後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今年はノウゼンカズラとムクゲの花の当たり年

2018年08月09日 | 日記・エッセイ・コラム
我が家の庭は家人がいろいろな花を植えているので冬以外は花々が絶えることはありません。
しかし夏も立秋が過ぎるとノウゼンカズラとムクゲの花だけになってしまいました。
この2種の花は狭い庭のいたる所に沢山咲いています。今年のムクゲは底紅があまり咲かなくて残念です。
写真をお送りいたします。アゲハ蝶も良く來ますが動きが早すぎて写真に撮れません。3番目の写真は蝶が葉に止まったので撮れました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









今日は長崎原爆慰霊祭・・・民家、教会、無差別攻撃の無残さ

2018年08月09日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は73年前に長崎へ原爆が落とされた日です。長崎で安倍総理も出席する慰霊祭がおごそかに開催されます。
広島への原爆投下は8月6日でした。その日、満州へソ連軍が突如攻め込んで、満州は阿鼻叫喚の地になったのです。そんな中、8月9日、長崎の市民を対象にした原爆攻撃がなされたのです。
長崎市への原子爆弾投下では、当時の長崎市の人口24万人のうち約7万4千人が死亡し、建物の約36%が全焼または全半壊したのです。
原爆投下後の長崎市の写真を示します。

1番目の写真は長崎市に投下された原爆のキノコ雲です。
1番目から5番目までの全ての写真の出典は https://ja.wikipedia.org/wiki/長崎市への原子爆弾投下です。

2番目の写真は香焼島から撮影された長崎原爆のキノコ雲です。(松田弘道撮影)

3番目の写真は破壊された浦上天主堂です。(1946年1月7日撮影)

4番目の写真は破壊された寺院と仏像です。本尊だった仏像が頭を垂れています。(1945年9月24日撮影)

5番目の写真は原爆投下直後に逃げる被爆者たちです。(山端庸介撮影)

6番目の写真は浦上天主堂跡に於ける慰霊祭です。(1945年11月23日)

長崎原爆はプルトニウム239を使用する原子爆弾でした。この原爆はTNT火薬換算で22,000t相当の規模です。この規模は、広島に投下されたウラン235の原爆「リトルボーイ」の1.5倍の威力であったのです。
長崎市は周りが山で囲まれた地形であったため、熱線や爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減されたが、周りが平坦な土地であった場合の被害想定は、広島よりも大きかったのです。
ここで示した凄惨な風景写真を見ると、あらためて原子爆弾の残酷性が心に沁みます。
そして攻撃は民間人を狙った無差別攻撃だったのです。
全ての民家は、そこに住んでいた人々と共に瞬時に振き飛ばされ、燃え上がり、一面の焼け野原になったのです。
残った市電の黒いレールだけがそこに大通りがあったことを示しているだけでした。
秀吉の時代に多くのキリシタン達の住んでいた浦上地区も破壊され、明治時代に作られた浦上天主堂も無残な姿になりました。
佛教のお寺も一瞬にして壊され燃えつくされ、焼け跡にはご本尊だった仏像がじっと地を見つめているだけです。
アメリカ人の90%はキリスト教徒と言います。
しかし宗教は戦争が一旦始まると全く無力な存在になります。
戦争では人間が悪魔になるのです。キリスト教など完全に無視します。佛教のお寺も一瞬にして破壊します。
これが人間なのです。
この恐ろしい人間が現在でも数多くの原爆を大切に持っているのです。
2015年時点で、世界には約16000発の核兵器が保管されているのです。そしてその90%以上はアメリカとロシアが持っているのです。
私は祈っています。この世界に現存する核兵器がこの美しい青い地球を死の荒野にしないようにと強く祈っているのです。

7番目の写真は宇宙船から見た美しい地球の写真です。出典は、https://www.youtube.com/watch?v=SRjqL3L9fnE です。
この美しい地球の上で長崎への原爆投下の後でも、アメリカは南太平洋で何度も原爆の爆発実験が行ったのです。そしてソ連でも原爆実験が続行されたのです。実に恐ろしいことです。

今日の長崎での慰霊祭にあたり全ての原爆犠牲者のご冥福を静かにお祈りいたしす。
そして世界に真の平和が訪れることを強くお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料============================
アメリカの太平洋のマーシャル諸島での核実験;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%AE%9F%E9%A8%93
1946年7月1日からアメリカ軍占領下にある日本の委任統治領であったマーシャル諸島のビキニ環礁で核実験を行い、1947年にアメリカ領となった後も核実験を継続し、エニウェトク環礁と合わせて67回の核実験を行ったのです。
1946年7月、原爆実験クロスロード作戦では、日本の戦艦長門など約70隻の艦艇が標的として集められ、そこを原爆で攻撃して効果を測定しました。1回目は7月1日に実験を実行し、2回目は7月25日に行なわれました。
その後、太平洋核実験場として指定され、1954年3月1日ビキニ環礁での水爆実験では、実験計画では数Mtクラスの爆発力と見積もっていたものが、実際には15Mtの爆発力があったため予想よりも広範囲に死の灰が拡散して、多数の被曝者を出したのです。
ビキニ環礁の島民は、強制的にロンゲリック環礁へ移住させられ、現在に至るまで帰島できないのです。
日本のマグロ漁船第五福竜丸など数百〜千隻の漁船が死の灰で被曝したのもこの時です。
240km離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り、実験の3日後に住民全員が強制避難させられます。
以下省略。