後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

私は歴史の落ち穂を拾いたい

2018年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム

最近、中国の東北地方、昔の満州という土地に住んでいた人々の物語を次のように6つの記事として書きました。
(1)「夏が来ると思い出す太平洋戦争(4)満州での中国人の悲劇」2018-07-22
(2)「夏が来ると思い出す太平洋戦争(5)満州での日本人の大きな悲劇」2018-07-26
(3)「遥かなハイラルにあった日本人学校の同窓会」2018-07-28
(4)「中国、ホロンバイル草原に樟子松を植える日本人達」2018-07-30
(5)「日本人を愛したあるモンゴル人の美しい生涯(1)」2018-07-31
(6)「日本人を愛したあるモンゴル人の美しい生涯(2)」2018-08-01

上の6つの記事では満州おける人々の悲しみを具体的に書いたのです。
私は満州の歴史の落穂拾いをしようと思ったのです。
学校で教える日中間の近代の関係史に絶対に出てこない小さい話です。
落穂のような人々の悲しみや喜びを知ることが重要だと思ったのです。
歴史の勉強で年表を暗記することも大切ですが、その時代に生きた人々の気持ちを知ることも重要だと信じています。そうすると歴史の理解に人間的な奥行きが出来ると思います。生きた歴史の理解になります。

(1)では満州に住んでいた朝鮮族の金応培さんの苦難を具体的に書きました。
(2)ではソ連軍の戦車に突っ込んで戦死した藤田藤一少尉の話でした。日本人の避難の時間をかせぐためにソ連の戦車隊を食い止めたのです。
(3)ではハイラル小学校に通っていて引き上げて来た旧友の竹内義信の話です。消滅した小学校の同窓会を終戦の40年後に作り、ハイラルの小学校と交流した話です。
(4)ではハイラル小学校の同窓会の有志がハイラル郊外のホロンバイル草原に松の木を10年間に40万本植えた話です。歴史に残る日中友好植林事業です。
(5)と(6)ではソヨルジャブというモンゴル人の日本人への愛と忠誠を書きました。
彼は満州のハイラルを統治する省公署に勤めていました。
日本人を信頼してしまったソヨルジャブは一生変節しないで日本人へ忠誠をつくします。せつない一人のモンゴル人の日本人との絆の話です。

このような具体的な話は朝鮮族の金応培さんから直接聞いたり、ハイラル小学校に通っていて引き上げて来た旧友の竹内義信さんから直接聞いた話です。
あんまり満州の記事が続きましたので、その理由を説明致しました。
今後も歴史の落穂拾いのような記事を書きたいと思っていますので、宜しくお願い申し上げます。
なお挿し絵代わりの写真は庭に咲ているノウゼンカツラとムクゲの花です。


日本人を愛したあるモンゴル人の美しい生涯(2)

2018年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム
モンゴル人、ソヨルジャップは1925年に生まれ、満州のハルピン学院を卒業しました。
そして2011年、中国のモンゴル自治区のフフホトで亡くなりました。享年86歳でした。
ハルピン学院を卒業して満州のハイラルで日本の役所に勤めていました、
戦後は共産国家、ソ連圏のモンゴル共和国で逮捕され収容所に入れられました。ソ連に対するスパイ養成学校と見なされたハルピン学院を卒業したからです。
その後、同じ共産国家の中国へ引き渡され、再び収容所に入れられたのです。中国の敵国の偽満州国で日本側の官吏になったのが罪状でした。収容所生活は合計36年間でした。
その後、名誉回復され、中国のモンゴル自治区のフフホトに帰り、20年間、展望大学という日本語学校を続け、その間、何度も日本に来て、作家の細川呉港氏と親しくなっていたのです。その一生は細川氏の作品、「草原のラーゲリ」という本に詳しく書いてあります。
この本の書評は、http://facta.co.jp/blog/archives/20070703000459.html に出ています。
1945年8月9日、突然のソ連軍侵攻の日にソヨルジャップは以前、役所で上司だった藤田藤一少尉と別れたのです。藤田がソヨルジャブに言ったそうです。
 「僕は、このまま前線に行く。西山陣地に入るつもりだ。家族には会わないでいくけれど、よろしく頼む」・・・これがソヨルジャップが聞いた藤田の最後の言葉になったのです。

