後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本のおもな洋画家80人の大作の合同美術展

2018年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
嗚呼、見ると大変疲れる展覧会です。
日本の有名な洋画家の、それぞれ作風がまったく違う力作が40点並んでいます。40点ずつを展示時期を2回に分けて合計80点展示しています。北海道から沖縄までの国立公園の風景が描かれています。
絵画に詳しくない私でも何人もの画家の名前は憶えています。その展示作品を見ると同じ画家の他の油彩画を思い出そうとします。そうしないと隣にある違う画家の絵画の前に移動できないのです。
私はまだ認知症になっていませんが老人性の度忘れが付きまといます。かたわらの家人が他の絵を思い出して教えてくれます。
昨日はこんな展覧会の後期の展示の40作を見て来ました。

『絵画で国立公園めぐり―巨匠が描いた日本の自然―』という展覧会です。
会場は小金井市立はけの森美術館です。
今回の企画展の会期は、
前期:8月4日(土曜)から8月26日(日曜)までと後期:8月28日(火曜)から9月17日(月曜・祝日)までです。
作品は大体同じ大きさで、縦横、65cmX 80cmの大作が2回に分けて40枚ずつ展示します。
それぞれの画家が本気て取り組んだ芸術性豊かな油彩画なのです。
すべて文部省関係者が選んだ昭和の有名な洋画家です。文部省の予算で実施したようです。
絵画一枚、一枚が当然ながら画風がまったく違うことです。
それではこの企画展の様子を写真で示します。

1番目の写真は会場の小金井市立はけの森美術館です。

2番目の写真は1934年、中村研一作の「大雪山」です。

3番目の写真は1956年、 中村琢二作、「妙高山」です。中村琢二は中村研一の弟です。

4番目の写真は1953年、鈴木信太郎作、「厳島」です。

5番目の写真は1953年、坂本繁二郎作、「黎明の根子岳」です。

6番目の写真は今回展示された80枚の油彩画の全てを所有、常設展示している「小杉放菴記念日光美術館」の内部の光景です。

7番目の写真は小杉放菴記念日光美術館の外部の光景です。

この小杉放菴記念日光美術館をここでご紹介する理由は、その展示品の数が多く内容が充実しているためです。日光市立の美術館で、日光出身の小杉放菴の日本画が多数あります。
この秋に日光に一泊して見に行くつもりです。
そして放菴の日本画の他に今回小金井市立はけの森美術館で展示された洋画も収蔵、展示されています。その主な絵画を以下に示します。

北海道から沖縄までの国立公園の絵画;
0102-NPAoJ01
中根寛
サロベツ原野より利尻礼文を望む
1977(昭和52)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm

0102-NPAoJ05
辻永
双湖台より見たるペンケ・パンケ
1932(昭和7)年
油彩・カンヴァス
60.6×80.3cm
阿寒国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ08
中村研一
大雪山
1934(昭和9)年頃
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
大雪山国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ13
林武
十和田湖
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
十和田八幡平国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ14
北川民次
八幡平
1957(昭和32)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
十和田八幡平国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ15
向井潤吉
浄土ガ浜
1957(昭和32)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
三陸復興国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ20
猪熊弦一郎
塩原の渓流
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
日光国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ23
中村善策
尾瀬沼
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
尾瀬国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ25
児島善三郎
発哺よりの展望
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
上信越高原国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ26
小山敬三
浅間山
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
上信越高原国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ27
中村琢二
妙高山
1956(昭和31)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
上信越高原国立公園
平成24年度/寄贈


0102-NPAoJ30
中川紀元
梓山
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
秩父多摩甲斐国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ31
三栖右嗣
小笠原父島から南島・母島を望む
1977(昭和52)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
小笠原国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ34
和田英作
三保富士
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
富士箱根伊豆国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ37
山下新太郎
黒部峡谷鐘釣附近
1932(昭和7)年
油彩・カンヴァス
80.3×65.2cm
中部山岳国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ38
中澤弘光
上高地大正池
1932(昭和7)年
油彩・カンヴァス
60.6×80.3cm
中部山岳国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ39
和田三造
中部山岳
1932(昭和7)年頃
油彩・カンヴァス
60.6×72.7cm
中部山岳国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ43
小磯良平
伊勢神宮
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
80.3×65.2cm
伊勢志摩国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ48
刑部人
鳥取砂丘
1970(昭和45)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
山陰海岸国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ50
牛島憲之
日御碕
1964(昭和39)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
大山隠岐国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ53
鍋井克之
新和歌ノ浦
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ54
野間仁根
摩耶山からの展望
1956(昭和31)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ55
田村孝之介
淡路島
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ56
小絲源太郎
鳴門
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈


