後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

此の世から楽しく旅立つための心の準備、1、2、3

2018年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム
人間の寿命は世界的にも伸びています。日本人は長寿のようですが、それでも70歳を過ぎると、そろそろ此の世から旅立つことを意識するのではないでしょうか。
どうせ旅立つなら楽しい気持ちで行きたいと思います。
そこで私が実行している心の準備、3つを次にご紹介したいと思います。
(1)全てのことに感謝する。全ての人に感謝する。
(2)自分の人生を邯鄲の夢と何度も思う。全てのことに執着しない。
(3)墓地を散歩して全ての死者に心を寄せる。死者の幸福を祈る。

まず(1)の説明を致します。
自分が生まれて来たことに感謝します。自分の運命に感謝します。この世で会った全ての人に感謝します。そうすると幸せな気分になります。その幸福感に包まれたままに此の世から旅立つのです。
これは無責任な楽観論のように見えるかも知れません。
世の中には貧乏な家に生まれ、散々苦しい生活をした人もいます。会社を起業し順調だったのに倒産を経験した人あります。お金を借りた人に追い回された経験もあります。
また信頼していた忠実な部下に裏切られた経験のある人もいます。
それなのに全ての人に感謝することなど出来るでしょうか?無理ですね。
そんな場合は嫌な思い出を忘れるように努力します。自分に好意を持ってくれた人だけに感謝します。
そして自分がこの世に生を受けたことに感謝します。
すると幸福感が湧いて来ます。その状態で旅立つようにしたいものです。
次に(2)について説明します。
邯鄲の夢とは栄枯盛衰のはかないことのたとえです。
昔の中国の故事です。出世を望んで邯鄲という都に来た青年盧生は、栄華が思いのままになるという枕を道士から借りて仮寝をします、栄枯盛衰の50年の人生を夢に見ますが、覚めれば注文した黄粱の粥がまだ炊き上がらぬ束の間の事であったという物語です。人生は執着するほどの価値が無いという意味でもあります。
私は時々自分の人生は成功だったとうのぼれることがあります。その時、すかさず「邯鄲の夢!」、そして「邯鄲の!!」と繰り返し唱えます。
すると不思議に此の世に対する執着が消えるのです。そんな状態で旅立とうと思っています。
「邯鄲の夢!」は実に有難い呪文です。特に自分の人生は不幸だったと思い込んでいる人にとっては救いの呪文ではないでしょうか?
さて最後に(3)について説明します。
この全ての死者に心を寄せるという事は生きている自分と死者が交流することを意味します。
そうして死者の幸福を祈るという事は実は自分の死後の世界での幸福を祈っているのです。それは無意識な祈りではありますが、死後の世界の存在を信じているのです。すなわち、この世を旅立っても、行く場所があるのです。
死者との交流のためには私は積極的に墓参りをします。都立の多摩墓地や小平墓地に何度も散歩に行きます。
話は飛びますが。カトリックのミサでは「全ての信者を神のもとに招び集めて下さい」と祈ります。神は全ての人を愛しています。神は全ての人の死後は、安らかな眠りにつかせてくれるのです。天の国に住む家を用意してくれているのです。
死んだら皆平等に一緒にしてくれるのです。
そんなことを考えながら多摩墓地や小平墓地を散歩していたら此の世で孤児だった子供や家族のいない人々の慰霊碑を発見したのです。東京都の役人さんたちがつくった共同慰霊碑なのです。
それは感動的な風景です。写真でご説明します。

1番目の写真は都立小平墓地にある児童養護施設で幼くして此の世を去った子供たちの慰霊碑です。

2番目の写真は、この子供たちの慰霊碑は昭和26年3月に東京都が建てたと書いてある石碑です。
そして慰霊碑の右隣には祀られている子供達の名前を彫った石板があります。
私は静かに慰霊碑に子供たちの冥福を祈ります。小平墓地に散歩に行く度に祈ります。

