昨日は春のように暖かい一日でした。午後から家内と一緒に小金井公園の梅の花の写真を撮りに行きました。
私の趣味は花の写真を撮る、ネットに投稿する、そしてその花の歴史を調べる、というような作業をすることが趣味なのです。
梅の花は欧米では見た経験がありません。梅干しのある日本でしか見たことがありません。日本に縄文時代から梅は自生していたに違いないと思い込んでいました。ところがこの思い込みは大間違いでした。梅は弥生時代に稲作とともに中国からやって来た渡来植物だったのです。
弥生時代前期~古墳時代の遺跡から梅の遺物が出て来るのです。 山口県・大阪府・奈良県・京都府・石川県・東京都などの弥生遺跡から梅の木の断片や梅の種が出て来るのです。
梅が中国大陸から渡来し、日本で普及していく様子は、 稲作が広まってゆく様相とほぼ同じとみられます。
原産地は中国長江流域と考えられています。
しかしそれ以前の縄文時代の遺跡から、梅の遺物は発掘されていないのです。 梅は、弥生時代に渡来したと断定して良いようです。
下って奈良時代になると花と言えばウメを指すことの多いようになります。
平安の貴族は初春に人知れず咲く梅の花に魅了されたようです。
万葉集で花の和歌の中で数が一番多いのは萩の花で、二番目は梅で119首もあります。当時は花の代表は春の梅と秋の萩だったのです。
ところが平安時代から花と言えば桜を指すようになりました。江戸以降は花見といえば桜となったのです。
日本人の好きな花は時代によって変遷して行くのですね。
梅の木が中国から渡来したとなれば杜甫や李白の漢詩に梅の花を主題にした漢詩がある筈です。
調べていくと唐の時代よりずっと後の元の時代の高 啓の漢詩が有名なようです。以下にご紹介いたします、
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梅 花 <高 啓>
(出典は、http://www.kangin.or.jp/what_kanshi/kanshi_B22_1.html です)
瓊姿只合に 瑤臺に在るべし
けいしただまさに ようだいにあるべし
誰か江南に向かって 處處に栽えたる
たれかこうなんにむかって しょしょにうえたる
雪滿ちて山中 高士臥し
ゆきみちてさんちゅう こうしふし
月明らかにして林下 美人來る
つきあきらかにしてりんか びじんきたる
寒は依る疎影 蕭蕭の竹
かんはよるそえい しょうしょうのたけ
春は掩う殘香 漠漠の苔
はるはおおうざんこう ばくばくのこけ
何郎去って自り 好詠無し
かろうさってより こうえいなし
東風愁寂 幾回か開く
とうふうしゅうせき いくかいかひらく
この漢詩の意味は次のようなものです。
玉のように美しい梅の姿は、仙人の住む高殿にあるのがふさわしいのに、誰が江南の処どころに植えたのであろう。
雪が満ちた山中に高潔な人格者が寝ているように、また月の明るい林下に美人が来たかと疑われる。
寒さの中、梅の疎(まば)らな影によりそうのはさやさやとそよぐ竹、春には梅の残り香がびっしりとしきつめられた 苔を掩いかくしている。
何遜が去ってしまってからは梅を詠じた良い詩はなく、春の風が吹くたびに、かなしくさびしく幾度咲いてきたことで あろう。
高 啓は杜甫や李白ほど有名ではありません。でもこの漢詩は春さきに真っ先に咲く梅の花の美しさや淋しさを美しく詠っています。
彼は1336年生まれ、1374年に38歳で処刑死しています。
名は啓、字は李迪(りてき)、江蘇省蘇州市の人で、元末期の惠宗至元2年 の生まれ。幼にして頴敏、文武に優れ、詩文に巧みで史学に深かった。呉淞の青丘に住み、 青丘子と号す。元朝に抵抗して蘇州に政権を樹立した張士誠の文学集団に出入した。官に就くも辞めて自活、のち罪に連座して処刑される。時に38歳、明初期 最大の詩人で呉中の四傑(楊基、張羽、徐賁)に数えられています。
薄命な詩人だったのですね。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)