後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今年も梅が満開になりました、そして梅花の漢詩

2017年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム










昨日は春のように暖かい一日でした。午後から家内と一緒に小金井公園の梅の花の写真を撮りに行きました。
私の趣味は花の写真を撮る、ネットに投稿する、そしてその花の歴史を調べる、というような作業をすることが趣味なのです。

梅の花は欧米では見た経験がありません。梅干しのある日本でしか見たことがありません。日本に縄文時代から梅は自生していたに違いないと思い込んでいました。ところがこの思い込みは大間違いでした。梅は弥生時代に稲作とともに中国からやって来た渡来植物だったのです。
弥生時代前期~古墳時代の遺跡から梅の遺物が出て来るのです。 山口県・大阪府・奈良県・京都府・石川県・東京都などの弥生遺跡から梅の木の断片や梅の種が出て来るのです。
梅が中国大陸から渡来し、日本で普及していく様子は、 稲作が広まってゆく様相とほぼ同じとみられます。
原産地は中国長江流域と考えられています。
しかしそれ以前の縄文時代の遺跡から、梅の遺物は発掘されていないのです。 梅は、弥生時代に渡来したと断定して良いようです。

下って奈良時代になると花と言えばウメを指すことの多いようになります。
平安の貴族は初春に人知れず咲く梅の花に魅了されたようです。
万葉集で花の和歌の中で数が一番多いのは萩の花で、二番目は梅で119首もあります。当時は花の代表は春の梅と秋の萩だったのです。
ところが平安時代から花と言えば桜を指すようになりました。江戸以降は花見といえば桜となったのです。
日本人の好きな花は時代によって変遷して行くのですね。

梅の木が中国から渡来したとなれば杜甫や李白の漢詩に梅の花を主題にした漢詩がある筈です。
調べていくと唐の時代よりずっと後の元の時代の高 啓の漢詩が有名なようです。以下にご紹介いたします、
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梅 花    <高 啓>
(出典は、http://www.kangin.or.jp/what_kanshi/kanshi_B22_1.html です)

瓊姿只合に 瑤臺に在るべし
けいしただまさに ようだいにあるべし

誰か江南に向かって 處處に栽えたる
たれかこうなんにむかって しょしょにうえたる

雪滿ちて山中 高士臥し
ゆきみちてさんちゅう こうしふし

月明らかにして林下 美人來る
つきあきらかにしてりんか びじんきたる

寒は依る疎影 蕭蕭の竹
かんはよるそえい しょうしょうのたけ

春は掩う殘香 漠漠の苔
はるはおおうざんこう ばくばくのこけ


何郎去って自り 好詠無し
かろうさってより こうえいなし

東風愁寂 幾回か開く
とうふうしゅうせき いくかいかひらく


この漢詩の意味は次のようなものです。
玉のように美しい梅の姿は、仙人の住む高殿にあるのがふさわしいのに、誰が江南の処どころに植えたのであろう。
雪が満ちた山中に高潔な人格者が寝ているように、また月の明るい林下に美人が来たかと疑われる。
寒さの中、梅の疎(まば)らな影によりそうのはさやさやとそよぐ竹、春には梅の残り香がびっしりとしきつめられた 苔を掩いかくしている。
何遜が去ってしまってからは梅を詠じた良い詩はなく、春の風が吹くたびに、かなしくさびしく幾度咲いてきたことで あろう。

高 啓は杜甫や李白ほど有名ではありません。でもこの漢詩は春さきに真っ先に咲く梅の花の美しさや淋しさを美しく詠っています。

彼は1336年生まれ、1374年に38歳で処刑死しています。
名は啓、字は李迪(りてき)、江蘇省蘇州市の人で、元末期の惠宗至元2年 の生まれ。幼にして頴敏、文武に優れ、詩文に巧みで史学に深かった。呉淞の青丘に住み、 青丘子と号す。元朝に抵抗して蘇州に政権を樹立した張士誠の文学集団に出入した。官に就くも辞めて自活、のち罪に連座して処刑される。時に38歳、明初期 最大の詩人で呉中の四傑(楊基、張羽、徐賁)に数えられています。

薄命な詩人だったのですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

年老いて妻と静かに歩むロウバイの小道

2017年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム
これは昨日の日記です。日曜日の朝は少し内容のある文章を書くことにしています。
そこで一昨日見た『沈黙 -サイレンス-』という映画の感想文を書きました。
その書き出しはこうでした。
・・・島原の乱も終り、江戸幕府のキリシタン弾圧がほぼ終了した時代に、2人のポルトガル人神父が行方不明の司祭を探しに無謀にも九州へ潜入した来たのです。ロドリゴ神父とガルペ神父です。
かつて尊敬していた司祭のフェレイラ神父は棄教し、幕府側になってキリシタンを捕縛、棄教させる役をしているという噂です。潜入したロドリゴ神父とガルペ神父は信者にかくまわれながらフェレイラ神父を探しまわります。
しかし2人とも捕まってしまい棄教を迫られます。ガぺラ神父は海に落とされた信者を助けようとして飛び込み、自分も役人に海に沈められて絶命します。
一方、ロドリゴ神父は生きてフェレイラ神父についに会うことが出来ました。しかしかつて尊敬していた師、フェレイラ神父は沢野忠庵と言う日本名を使用していてロドリゴ神父に棄教を迫ります。苦悩の末に棄教したロドリゴ神父は幕府から日本名を貰い、処刑された日本人の妻女を妻としてあてがわれます。
そして死ぬまで幕府側のキリシタン取り締まりに協力します。

以上のようなストーリーですがこの物語の特異点は、キリシタン弾圧のほぼ終わった頃に、無謀にも潜入をした若い2人の神父とそれを支える隠れキリシタン達との強い絆と愛の物語という点にあります。・・・

内容が深刻な映画でしたので感想文を書いて疲れました。
それからミサへ行きました。何時ものようにディン主任司祭が司式をしてくれました。

午後は府中市の郷土の森博物館公園の蝋梅の小道を妻と共に静かに歩いて来ました。
ローバイの花は決して豪華な印象ではありません。淡い色合いの小さな花です。
楚々と静かに咲いています。良い香りが小道に漂っています。
老境に至って私は初めてこの花が好きになりました。写真をお送り致します。

1番目の写真はロウバイの小径の写真です。左端に妻が写っています。このような小径が80メートルほど細々と続いています。

2番目以下の写真はいろいろな形と色合いの違うロウバイの花々の写真です。素芯蝋梅、満月蝋梅、唐蝋梅など華やかに咲いていますが、寂しげな花です。





このようなロウバイの小径のそばに広大な梅林が広がっています。
数本だけ早咲きの梅の木が満開になっていました。写真をお送りしたいのですが、今日はロウバイに忠誠を誓い、ロウバイの写真だけをお送りします。
帰りがけに何時ものように醤油味だけのダンゴを食べます。妻が好きなのでこの公園に来ると必ず食べます。甘さの無い醤油味は懐かしい味です。砂糖が貴重だった江戸時代の味に違いありません。
背後で年老いた夫婦も食べています。夫が物知りそうに「このダンゴは業務用のスーパーで売っている。それに醤油をつけて焼くとこうなるのだ」と妻へ説明しています。妻の方は感心したように「そうですか。それではうちでも作れますね」と言っています。夫婦仲の良いのは分かりましたが、夫婦の会話はあまり内容が無いですね。社会性もありません。嗚呼、私も注意しましょう。
などとつまらないことを考えながら公園を後にしました。
こうして一日が終わりました。無為の日々の一日でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)