゴを注文しました。この江の島弁天さんの参道が賑わったのは江戸時代だと言われています。座って店内や表の通りの人々を見ていると江戸時代に帰ったような気分になります。しかし店のショーケースのガラスは無かった筈です。そして人々はきっと質素な着物を着ていたに違いありません。隣には江戸時代の老婦人のような家内が古風な夫婦饅頭を静かに食べています。この写真も日本の伝統的な風景の写真と思います。

3番目の写真は江の島ヨットハーバーの風景です。ヨーロッパ文化にとって重要な役割を果たした西洋式の帆船が並んでいます。

4番目の写真もヨットの写真です。ヨーロッパにあるヨットハーバーと同じような風景写真です。日本には昔から帆船がありました。しかしヨットと呼ばれる帆船はヨーロッパで設計された図面通り忠実に作られた船です。その部分品一つ一つがヨーロッパ文化を背負っているのです。ヨットに何年も乗っているとヨーロッパ文化が深く理解出来るのです。

5番目の写真はカティーサークというヨットの写真です。
昔、カティーサーク号はインドや中国からロンドンまで快速で紅茶を運ぶ帆船でした。紅茶の香りが抜けないように快速で走ったのです。
カティサーク号は1869年に進水し、1954年に引退し、現在はグリニッジに展示公開されています。

この写真のヨットは往年のカティサークにちなんだ名前をつけたのです。しかしキャビンが大きく重そうなヨットのように見えるので本当に快速かなあと考え込んでしまいました。
むしろこのヨットの魅力は重厚な走りをする北欧の木造ヨットに似ていることだと思います。閑話休題。

このように日本の風景写真を日本の伝統的な風景とヨーロッパ文化の影響を受けた風景と分類して撮るのが私の趣味です。しかし風景によっては2つの伝統文化が混然一体になっている場合もあります。困っています。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===江の島の弁天さんとは================
歴史;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE
江島神社は、神奈川県藤沢市江の島にある神社である。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。日本三大弁天の一つに数えられる。

社伝によれば、欽明天皇13年(552年)、神宣に基づき欽明天皇の勅命により、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝える。神仏習合により当社は金亀山与願寺と称する寺となった。『吾妻鏡』によれば、寿永元年(1182年)、源頼朝の命により文覚が島の岩屋に弁財天を勧請したとあり、これをもって創建とすることもある。歴代の鎌倉幕府将軍・執権や、代々の領主から崇敬を受けた。江戸時代には弁才天信仰が盛んになり、多くの庶民が参詣するようになった[2]。
当社には岩本坊・上ノ坊・下ノ坊の3つの別当があり、それぞれ岩屋本宮(現在の奥津宮)・上之宮(現在の中津宮)・下之宮(現在の辺津宮)を管理していた。その中で岩本坊は総別当とされ、江島寺とも称した。慶安2年(1649年)に京都・仁和寺の末寺となってからは、岩本坊のみ院号の使用が認められて「岩本院」と称するようになった。三坊は競って当社の縁起を説いて回り、参詣者を集めた。そのうちに利権争いが起こり、寛永17年(1640年)、岩本院は幕府からの朱印状を得て上ノ坊を吸収した。後に下ノ坊も支配するようになり、岩本院が全島の権益を握ることとなった。
明治元年(1868年)の廃仏毀釈により三重塔の他多くの仏教施設や仏像などが破壊された。明治6年(1872年)には、仏式を廃して神社となり「江島神社」へ改称、県社に列せられた。同時に僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、岩本院は参詣者の宿泊施設としても利用されていたことから、旅館となり「岩本楼」へ改称した