人間の寿命は世界的にも伸びています。日本人は長寿のようですが、それでも70歳を過ぎると、そろそろ此の世から旅立つことを意識するのではないでしょうか。
どうせ旅立つなら楽しい気持ちで行きたいと思います。
そこで私が実行している心の準備、3つを次にご紹介したいと思います。
(1)全てのことに感謝する。全ての人に感謝する。
(2)自分の人生を邯鄲の夢と何度も思う。全てのことに執着しない。
(3)墓地を散歩して全ての死者に心を寄せる。死者の幸福を祈る。
まず(1)の説明を致します。
自分が生まれて来たことに感謝します。自分の運命に感謝します。この世で会った全ての人に感謝します。そうすると幸せな気分になります。その幸福感に包まれたままに此の世から旅立つのです。
これは無責任な楽観論のように見えるかも知れません。
世の中には貧乏な家に生まれ、散々苦しい生活をした人もいます。会社を起業し順調だったのに倒産を経験した人あります。お金を借りた人に追い回された経験もあります。
また信頼していた忠実な部下に裏切られた経験のある人もいます。
それなのに全ての人に感謝することなど出来るでしょうか?無理ですね。
そんな場合は嫌な思い出を忘れるように努力します。自分に好意を持ってくれた人だけに感謝します。
そして自分がこの世に生を受けたことに感謝します。
すると幸福感が湧いて来ます。その状態で旅立つようにしたいものです。
次に(2)について説明します。
邯鄲の夢とは栄枯盛衰のはかないことのたとえです。
昔の中国の故事です。出世を望んで邯鄲という都に来た青年盧生は、栄華が思いのままになるという枕を道士から借りて仮寝をします、栄枯盛衰の50年の人生を夢に見ますが、覚めれば注文した黄粱の粥がまだ炊き上がらぬ束の間の事であったという物語です。人生は執着するほどの価値が無いという意味でもあります。
私は時々自分の人生は成功だったとうのぼれることがあります。その時、すかさず「邯鄲の夢!」、そして「邯鄲の!!」と繰り返し唱えます。
すると不思議に此の世に対する執着が消えるのです。そんな状態で旅立とうと思っています。
「邯鄲の夢!」は実に有難い呪文です。特に自分の人生は不幸だったと思い込んでいる人にとっては救いの呪文ではないでしょうか?
さて最後に(3)について説明します。
この全ての死者に心を寄せるという事は生きている自分と死者が交流することを意味します。
そうして死者の幸福を祈るという事は実は自分の死後の世界での幸福を祈っているのです。それは無意識な祈りではありますが、死後の世界の存在を信じているのです。すなわち、この世を旅立っても、行く場所があるのです。
死者との交流のためには私は積極的に墓参りをします。都立の多摩墓地や小平墓地に何度も散歩に行きます。
話は飛びますが。カトリックのミサでは「全ての信者を神のもとに招び集めて下さい」と祈ります。神は全ての人を愛しています。神は全ての人の死後は、安らかな眠りにつかせてくれるのです。天の国に住む家を用意してくれているのです。
死んだら皆平等に一緒にしてくれるのです。
そんなことを考えながら多摩墓地や小平墓地を散歩していたら此の世で孤児だった子供や家族のいない人々の慰霊碑を発見したのです。東京都の役人さんたちがつくった共同慰霊碑なのです。
それは感動的な風景です。写真でご説明します。
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1番目の写真は都立小平墓地にある児童養護施設で幼くして此の世を去った子供たちの慰霊碑です。
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2番目の写真は、この子供たちの慰霊碑は昭和26年3月に東京都が建てたと書いてある石碑です。
そして慰霊碑の右隣には祀られている子供達の名前を彫った石板があります。
私は静かに慰霊碑に子供たちの冥福を祈ります。小平墓地に散歩に行く度に祈ります。
そして府中市にある多磨墓地には、東京都内で亡くなった無縁仏のお墓が年代順に並んでいます。
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3番目の写真は東京都内で亡くなった無縁仏のお墓です。亡くなった年代順に写真の右の方へ並んでいます。
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4番目の写真はも東京都内で亡くなった無縁仏のお墓です。
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5番目の写真も無縁仏のお墓です。この墓には「倶会一処」と書いてあります。
倶会一処 とは、 阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏や菩薩たちと一緒に出会うことが出来るという意味です。お釈迦様の慈悲は全ての人々へ分け隔てなくふり注ぎます。
宗教の原点は死者へ対するわけ隔て無い慈悲です。神の愛です。
家族に囲まれて死ぬのも孤独に死ぬのも同じなのです。ですから死が訪れるまでは健康で明るく生きることが大切なのです。
私は多摩墓地の無縁墓の倒れた卒塔婆を皆起こし、供養してくれたお寺の名前を確かめました。多摩寺と慈光寺でした。有難いお寺さんです。
こうして私は全ての死者に心を寄せて等しく冥福を祈ります。すると此の世はあの世に連続しているように思えるのです。亡くなった親や親類や恩人や友人達に又会えるのです。旅立つのが楽しみです。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)
