よくノモンハン事件は太平洋戦争の惨敗のキッカケになったと言われています。
ソ連圏モンゴルと満州の国境を関東軍はハルハ河と主張し、ソ連側はハルハ河の東側20Kmまでと主張し、国境をめぐる戦争になったのです。1939年の夏でした。ソ連軍は数百台の戦車で日本軍を一挙に粉砕し、ハルハ河を渡って、その東側の約20Kmで停止しました。日本軍の死傷者が20000人、ソ連側は25000人と言われています。日本軍の敗戦の責任を取って現地の守備隊の隊長が自殺を強要され死にます。
この惨敗と同じようなことが太平洋戦争でも起きました。太平洋戦争のことは皆様ご存知の通りです。
この惨敗の原因は日本軍が常に敵側の軍事力を全く考えなかったことです。そしてもう一つの原因は補給のための戦略が全く皆無だったからです。戦死した日本兵の60%以上は餓死だったのです。
明治維新以来、日本は日清戦争、日露戦争、満州事変、上海事変、日中戦争と軍備が貧弱な国と戦って勝って来ました。戦争の場所も食糧の現地調達が可能な中国大陸でした。
この経験から特に日本の陸軍の参謀達は敵側の軍備を一切考えず、また補給の戦略も考えなかったのです。
一切考えないで戦争をしたのです。戦争を指導した参謀達はみな優秀な陸軍士官学校の卒業生でした。
そこで私は陸軍士官学校の教育内容に欠陥があったのではないかと考えたのです。
最近、私は陸軍士官学校の第57期生の元中尉、田中和彦さんと第59期生の元少尉、立石 恒さんと親しくなり、その人柄に感動しました。そこで昔の陸軍士官学校の教育内容を詳しくお聞きしました。カリキュラムの一覧表などの資料も頂きました。
そこで判明したことは陸軍士官学校の教育では敵の軍備を研究する教科が全く無かったことです。そして陸軍士官学校の正規の教科には補給戦略が全く欠けていたのです。もっとも日本軍には輜重隊といって弾薬を前線に送る部署もありましが、陸軍士官学校では一切それに関しては教えていなかったのです。
その上、陸軍士官学校と、海軍の士官学校の海軍兵学校とは教育内容が全く違うのですが、陸軍士官学校では海軍との協力に関しては全然教わらなかったそうです。つまり陸軍と海軍の共同作戦や協力は始めから想定外だったのです。
それでは陸軍士官学校の教育をご紹介しましょう。
(1)陸軍士官学校の教育方針
教育方針は1932年(昭和7年)に改正され、『陸軍士官学校教育綱領』の冒頭に次のように書いてあります。
陸軍士官学校教育ノ目的ハ、帝国陸軍ノ将校ト為ルベキ者ヲ養成スルニアリ
抑々将校ハ、軍隊ノ楨榦、軍人精神及軍紀ノ本源ニシテ、マタ一国元気ノ枢軸タリ
故ニ、本校ニ於テハ、特ニ左ノ件ニ留意シテ教育スルヲ要ス
一 尊皇愛国ノ心情ヲ養成スルコト
ニ 軍人タルノ思想ト元気トヲ養成スルコト
三 健全ナル身体ヲ養成スルコト
四 文化ニ資スルノ知識ヲ養成スルコト
以上示ス所ハ、実ニ本校教育ノ要綱ナリ。以下省略。
驚くべきことは一番目に「尊皇愛国ノ心情ヲ養成スルコト」があることです。天皇を現人神として戴く皇国を愛し、守る精神を教育するのが一番重要だと言うのです。
日本軍の保有する戦車や戦闘機や各種の大砲などの性能と使い方の技術教育もしますがそれは「尊皇愛国ノ心情ヲ養成スルコト」のあとまわしに過ぎなかったのです。
そして外国の軍隊の保有する戦車や戦闘機や各種の大砲などの性能については全く教えもせず、考えもしない教育だったのです。外国の高性能の戦車のことを教えると弱気になって戦争をしなくなると考えたのです。
(2)陸士の位置づけ
陸士の学生の位置付けは旧制高校、大学予科、旧制専門学校などに相当しています。
しかしその入試倍率はほぼ20倍もあり、東京帝国大学や京都帝国大学への入学よりも格段に難しかったのです。その事情は海軍の士官学校の海軍兵学校も同様でした。
他の教育機関と異なり、卒業後わずか20歳そこそこで高等官(卒業後は極短期間の見習士官を経て陸軍少尉に任官)になれる陸士は魅力的で、全国の旧制中学校の秀才を集めた超エリート学校でした。卒業式には大元帥たる天皇が親臨し、観兵式場にて整列、行進したのです。それは華やかな光景でした。
(3)陸軍士官学校の教科内容
予科の教育内容:
