後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「智恵子は東京に空が無いといふ」

2018年08月03日 | 日記・エッセイ・コラム
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。

いや本当に私もそのように思います。
私は仙台に生まれ育ったので東北地方の空を知ってます。深い青色の高い空です。東京の空は汚れた青で低い空です。仙台の七ツ森の山並みの上にある青空が本当の空です。
そこで暇さえあれば奥多摩や高尾の空を見に行きます。緑の山々を見に行きます。
そうしないと身体が保たないような気分になります。
そこで今日も裏高尾に行って浅川の流れや緑なす山並みと空を眺めて来ました。
ついでに何時も行く国有林の桂の林も眺めてきました。
ミンミン蝉とツクツク法師と油蝉が一緒に鳴いていました。
そして高村光太郎の智恵子抄の詩を考えて来ました。
写真をお楽しみ下さい。









・・・・高村光太郎、「智恵子抄」より・・・・・・・・・・・
あどけない話

智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山あたたらやまの山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
樹下の二人
――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――

あれが阿多多羅山あたたらやま、
あの光るのが阿武隈川。

かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、
うつとりねむるやうな頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬のはじめの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。

あなたは不思議な仙丹せんたんを魂の壺にくゆらせて、
ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
無限の境に烟るものこそ、
こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
むしろ魔もののやうに捉とらへがたい
妙に変幻するものですね。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫さかぐら。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡つた北国きたぐにの木の香に満ちた空気を吸はう。
あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いてゐます、
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。
・・・・・・・・・・・・・・・・
レモン哀歌
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉のどに嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓さんてんでしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

天安門事件記念日に中国を非難したポンペオ米国務長官

2018年08月03日 | 日記・エッセイ・コラム
今年の6月4日は天安門事件の29周年目の悲しい記念日でした。
日本のマスコミは何も言わなかったのですが、トランプ政権のポンペオ米国務長官は中国の天安門事件での人権蹂躙を激しく非難する声明を発表しました。即刻、中国政府は厳しく反発します。
そこで今日は次の3つのことを簡略に書きます。
(1)ポンペオ米国務長官の非難声明の内容
(2)天安門事件の犠牲者は10000人というイギリスの機密文書
(3)天安門事件は現在もアメリカの国内問題
それでは早速、順々に説明します。
(1)ポンペオ米国務長官の非難声明の内容
天安門事件から29年目にあたり、 米国は中国政府に死者数の公表を要求する声明を発表しました。(http://www.afpbb.com/articles/-/3177205 )
これを報じた、2018年6月4日のAFPニュースを次に示します。
中国の首都北京にある天安門広場で軍が民主化運動を武力弾圧した「天安門事件」から、4日で29年目を迎えた。これにあわせて米国は、事件の犠牲者数を公表するよう求め、中国が強く反発した。
 マイク・ポンペオ米国務長官は、「罪のない人々の命が奪われた悲劇を忘れない」とする声明を発表。
中国共産党は1989年6月4日、天安門広場周辺で行われていた平和的な民主化運動を戦車で鎮圧した。
 中国では、数百人、恐らくはさらに多数が亡くなったとされる同事件について、公の場で議論することは禁じられている。一方、昨年公開された英国の外交機密電報には、1万人以上が死亡したと記されていた。
 ポンペオ氏は、ノーベル平和賞受賞者で、昨年獄中でガンで死去した反体制派の劉暁波氏が残した「6月4日の魂はいまだ安息せず」という言葉を引用し、「わが国は国際社会と一致団結し、事件の死者、拘束者、行方不明者などの数の完全な公式統計を公表するよう、中国政府に求める」と記した。
 これに対し中国外務省の華春瑩報道官は定例会見で、「中国政府は1980年代末に発生した政治混乱について、既に明確な結論に至っている」と反論。
 ポンペオ国務長官の声明は「根拠もなく中国政府を非難し、内政に干渉している。中国側は強い不満を抱き、断固反対する」と述べ、米国に対し公式な外交ルートを通じて抗議したことを明らかにした。
 華報道官はさらに、「わが国は米国に対し、偏見を捨て、過ちを正し、無責任な発言を控え、中国への内政干渉をやめるよう求めるとともに、中米関係の悪化を招く行為に及ぶのではなく、関係発展のため努力するよう要請した」と述べた。(終り)