そして府中市にある多磨墓地には、東京都内で亡くなった無縁仏のお墓が年代順に並んでいます。

3番目の写真は東京都内で亡くなった無縁仏のお墓です。亡くなった年代順に写真の右の方へ並んでいます。

4番目の写真はも東京都内で亡くなった無縁仏のお墓です。

5番目の写真も無縁仏のお墓です。この墓には「倶会一処」と書いてあります。
倶会一処 とは、 阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏や菩薩たちと一緒に出会うことが出来るという意味です。お釈迦様の慈悲は全ての人々へ分け隔てなくふり注ぎます。
宗教の原点は死者へ対するわけ隔て無い慈悲です。神の愛です。
家族に囲まれて死ぬのも孤独に死ぬのも同じなのです。ですから死が訪れるまでは健康で明るく生きることが大切なのです。
私は多摩墓地の無縁墓の倒れた卒塔婆を皆起こし、供養してくれたお寺の名前を確かめました。多摩寺と慈光寺でした。有難いお寺さんです。
こうして私は全ての死者に心を寄せて等しく冥福を祈ります。すると此の世はあの世に連続しているように思えるのです。亡くなった親や親類や恩人や友人達に又会えるのです。旅立つのが楽しみです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)

今日から我が故郷、仙台の七夕です・・・「青葉城恋歌」、「ブラザー軒」の詩など

2018年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム
故郷の仙台の七夕は今年も8月6日(月)、7日(火)、8日(水)と開催されます。
毎年、夏が来ると、幼少の頃から七夕飾りを見に行った東一番丁や大町通りの光景を思い出します。結婚して東京に住むようになってからも毎年、家内や子供連れで仙台の七夕を見に帰りました。
七夕飾りは私の故郷の光景として心の中に焼き付いています。
その七夕飾りの写真をお送りいたします。

1番目の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/35196915.html です。

2番目の写真の出典は、、http://colocal.jp/news/35321.html です。

3番目の写真の出典は、http://www.hoso0907.com/blog/archives/2007/08/09-021827.php です。

4番目の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/kokomo21jp/33777367.html です。

5番目の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/kuwayamatadashi です。

七夕飾りが風に揺れ、その下を家族連れが楽しそうに歩いています。夏ですから東一番丁や大町通りは暑いのです。しかし通りの両側にはかき氷やアイスクリームを売る店があります。
家族連れが座って、団扇であおぎながらかき氷を食べています。

そして何処からともなく、さとう宗幸の「青葉城恋唄」が流れて来ます。

・・・・広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず
早瀬(はやせ)躍(おど)る光に 揺れていた君の瞳
時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ 流れの岸
瀬音(せおと)ゆかしき 杜(もり)の都
あの人は もういない

七夕の飾りは揺れて 想い出は帰らず
夜空輝く星に 願いをこめた君の囁(ささや)き
時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ 七夕祭り
葉ずれさやけき 杜の都
あの人は もういない

青葉通り薫る葉緑 想い出は帰らず
樹(こ)かげこぼれる灯(ともしび)に ぬれていた君の頬
時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ 通りの角(かど)
吹く風やさしき 杜の都
あの人は もういない

時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ 流れの岸
瀬音(せおと)ゆかしき 杜(もり)の都
あの人は もういない・・・・

ご存知のようにこの唄は星間船一が作詞し、さとう宗幸が作曲したのです。仙台在住のさとう宗幸が仙台の広瀬川と七夕飾りを唄ったのです。
さとう宗幸の唄う声は、https://www.youtube.com/watch?v=3VlOygdxoI4 をクリックすると聞くことが出来ます。

もう一度、聞いてみましょう。
・・・七夕の飾りは揺れて 想い出は帰らず
夜空輝く星に 願いをこめた君の囁(ささや)き
時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ 七夕祭り
葉ずれさやけき 杜の都
あの人は もういない・・・