0102-NPAoJ58
藤島武二
屋島よりの展望
1932(昭和7)年頃
油彩・カンヴァス
53.0×72.7cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ60
高畠達四郎
琴平宮
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ61
梅原龍三郎
朝の仙酔島
1932(昭和7)年頃
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ62
鈴木信太郎
厳島
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ63
須田国太郎
春の来島海峡
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ64
海老原喜之助
大華山
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ65
宮本三郎
姫島
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ68
小林和作
由布岳
1956(昭和31)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
阿蘇くじゅう国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ69
田崎廣助
久住山
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
阿蘇くじゅう国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ71
坂本繁二郎
暁明の根子岳
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
60.6×72.7cm
阿蘇くじゅう国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ72
石井柏亭
雲仙・春
1934(昭和9)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
雲仙天草国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ73
野口彌太郎
雲仙・夏
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
雲仙天草国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ74
三岸節子
天草
1956(昭和31)年
油彩・カンヴァス
80.3×65.2cm
雲仙天草国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ76
有島生馬
霧島連山遠望
1931(昭和6)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
霧島錦江湾国立公園
平成24年度/寄贈

少し長くなりましたが結論を書きます。
この『絵画で国立公園めぐり―巨匠が描いた日本の自然―』という展覧会は日本の洋画の愛好家にとっては是非見るべき展覧会と信じています。巡回とあるので全国各地に行くようです。
見逃したら日光の小杉放菴記念日光美術館で展示を確認した上でご覧になると良いと思います。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


東日本大震災を支援した台湾、韓国、中国、アメリカ、その他の国々を忘れない!

2018年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
なかなか実行出来ないことですが、懸情流水 受恩刻石という教えがあります。
「 情を懸けしは、水に流し、恩を受けしは、石に刻むべし」と読むそうです。短縮して刻石流水の四文字熟語もよく使われているようです。
そこで今日は「恩を受けしは、石に刻むべし」の教えに従って東日本大震災を支援した国々の恩を石に刻むような思いでもう一度お送りいたします。
あれからもう7年の月日が流れたのです。まず写真をご覧下さい。

1番目の写真は来日した台湾南部の泰武村の子どもたちが伝統舞踊を披露し、津波被害の大きかった岩手県山田町の子供達を励ました時の写真です。2012年2月28日、岩手県山田町で撮影した写真です。
台湾の支援は迅速で支援内容も実に充実していました。支援金額も最高レベルで日本人に感銘を与えたものです。

2番目の写真は台湾政府からの緊急援助物資の写真です。
馬英九総統は3月11日当日に「日本側の要請を受けたら、すぐに救援隊を出動したい」と語り、緊急救援隊を翌日3月12日に世界のどこよりも早く派遣してくれたのです。
物資支援として、3月14日~6月6日の間に発電機801台、毛布8735箱、寝袋3487箱、スリーピングマット236箱、衣類(防寒具、レインコート、手袋、マフラーを含む)6866箱、食品(クッキー、ポップコーン、米、缶詰等を含む)16.5㌧+18941箱などなどを送ってくれたのです。
日本側では北海道、青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県、東京都、新潟県、埼玉県、山梨県の災害対策本部、被災地、避難所等に至急送ったのです。

3番目の写真は港に散乱する漁網を日本人とともに片づけている米軍兵士です。
2011年3月12日以後の新聞にはアメリカ軍の大規模で、多岐にわたる救援活動が毎日のように報道されていました。この作業をアメリカ軍は「ともだち作戦」という名前をつけて大規模に展開したのです。

4番目の写真は倒れて通行の邪魔になっている立ち木を切り、取り除いている兵士の写真です。
これらアメリカの兵士は全て「ともだち作戦」に参加した兵士です。
アメリカ軍の支援は沖に停泊した航空母艦からの多量の救援物資のヘリによるピストン輸送でした。
単に物量を誇るだけではなく被災者の心に寄り添うものでした。
3番目と4番目の写真に示すように兵士は被災地の後片付けのために泥にまみれたのです。
そして港が津波で破壊された離島には上陸用舟艇で緊急上陸して食料を運び、後片付けに汗を流したのです。あるアメリカ海軍の小型艦艇は壊れていない港に接岸して船内のシャワーと風呂を泥まみれの被災者へ提供したのです。これは津波で家が流された被災者に非常に感謝されました。

この他に2011年4月1日の読売新聞一面には、「日米、不明者を一斉捜索」と題した記事が出ています。米海軍と海上自衛隊と海上保安庁の艦艇が一斉に三陸沖、仙台湾、福島沖に展開し海上に流れ出た生存者や遺体の発見に努力したのです。
特に三陸沖にある空母・ロナルド・レーガンからはヘリ20機を飛ばして海上の捜索に当たるのです。艦艇は15隻ていどが展開し、捜索にあたったのです。