(2)天安門事件の犠牲者は10000人というイギリスの機密文書
英国で新たに公開された外交文書によると、中国当局が民主化運動を弾圧した1989年の天安門事件で、中国軍が殺害した人数は少なくとも1万人に上ると報告されていることが明らかになったのです。
これを報じた、これを報じた、BBCの2017年12月26日の報道を転写します。(https://www.bbc.com/japanese/42482642 )
・・・「1万人」という人数は、当時のアラン・ドナルド駐中国英国大使が1989年6月5日付の極秘公電で英国政府に報告した。大使は、中国国務院委員を務める親しい友人から聞いた情報から入手した数字だと説明している。
天安門事件の死者数はこれまで、数百人~1000人以上と、様々に推計されていた。
中国は1989年6月末に声明で、1989年6月4日の「反革命暴動」を弾圧した、北京では市民200人と治安部隊数十人が死亡したと発表していた。
一連の関係文書はこれまでロンドンの英国立公文書館で保管されていた。2017年10月に機密指定が解除され、香港のニュースサイト「香港01 」が閲覧した。
ドナルド大使によると、情報源は事件以前から信頼できていた人物で、「事実と憶測と噂を慎重に区別」していたという。
大使は当時、「学生たちは広場退去まで1時間の猶予を与えられたつもりでいた。しかし、5分後に装甲兵員輸送車が攻撃を開始した」と書いている。
「学生たちは腕を組んで対抗しようとしたが、ひき殺されてしまった。
(以下、あまりにも残酷な描写なので省略します)

上の記事では10000人以上としていますが、皆様はこの数を信用されますか?
客観的な第三者による調査結果ではありません。だからこそトランプ政権は今年の6月4日に正確な犠牲者数を
発表するように中国政府に要求したのです。

(3)天安門事件は現在もアメリカの国内問題
1989年の6月4日は、私はオハイオの大学で働いていまそた。私の学科には中国本土からの留学生が数十名いました。学科主任のセント・ピエール先生が中国人の留学生を集め中国への長距離電話の代金は自分が持つから何度でも家族や知人に電話して良いですと言ったのです。
そして同僚の先生たちが中国での人権蹂躙を激しく非難していました。口角泡を飛ばして中国政府を許せないと言っていました。アメリカ人は人権に敏感なのです。天安門事件で自分の人権が侵されたように感じるのです。
その上、アメリカには中国系の人が非常に多いのです。
トランプ政権が天安門事件の日に何も言わなければ次回の投票が不利になるのは明らかです。
ですからこそ天安門事件は現在でもアメリカの重要な国内問題なのです。
一方、天安門事件は現在の悪い日中関係のキッカケになっているのです。
その事情を簡略に以下に示します。
天安門事件の原因は鄧小平と胡耀邦の抗争の結果起きた悲劇だったのです。
胡耀邦は、はじめは鄧小平の忠実な配下でした。1980年から1987年までは中国共産党中央委員総書記でした。胡耀邦の改革路線や民主化政策の旗手だったのです。
1983年に中曽根総理と会い、その親日的態度にすっかり感銘を受けた中曽根さんが以後、靖国神社参拝を止めたことは有名な話です。
この日本を大切に思っていた権力者が1987年に鄧小平によって解任され、1989年に病死したのです。
そして鄧小平が豹変し、親日政策を撤回したのです。
それから中国の対日抗争が始まるです。

1番目の写真は胡耀邦の写真です。彼は中国の歴史から抹殺されました。彼のことを語るのも一切許されていません。
鄧小平は共産党独裁こそが中国の経済発展の絶対条件だと固く信じたのです。
そして1989年の4月15日に胡耀邦が病死します。
すると6月4日に、「民主化の希望だった胡耀邦」の死を悼む民衆が、天安門に集まり、慰霊式典をしようとしたのです。当然のことながら慰霊式典とデモは政治の民主化要求の運動でもあったのです。
そこで鄧小平は躊躇なく天安門広場へ戦車部隊を送り込んだのです。
北京から遠く離れた場所に駐在していた戦車部隊をあらかじめ呼び寄せて武力鎮圧の準備をしていたのです。
鄧小平の断固とした決断を示しています。
それが天安門事件のいきさつでした。日中関係が悪くなる出発点になったのです。
一言付け加えます。
胡耀邦は1980年5月29日にチベット視察に訪れ、その惨憺たる有様に落涙したと言われます。
ラサで共産党幹部らに対する演説にて、チベット政策の失敗を明確に表明して謝罪し、共産党にその責任があることを認め、ただちに政治犯たちを釈放させ、チベット語教育を解禁したのです。しかし、この政策は党幹部から激しく指弾され、1887年の胡耀邦の更迭後撤回されたのです。胡耀邦は善い人間だったのです。

2番目から7番目の写真に天安門事件の写真を示します。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


写真の出典は、『写真が伝える天安門事件 「血の日曜日」に何が起きたのか。』です。
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