さて、七夕飾りにちなんだもう一つの詩と唄をご紹介します。
七夕の夜、亡くなってしまった父と妹に再開したという詩です。

「ブラザー軒」  菅原克己作詞、作曲と歌、高田渡

東一番丁、ブラザー軒
硝子簾がキラキラ波うち、
あたりいちめん
氷を噛む音。

死んだおやじが入って来る。
死んだ妹をつれて
氷水喰べに、
ぼくのわきへ。

色あせたメリンスの着物。
おできいっぱいつけた妹。
ミルクセーキの音に、
びっくりしながら。

細い脛だして
細い脛だして
椅子にずり上がる
椅子にずり上がる

外は濃藍色のたなばたの夜。
肥ったおやじは小さい妹をながめ、
満足気に氷を噛み、
ひげを拭く。

妹は匙ですくう
白い氷のかけら。
ぼくも噛む
白い氷のかけら。

ふたりには声がない。
ふたりにはぼくが見えない。
おやじはひげを拭く。
妹は氷をこぼす。

簾はキラキラ、
風鈴の音、
あたりいちめん
氷を噛む音。

死者ふたり、つれだって帰る、
ぼくの前を。
小さい妹がさきに立ち、
おやじはゆったりと。

ふたりには声がない。
ふたりには声がない。
ふたりにはぼくが見えない。
ふたりにはぼくが見えない。

東一番丁、ブラザー軒。
たなばたの夜。
キラキラ波うつ
硝子簾の、向うの闇に。

これは昭和二十年七月十日の、仙台空襲の犠牲者を悼む詩とも言われています。
高田渡 の唄声は、https://www.youtube.com/watch?v=dArOtb5V4Nc を聞くことが出来ます。
仙台出身の詩人、菅原克己も、唄った高田渡も既に旅立ってしまいました。

ブラザー軒は仙台市の一番丁に明治35年(1902年)からあった洋食店でした。当時、2階建ての洋風建築と西洋料理というハイカラさが評判で、大変繁盛したのです。長い間営業していたのですが、2011年3月11日の東日本大震災で、レストラン部分が壊れ、2015年5月に廃業しました。
ハイカラな「ブラザー軒」は仙台の人々の憧れでした。
この店は、太宰治の小説「惜別」の中でも名前が出てくるそうです。
「惜別」は、明治37年9月から一年半、東北大学医学部で学んでいた若き日の魯迅(当時23才)の青春を描いた作品です。
もう一度、 菅原克己の詩の最後の部分を読んでみましょう。

・・・・ふたりには声がない。
ふたりには声がない。
ふたりにはぼくが見えない。
ふたりにはぼくが見えない。

東一番丁、ブラザー軒。
たなばたの夜。
キラキラ波うつ
硝子簾の、向うの闇に。

今日は仙台の七夕飾りの写真をお送りいたしました。
そして「青葉城恋唄」と「ブラザー軒」をあわせてご紹介しました。
七夕飾りに、人はそれぞれいろいろな想いを浮かべるのですね。

日本人として原爆記念日にいろいろ想う

2018年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム
今年も広島に原爆を投下された記念日がやってまいりました。
当時、農村に疎開していた私は「アメリカが新型の電子爆弾を広島に落とし、20万人死んだ」という噂を聞きました。原子爆弾が電子爆弾となっていたのは、噂が流れるあいだに間違ったのでしょう。
あれから茫々73年間の年月が流れました。
この記念日に私は一日本人として犠牲になった人々の冥福を静かに祈ります。
亡くなられた方々の霊よ安らかなれと祈りながら、灯篭流しの写真を慎んで捧げます。

この3枚の写真の出典は延岡市仏教会が主催した五ヶ瀬川の『流れ灌頂』(http://www.pawanavi.com/staffblog/nagarekanjyou2014/ )です。



