後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

1917人の流人が貢献した八丈島の繁栄

2017年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム
八丈島は大和朝廷のころは形式的には駿河の国へ属していました。しかし遠島のため直接的な統治はほとんど無かったと考えられています。
直接的な支配は室町時代末期に北条早雲の家来が代官として大賀卿村の大里に陣屋を作ったころから始まります。
それ以前は室町時代に鎌倉公方を補佐する関東管領の上杉憲顕が派遣した代官も居たという記録もあるようです。しかし、船旅の危険が大きいためほとんど独立的な孤島でした。
ところが江戸幕府は早雲の派遣した代官の陣屋跡に島役所を作り、八丈島を江戸幕府の直轄領にして直接統治をし始めたのです。犯罪人を遠島にする島として利用しはじめたのです。
それとともに幕府は従来から住んでいる島民に年貢を荷しはじめます。独特の染め方をした絹織物、黄八丈を年貢として納めさせたのです。
江戸時代になって始めての流人は関ヶ原の合戦で敗れた秀吉の家老であった宇喜多秀家とその付き人一行でした。一行は1606年に島に到着しています。
それ以来幕末までに合計1917人の流人が八丈島へ流されたのです。

江戸幕府の島役所は島の中央部の大賀卿村の高台の上にあり、その付近には大里と呼ばれるが出来ます。島役人とその家族の住む家もありました。その屋敷の回りには流人が営々として海岸から運び上げた玉石の石垣が出来ていいます。
以下の写真はすべて私が撮ったものです。

1番目の写真は現在も残っている玉石の石垣です。

2番目の写真は江戸幕府の島役所のあった場所の写真です。現在は大里というバス停があるのみで建物はありません。
現在も石垣は大里の中にあり、その中の家には人々が住んでいます。家々は江戸時代そのままの玉石垣で囲まれていて八丈島の昔の面影を残しています。

3番目のの写真は1606年に八丈島へ流人として到着した宇喜多秀家のお墓です。現在でも毎朝活けたような瑞々しい切り花が飾ってあります。
秀家の回りにある縁者の小さな墓石の前にも切り花が供えてあります。いったい誰が供えるのでしょう?

秀家は秀吉の一字を貰った五大老の一人で朝鮮出兵で活躍し、帰国後は岡山城の大改修をし、備前・美作57万石の領主でしたが関ヶ原で敗将になってしまいました。
八丈島へは長男の孫九郎や前田藩の医師、村田道珍斎や総数13名で島へ到着しました。流罪には正妻の豪姫以外の長男、医師、その他の付き人が許されたのです。その後の差し入れも許されました。
豪姫の実家は前田藩で、実子の居ない秀吉の養女になり、秀吉の重用する秀家の正妻になったのです。

前田藩は秀家存命中は勿論、子孫の宇喜多氏へ、2年毎に白米70俵と35両の現金、衣類、薬品、雑貨などを仕送りしていました。この仕送りは明治2年赦免になり東京へ帰るまで続きました。従って宇喜多秀家は島の人々にとっては感謝、尊敬される存在でした。
宇喜多一族は次第に増え、島の重要な家族として八丈島の繁栄に貢献します。歴史民俗資料館には宇喜多秀吉の関連資料だけを展示している一つの大きな部屋があります。

八丈島の繁栄に貢献したのは宇喜多一族だけではありません。
八丈島へは1917人の流人が来ました。粗暴犯の他に江戸幕府や仏教界での権力闘争に敗れた政治犯も多かったのです。これらの人々は知的レベルも高く、島の文化へ大きな貢献をしました。
歴史民俗資料館発行の資料解説No.5には20人ほどの流人の名前を記し、島への貢献の内容を説明しています。
養蚕業と黄八丈と呼ばれる絹織物を伝えた人、サツマイモを伝えた流人、薩摩焼酎の作り方を伝えた人、詩歌管弦の指導をした風流な流人、などなどの名前を明記し、現在でも感謝しています。
中には大工の棟梁も居て、島でも弟子をとり、多くの大工を育てた人もいます。
これらの文化発展を総称して「流人文化」といい、八丈島の人々は現在でも誇りにしています。

一例として色々な焼酎が作られています。
幕末に八丈島へ初めて芋焼酎の製法を伝えたのは薩州出水郡阿久根村の丹宗庄右衛門です。その伝統を受け継いで、現在でも薩摩流の焼酎醸造が盛んで色々な焼酎が売りだされています。

4番目の写真は現在、八丈島で作られている焼酎の写真です。2009年の1月31日午後に八丈島空港の売店で写した写真です。写真にある焼酎の他にも実にいろいろな製品が販売されています。八丈島焼酎を検索すると全ての焼酎を見ることが出来ます。
尚、丹宗庄右衛門は島津藩御用の回漕問屋で苗字帯刀を許されていました。島津藩に保護されながら、藩財政立て直しのための密貿易をしていました。しかし、幕府に逮捕され嘉永6年八丈島に流されました。在島15年、漸く明治元年に赦免されました。島の新しい産業への貢献を感謝する記念碑があります。

明治維新後、島には水力発電所も作られ電灯もつきました、稲作や乳牛飼育も盛んでしたが現在はそれらの産業はなくなりました。
現在の産物はフリージアやハイビスカスのような花々の栽培とフェニックス・ロベレニーの栽培が主な産業になっています。
その他、珍しいものにはクサヤ、明日葉、パッションフルーツ、ぶどー( 海藻を煮出して味付けした八丈島独自の郷土料理)などがあります。

5番目の写真は八丈島のハイビスカスの花です。
東京都八丈町は人口が8200人くらいで5つの集落があり、数多くの温泉があります。都立高校も病院もスーパーもあり住むには困らないようです。観光客も多く、なかなか賑わっている様子です。
温かくなりましたなら是非お出掛け下さい。羽田空港からの航空便と竹芝からの客船があります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)