5番目の写真は韓国の街に大震災直後にかかげられた横断幕の写真です。
「日本の痛みを一緒にわかち合いましょう」と書いてあります。韓国語でも大きく書いてあり、道行く韓国人は日本人のために祈ってくれたのです。
尚この写真は数日前にも掲載しましたが、日本の新聞には出なかったので何度でもこの欄に掲載します。私が認知症になって最近同じ写真を掲載したことを忘れた訳ではありません。石に刻むためです。

6番目の写真はキリスト教の信者達が日本への義援金や支援物資を荷作りしている光景です。皆が黒服を犠牲者のために祈りながら作業をしているのかも知れません。
この写真も数日前に掲載しましたが、日本の新聞には出なかったので何度でもこの欄に掲載します。

7番目の写真は中国の温家宝首相が大震災後に原発の爆発のあった福島県を訪問した時の写真です。農協の野菜の販売所で放射能の恐怖をものともせずサクランボ、ミニトマトを食べるパフォーマンスをした時の写真です。
この写真も日本の新聞には出なかったので中国の新聞から転載しました。何度でもこの欄に掲載します。石に刻むためです。
一方、中国の胡錦濤国家主席は「犠牲者の方々に深い哀悼の意を表し、一日も早い復興をお祈り致します」との電報を今上天皇に宛てに送りました。
中国地震局は大震災の翌日、3月12日夜、日本の被災者に、人道援助を提供するため国際救援隊15人を13日朝に派遣すると発表し、国営新華社通信は「四川大地震で日本から支援を受けた恩に報いたい」という論評記事を配信します。
中国赤十字会は同日、日本赤十字社に100万元(約1260万円)を緊急援助し、必要に応じた人道援助をすることを決定したのです。

日本の新聞は台湾から援助については詳しく何度も報道しました。
それから日米安保条約のあるアメリカ軍の「ともだち作戦」については連日詳しく報道したのです。
しかし隣の韓国や中国からの支援の詳細はほとんど報道されなかったのです。

日本のマスコミは公平さが非常に欠落しているのです。
台湾、アメリカ、西ヨーロッパの国々のニュースは重要視し大きく報道しますが韓国と中国に関しては日本に対して悪いニュースだけを報道し、良いニュースは全く報道しない傾向があるのです。
何故でしょうか?その理由の考察は別稿でします。
今日はこれで止めて下の参考資料に東日本大震災の復旧を支援した世界の191ケ国、34地域のことを書いておきます。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料==================
「東日本大震災の復旧を支援した世界の191ケ国、34地域を忘れない!」