毎年、広島と長崎の原爆記念日がめぐってくると私はいろいろなことを思います。いろいろ考えます。
日本人の私の感情は原爆のような残忍な爆弾を落としたアメリカを許しません。たった一発で20万人近くの人がむごく死んで行き、そしてその後も放射能のため苦しみ多くの人が死んで行ったのです。
しかし2016年の8月6日の原爆記念日に私の恨みが少し癒されたのです。
その記念日の慰霊祭にアメリカのオバマ大統領が来て花輪を捧げ慰霊の祈りを捧げたのです。
そして2016年12月には安倍総理大臣が真珠湾攻撃の犠牲者の慰霊碑に花輪を捧げ祈りました。
このどちらの場合も安倍総理とオバマ大統領が一緒に広島と真珠湾でそれぞれの犠牲者に慰霊の祈りを捧げたのです。これで太平洋戦争の全ての悲劇が無になる訳ではありません。しかし少なくとも太平洋戦争を戦った日米両国が許しあうという気持ちが表明されたのです。
戦争の恨みを克服して両国の犠牲者の霊に祈り、真の平和を祈ることは崇高な行いです。
私は安倍総理とオバマ大統領に感謝します。尊敬します。今日の広島の原爆慰霊祭を迎えて私はオバマ大統領を懐かしく思い出しております。
オバマ大統領は10年前の大統領就任早々、ポーランドのワルシャワで核兵器廃絶の理想を強く訴える感動的な演説をしました。
ワルシャワは先の第二次大戦の時、ヒットラーが電撃作戦で占領し、その後ワルシャワの市民が蜂起しドイツ軍と戦ったのです。ヒットラーは精鋭部隊を送り蜂起した市民を虐殺します。ワルシャワは悲劇の都市として有名になったのです。その後、ソ連が占領すると、ポーランド軍の将校達を残酷にも処刑したのです。その処刑は「カチンの森の悲劇」として有名です。
戦争の残酷さを身をもって体験したポーランド人の群衆を前にして、オバマさんは感銘深い街頭演説をしたのです。
その演説の故に彼はノーベル平和賞を受賞しなした。
2016年の8月6日、オバマさんは現職大統領として初めて広島に来たのです。私はこの時、何故彼がノーベル平和賞を貰ったか理解しました。
彼は人間の善意を信じ、この世界に必ず真の平和が来ることを信じているのです。その上、彼は8年間もアメリカ大統領の職務を果たしたのです。
彼は黒人でした。大統領に当選し、8年の任期を務め、無事その任務を終了したことを私は個人的に非常に嬉しく思っています。
この際、告白しますが、私の心の中に黒人差別の感情が無かったと言えば嘘になります。

話は飛びすが、私は次のようなことまで思い出したのです。余計なことですが書いて置きます。
若い頃、アメリカに留学しました。当時の黒人差別はすさまじいものでした。しかし私はそれを当然と思っていました。
その後、アメリカの大学に何度も行き、彼等と共同研究をしたりして親しく付き合いました。その親しいアメリカ人は全て白人でした。黒人の人々と付き合うチャンスが無かったのです。
そうこうしている間にキング牧師らによる黒人の平等を訴える公民権運動が始まったのです。
キング牧師はインドのガンジーを尊敬し、その無抵抗主義を取り入れて公民権運動を継続したのです。この頃から私は黒人差別を当然と思っていた私の考えが間違っていると気がついたのです。
しかしキング牧師は差別主義者の白人に暗殺されてしまうのです。
オバマさんがアメリカ大統領になったとき、私はしみじみと思いました。「キング牧師の死は無駄ではなかった」と。
オバマ大統領の任期が無事終わって一番喜んでいるのはキング牧師なのではないでしょうか?
話を戻します。

今日の広島原爆の慰霊祭にあたり、私は一日本人として犠牲になった人々の冥福を静かに祈ります。
亡くなられた方々の霊よ安らかなれと祈りながら、灯篭流しの写真を慎んで捧げます。
そして2016年の原爆慰霊祭にはアメリカのオバマ大統領が来て花輪を捧げ慰霊の祈りを捧げたことを懐かしく思うのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)