予科(予士)では旧制高等学校に準ずる「普通学」をメインに受ける。
修身、国語および漢文(国語・漢文・作文)、外国語(英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語・中国語から一つを選択)、歴史(日本史・西洋史)、数学(三角法・幾何・幾何および微積分・代数および微積分)、物理、化学、地理および地質、心理および論理、法制および経済、図画。
本科の教育内容:
軍事学をメインとする本科の教育課程は以下となっている。
戦術学、戦史、軍制学、兵器学、射撃学、航空学、築城学、交通学、測図学、馬学、衛生学、教育学(軍隊教育・一般教育)、外国語、校内教練、校外教練、陣中勤務、射撃、剣術・体操・馬術、典令範・服務提要となっている。
これらのほか、現地戦術、測図演習、野営演習、各見学も実施されました。
以上から明らかになったことは、本科の教科内容に戦場への食糧の補給問題の教科が欠落してることです。
その上、敵の捕虜の取り扱いに関する国際規定の教育も皆無です。
外国の戦車や機関銃の性能の教育も全くありません。
これでは日本の陸軍の参謀達が敵側の軍備を一切考えず、また補給の戦略も考えなかったのは当然です。
私は印刷された資料だけでは不十分と思いました。
私は次のような質問を印刷して、陸軍士官学校の第57期生の中尉だった田中和彦さんと第59期生の少尉だった立石 恒さんへお渡ししたのです。そして暫くたってから両方のご自宅を訪問していろいろ教えて頂きました。
(1)教室での講義では仮想敵国の兵器、戦車、戦闘機、爆撃機の性能を教える講義が充分ありましたか?
(2)野外における指揮や兵器の取り扱いの教育は毎週、何日ありましたか?
教室での戦術や兵器に関する講義は毎週、何日ありましたか?
(3)仮想敵国との戦争にあたっての戦場における指揮方法や戦術の講義が充分ありましたか?
中国軍の兵器の数量や性能に関する講義はありましたか?
特にアメリカの航空母艦や艦載機の性能に関する講義はありましたか?
(4)敵の軍隊の配置と日本軍の戦略に関する講義はありましたか?
(5)海外に展開した日本軍の弾薬と食料の補給方法についての講義はありましたか?
(6)敵兵の捕虜の取り扱いに関する講義はありましたか?
確認した結果を書きます。
(1)皆無でした。
(2)日本軍の保有する兵器の取り扱い方や性能は充分教わりました。
(3)中国軍の兵器の数量や性能に関する講義は皆無でした。
(4)図上作戦の練習は充分ありました。
(5)皆無でした。
(6)皆無でした。
以上で皆様は何故、ノモンハン事件と太平洋戦争で日本は惨敗したかお分かりになったと思います。
そもそも陸軍士官学校が敵側の軍事力を考える重要性を教え、補給のための戦略を教えていたら真珠湾攻撃をしなかった筈です。
全ての惨敗の原因には日本の軍人教育が深くかかわっていたのです。恐ろしいのは教育なのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
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1番目の写真は戦争中の写真です。白馬に乗った昭和天皇の姿です。昭和天皇は大元帥として全軍の最高指揮官でした。それと同時に現人神(あらひとがみ)という神様だったのです。
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2番目の写真は937年6月に建設された市ヶ谷台の陸軍士官学校本部です。
現在は防衛省市ヶ谷地区の市ヶ谷記念館として、部分的に保存されています。
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3番目の写真は朝霞の振武台の予科の校舎です。現在は記念館として保存されています。
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4番目の写真は3番目の写真は1874年の開校当時の陸軍士官学校です。