人間は他人への恨みは忘れいが、他人から受けた恩は忘れると言います。

今年で東日本大震災が起きてから丁度7年になります。
あの時、世界中の国々や地域から日本は大きな支援を受けました。直接、被害を受けなかった日本人もあまりの悲惨な津波の被害と福島原発の爆発に呆然とし、悲しみに打ちひしがれていました。そんな時に世界中から暖かい激励と救助の支援を受けたのです。
私自身も勇気づけられました。希望の光が見えて来ました。
被災地に来て復旧作業をするボランティアたちに頭が下がりました。この恩は絶対に忘れないと決心もしました。
もう7年にもなるのですね。
そこでインターネットを検索して東日本大震災で打ちひしがれた日本を支援してくれた世界の191ケ国、34地域のことを調べました。
あまりにも膨大な資料がありました。そこでそのほんの一部の抜粋を以下に示します。
(1)「東日本大震災に対する日本国外の対応」
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%AF%BE%E5%BF%9C )
ここでは、東日本大震災に対する日本国外の対応について記述してあります。
日本に対し、2011年5月2日の時点で、国連に加盟する191ヶ国の国、および幾つかの国や地域、約43の国際機関等からの支援の申し入れや見舞いの言葉があったのです。
そこで参議院では、4月15日に「東日本大震災に対する国際的支援に感謝する決議」が全会一致で可決しました。
例えば、中華人民共和国の温家宝首相は「中国政府を代表して日本政府と日本国民に対しお見舞いを申し上げる」という電報を菅直人総理に送るとともに、必要な援助を提供する意思があることを表明しました。
また、胡錦濤国家主席は「犠牲者の方々に深い哀悼の意を表し、一日も早い復興をお祈り致します」との電報を今上天皇に宛てに送ったのです。
中国地震局は3月12日夜、日本の被災者に、人道援助を提供するため国際救援隊15人を同月13日朝に派遣すると発表しました。
国営新華社通信は「四川大地震で日本から支援を受けた恩に報いたい」という論評記事を配信しました。
中国赤十字会は同日、日本赤十字社に100万元(約1260万円)を緊急援助し、必要に応じた人道援助をすることを決定しました。
一般市民の間でも支援の声は高まり、北京の大学生や会社員ら、有志の若者が仲間に義援金を呼び掛け、既に約5000元が集まったのです。同日午後、中国国際援助隊は生存者の捜索に必要な設備や救急医療物資など4トンの物資を携行し、羽田空港に到着します。
中国政府商務部は14日、毛布2000枚、テント900張、手提げ式応急灯200個などといった3000万元(約3億7500万円)相当の援助物資追加支援を決定し、初回分は14日、上海から空輸され、宮城県登米市に提供されたのです。第二陣は28日にミネラルウォーター6万本やゴム手袋325万組がそれぞれ茨城県、日本赤十字社に提供され、第三陣は31日にゴム手袋1万組、仮設トイレ60個、スニーカー2万5000足が提供されたのです。
さらに別枠で、3月16日、中国政府は日本政府の要請に応じてガソリンと軽油各1万トンを日本政府に対して提供することを決定、それぞれ4月2日、3日に日本に到着、被災地に送られました。
また新聞は「過去の遺恨による民族主義は天災や人道とは関係ない」とし、四川大地震の際に日本が援助したことを受け「民族の感情を超越した人道主義」と評し「必要なのは学ぶことと助け合うこと」と伝えたのです。
3月19日、東京電力は中国外務省を通じて中国の三一重工業集団有限公司に高さ62メートルから放水できるポンプ車の購入を打診すると、三一重工が無償での提供を申し出ます。
この巨大なポンプ車は1台約8500万円で、運搬にかかる費用を含めた約1億円を同社が提供し、24日に日本到着後、陸路で福島に向かい、31日より福島第一原子力発電所の原子炉冷却作業を開始します。
4月1日、中国政府はガソリン1万トン及びディーゼル油1万トンを緊急支援物資として被災地に提供しました。
そしてその後、温家宝首相は東北の被災地をつぶさに訪問し、直接、被災者を励ましたのです。
上記で中国の支援をご紹介したのは以前に韓国と台湾の支援を詳しくご紹介したので、その続きです。
ついでにタイの支援をご紹介いたします。
タイのプミポン国王夫妻は3月12日に、「地震と津波で甚大な被害が出たことを深く悲しんでいる。両陛下と全ての日本国民に心からの弔意を表す」と弔意を表する書簡を送って来ました。
アピシット・ウェーチャチーワ首相は、国民向けテレビ番組で「日本は長年にわたる開発のパートナーであり、重要な友好国」と述べ、支援する姿勢を明確にしたのです。
また、毛布や食料など救援物資のために2億バーツ相当の予算を組む予定だと明かします。
同月13日にはレスキュー隊員と捜索救助犬の派遣を決め、日本の大学を卒業した医師35人の派遣も検討します。
タイ政府は義援金の送付をすでに決め、国民からの援助物資の受付や義捐金を受け付ける銀行口座を設置します。
3月25日までに政府より500万バーツ、国王夫妻より500万バーツが日本赤十字社に寄付された他、支援物資としてワチラーロンコーン皇太子より毛布2万枚、パチャラキティヤパー王女より救助袋15,550セット、寝袋1000式、缶詰9000缶、タイ政府・国民から即席麺2万4000個、缶詰1万9200個、飲料水1万5000本、懐中電灯400個を贈って来ました。
タイ政府は5月9日にも日本語が話せる医療支援チームの派遣を予定しており、被災者、特に小児に対する感染症防御のための支援活動を予定していると発表したのです。
以上はアジアの2ケ国の中国とタイの例ですが、その他の世界各国の支援の状況は以下のように掲載されています。
(1)「東日本大震災に対するアジア諸国の対応 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/東日本大震災に対するアジア諸国の対応
... 東日本大震災に対する日本国外の対応 > 東日本大震災に対するアジア諸国の対応. 東日本大震災に対するアジア諸国の対応(ひがしにほんだいしんさいにたいするアジアしょこくのたいおう)では、東日本大震災に対するアジア諸国の対応について記述する。
‎東アジア - ‎東南アジア - ‎中央アジア - ‎西アジア
(2)「東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応
東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応(ひがしにほんだいしんさいにたいするヨーロッパしょこくのたいおう)では、東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応について記述する。 ..... トルコ:東日本大震災に対するアジア諸国の対応#西アジアを参照。
(3)「東日本大震災に対する北アメリカの対応 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/東日本大震災に対する北アメリカの対応
メジャーリーグベースボール (MLB) およびメジャーリーグベースボール選手会 (MLBPA) が併せて50万ドルを、日本の地震と津波の被害に対する義捐金として国際連合児童基金 (UNICEF) に寄付すると発表した。また、MLBの「Japan Relief」特設ページで寄付 ...
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これらの資料を見て、私は胸が熱くなります。
こんなに世界中の国々が日本を助けようと支援したのです。
日本は間違いなく国際社会の一員なのです。そして日本は世界中の国から大切に思われ愛されているのです。
有り難くて、有り難くて頭が自然に下がります。