どうせ旅立つなら楽しい気持ちで行きたいと思います。
そこで私が実行している心の準備、3つを次にご紹介したいと思います。
(1)全てのことに感謝する。全ての人に感謝する。
(2)自分の人生を邯鄲の夢と何度も思う。全てのことに執着しない。
(3)墓地を散歩して全ての死者に心を寄せる。死者の幸福を祈る。
まず(1)の説明を致します。
自分が生まれて来たことに感謝します。自分の運命に感謝します。この世で会った全ての人に感謝します。そうすると幸せな気分になります。その幸福感に包まれたままに此の世から旅立つのです。
これは無責任な楽観論のように見えるかも知れません。
世の中には貧乏な家に生まれ、散々苦しい生活をした人もいます。会社を起業し順調だったのに倒産を経験した人あります。お金を借りた人に追い回された経験もあります。
また信頼していた忠実な部下に裏切られた経験のある人もいます。
それなのに全ての人に感謝することなど出来るでしょうか?無理ですね。
そんな場合は嫌な思い出を忘れるように努力します。自分に好意を持ってくれた人だけに感謝します。
そして自分がこの世に生を受けたことに感謝します。
すると幸福感が湧いて来ます。その状態で旅立つようにしたいものです。
次に(2)について説明します。
邯鄲の夢とは栄枯盛衰のはかないことのたとえです。
昔の中国の故事です。出世を望んで邯鄲という都に来た青年盧生は、栄華が思いのままになるという枕を道士から借りて仮寝をします、栄枯盛衰の50年の人生を夢に見ますが、覚めれば注文した黄粱の粥がまだ炊き上がらぬ束の間の事であったという物語です。人生は執着するほどの価値が無いという意味でもあります。
私は時々自分の人生は成功だったとうのぼれることがあります。その時、すかさず「邯鄲の夢!」、そして「邯鄲の!!」と繰り返し唱えます。
すると不思議に此の世に対する執着が消えるのです。そんな状態で旅立とうと思っています。
「邯鄲の夢!」は実に有難い呪文です。特に自分の人生は不幸だったと思い込んでいる人にとっては救いの呪文ではないでしょうか?
さて最後に(3)について説明します。
この全ての死者に心を寄せるという事は生きている自分と死者が交流することを意味します。
そうして死者の幸福を祈るという事は実は自分の死後の世界での幸福を祈っているのです。それは無意識な祈りではありますが、死後の世界の存在を信じているのです。すなわち、この世を旅立っても、行く場所があるのです。
死者との交流のためには私は積極的に墓参りをします。都立の多摩墓地や小平墓地に何度も散歩に行きます。
話は飛びますが。カトリックのミサでは「全ての信者を神のもとに招び集めて下さい」と祈ります。神は全ての人を愛しています。神は全ての人の死後は、安らかな眠りにつかせてくれるのです。天の国に住む家を用意してくれているのです。
死んだら皆平等に一緒にしてくれるのです。
そんなことを考えながら多摩墓地や小平墓地を散歩していたら此の世で孤児だった子供や家族のいない人々の慰霊碑を発見したのです。東京都の役人さんたちがつくった共同慰霊碑なのです。
それは感動的な風景です。写真でご説明します。
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1番目の写真は都立小平墓地にある児童養護施設で幼くして此の世を去った子供たちの慰霊碑です。
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2番目の写真は、この子供たちの慰霊碑は昭和26年3月に東京都が建てたと書いてある石碑です。
そして慰霊碑の右隣には祀られている子供達の名前を彫った石板があります。
私は静かに慰霊碑に子供たちの冥福を祈ります。小平墓地に散歩に行く度に祈ります。
そして府中市にある多磨墓地には、東京都内で亡くなった無縁仏のお墓が年代順に並んでいます。
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3番目の写真は東京都内で亡くなった無縁仏のお墓です。亡くなった年代順に写真の右の方へ並んでいます。
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4番目の写真はも東京都内で亡くなった無縁仏のお墓です。
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5番目の写真も無縁仏のお墓です。この墓には「倶会一処」と書いてあります。
倶会一処 とは、 阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏や菩薩たちと一緒に出会うことが出来るという意味です。お釈迦様の慈悲は全ての人々へ分け隔てなくふり注ぎます。
宗教の原点は死者へ対するわけ隔て無い慈悲です。神の愛です。
家族に囲まれて死ぬのも孤独に死ぬのも同じなのです。ですから死が訪れるまでは健康で明るく生きることが大切なのです。
私は多摩墓地の無縁墓の倒れた卒塔婆を皆起こし、供養してくれたお寺の名前を確かめました。多摩寺と慈光寺でした。有難いお寺さんです。
こうして私は全ての死者に心を寄せて等しく冥福を祈ります。すると此の世はあの世に連続しているように思えるのです。亡くなった親や親類や恩人や友人達に又会えるのです。旅立つのが楽しみです。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)