その直後、ソヨルジャップは藤田の家に駆けつけその妻と3人の娘を探します。ハイラルの駅や街々を駆けずリ回ってさんざん探したのですが遂に見つかりませんでした。家族は偶然通りかかった日本軍のトラックに助けられハイラルの大きな要塞の片隅に隠れていたのです。
悲しいすれ違いでした。
それから以後、波乱万丈の生活でしたが、藤田の家族を見失ったことはソヨルジャップの痛恨事でした。63年間、彼の心の重荷になっていたのです。何度も日本に来て藤田藤一の遺族を探していながら遂に会えなかったのです。
しかし2008年にソヨルジャップは藤田の家族が無事だったと知ったのです。
藤田藤一の妻、そして長女の明巳さん、その妹2人、合計4人が1946年に無事帰国したことを知ったのです。
私の旧友の竹内義信さんが藤田一家の無事をソヨルジャップの友人の細川呉港さんへ伝えたのです。
竹内義信さんと藤田の長女の明巳さんはハイラルの昔の小学校の同窓生でした。2008年に昔の学校を一緒に訪問していたのです。
細川呉港さんは即刻、そのことを手紙でソヨルジャップさんへ伝えます。
そして細川呉港さんはソヨルジャップに頼みました。藤田さんの遺族へ、戦死した藤田少尉の思い出を送るように何度も頼みました。
しかしソヨルジャップからは一切手紙が来ません。手紙が来ないままソヨルジャップは2011年3月6日に肺ガンで息を引き取ります。
3月12日、ソヨルジャップのお葬式は中国のモンゴル自治区のフフホトでとりおこなわれます。細川さんと数人の日本人、そしてソヨルジャップを尊敬しているモンゴル人、数十人が参列したそうです。昔のハイラルからも遠路はるばる10人ほどが参列したそうです。
そして細川さんが日本へ帰る前の日にソヨルジャップの妻、オヨンフさんが一通の封筒を細川さんへ渡したのです。夫のソヨルジャップが金沢に暮らしている藤田さんの長女の明巳さんへ届けくれと言って息を引き取ったと言うのです。中にはモンゴルの草原での生活を切り詰めて貯めた5万円のお金が入っていました。

手紙を書いて藤田さんの思い出を長女へ送ることは簡単です。そして藤田さんの家族をついに見つけられなかったことを謝るのは簡単なことです。しかしソヨルジャップにはそれが出来なかったのです。あまりにも深い心の傷だったのでしょう。混乱した心で出来ることは現金の入った封筒を残された妻に託すことだけでした。
ソヨルジャップの苦しみを考えると彼も憐れです。そして藤田一家との美しい絆の強さに感動します。国境を越えた強い人間の絆です。
葬儀の4ケ月後、チベット密教で有名な中国青海省のタール寺の僧侶の司式でソヨルジャップの散骨が行われました。散骨の場所はホロンバイル草原のモンゴル人の聖地、聖なる山、ボグド・オーラ(仏の山)のなだらかな南斜面の草原です。
親類や縁者が集まって天と地に祈ったあと、ソヨルジャップさんの白い骨をまき散らせたのです。日本から行った細川さんも砕かれた白い粉を両手ですくいあげます。白い粉は細川さんの指にまとわりつき離れようとしません。
小さな骨は緑の草の中に落ち、白粉は風に舞ったそうです。広い天空は何処までも蒼く、白い雲が遠くまで帯のように流れています。こうしてソヨルジャップさんの魂は希望通り故郷の草原に帰ったのです。

お葬式の3年後の話です。
旧友の竹内義信さんから一冊の本が送られてきました。「ソヨルジャブ・バクシを囲んで」という題の本で、内容は3年前に亡くなったソヨルジャブさんに関する中国領モンゴル自治区のフフホト、モンゴル共和国、そして日本からの関係者によって書かれた追悼文をまとめて本にしたものです。編者は細川呉港氏と内田 孝氏です。
この本は国会図書館にあります。(http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I026371362-00 )
この本を手にとって何故か私は深い感動を覚えたのです。
彼は中国領のモンゴル自治区とモンゴル共和国の両方で、日本語を教え、モンゴル人を日本の研修生として送り出したのです。一人の日本語教師に過ぎませんでした。それなのに何故こんなに多くの人々が追悼文を書いたのでしょうか。
私はこの本を手にして数日間考えていました。そしてある結論に到達しました。
ソヨルジャブさんは終生、日本人との絆を一番大切にして、その人間同士の関係の美しさを我々に教えてくれたのです。その絆は純粋に人間同士の深い信頼によって築かれたものです。日本人をこれほど大切にし愛してくれたモンゴル人はそんなに多くはありません。
当然、日本人も彼を慕い、愛して、その結果として追悼文集が自然に出来たのです。
それは日本人を愛したひたむきな美しい生涯でした。(完了)

今日の挿絵の写真はモンゴルの風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。
                       後藤和弘(藤山杜人)