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5番目の写真は敗戦後、荒廃した全国を巡り、打ちひしがれた国民を激励している場面です。敗戦で急に現人神から人間になった昭和天皇を、まだ神として見ている人々の表情をご覧下さい。
ソ連圏モンゴルと満州の国境を関東軍はハルハ河と主張し、ソ連側はハルハ河の東側20Kmまでと主張し、国境をめぐる戦争になったのです。1939年の夏でした。ソ連軍は数百台の戦車で日本軍を一挙に粉砕し、ハルハ河を渡って、その東側の約20Kmで停止しました。日本軍の死傷者が20000人、ソ連側は25000人と言われています。日本軍の敗戦の責任を取って現地の守備隊の隊長が自殺を強要され死にます。
この惨敗と同じようなことが太平洋戦争でも起きました。太平洋戦争のことは皆様ご存知の通りです。
この惨敗の原因は日本軍が常に敵側の軍事力を全く考えなかったことです。そしてもう一つの原因は補給のための戦略が全く皆無だったからです。戦死した日本兵の60%以上は餓死だったのです。
明治維新以来、日本は日清戦争、日露戦争、満州事変、上海事変、日中戦争と軍備が貧弱な国と戦って勝って来ました。戦争の場所も食糧の現地調達が可能な中国大陸でした。
この経験から特に日本の陸軍の参謀達は敵側の軍備を一切考えず、また補給の戦略も考えなかったのです。
一切考えないで戦争をしたのです。戦争を指導した参謀達はみな優秀な陸軍士官学校の卒業生でした。
そこで私は陸軍士官学校の教育内容に欠陥があったのではないかと考えたのです。
最近、私は陸軍士官学校の第57期生の元中尉、田中和彦さんと第59期生の元少尉、立石 恒さんと親しくなり、その人柄に感動しました。そこで昔の陸軍士官学校の教育内容を詳しくお聞きしました。カリキュラムの一覧表などの資料も頂きました。
そこで判明したことは陸軍士官学校の教育では敵の軍備を研究する教科が全く無かったことです。そして陸軍士官学校の正規の教科には補給戦略が全く欠けていたのです。もっとも日本軍には輜重隊といって弾薬を前線に送る部署もありましが、陸軍士官学校では一切それに関しては教えていなかったのです。
その上、陸軍士官学校と、海軍の士官学校の海軍兵学校とは教育内容が全く違うのですが、陸軍士官学校では海軍との協力に関しては全然教わらなかったそうです。つまり陸軍と海軍の共同作戦や協力は始めから想定外だったのです。
それでは陸軍士官学校の教育をご紹介しましょう。
(1)陸軍士官学校の教育方針
教育方針は1932年(昭和7年)に改正され、『陸軍士官学校教育綱領』の冒頭に次のように書いてあります。
陸軍士官学校教育ノ目的ハ、帝国陸軍ノ将校ト為ルベキ者ヲ養成スルニアリ
抑々将校ハ、軍隊ノ楨榦、軍人精神及軍紀ノ本源ニシテ、マタ一国元気ノ枢軸タリ
故ニ、本校ニ於テハ、特ニ左ノ件ニ留意シテ教育スルヲ要ス
一 尊皇愛国ノ心情ヲ養成スルコト
ニ 軍人タルノ思想ト元気トヲ養成スルコト
三 健全ナル身体ヲ養成スルコト
四 文化ニ資スルノ知識ヲ養成スルコト
以上示ス所ハ、実ニ本校教育ノ要綱ナリ。以下省略。
驚くべきことは一番目に「尊皇愛国ノ心情ヲ養成スルコト」があることです。天皇を現人神として戴く皇国を愛し、守る精神を教育するのが一番重要だと言うのです。
日本軍の保有する戦車や戦闘機や各種の大砲などの性能と使い方の技術教育もしますがそれは「尊皇愛国ノ心情ヲ養成スルコト」のあとまわしに過ぎなかったのです。
そして外国の軍隊の保有する戦車や戦闘機や各種の大砲などの性能については全く教えもせず、考えもしない教育だったのです。外国の高性能の戦車のことを教えると弱気になって戦争をしなくなると考えたのです。
(2)陸士の位置づけ
陸士の学生の位置付けは旧制高校、大学予科、旧制専門学校などに相当しています。
しかしその入試倍率はほぼ20倍もあり、東京帝国大学や京都帝国大学への入学よりも格段に難しかったのです。その事情は海軍の士官学校の海軍兵学校も同様でした。
他の教育機関と異なり、卒業後わずか20歳そこそこで高等官(卒業後は極短期間の見習士官を経て陸軍少尉に任官)になれる陸士は魅力的で、全国の旧制中学校の秀才を集めた超エリート学校でした。卒業式には大元帥たる天皇が親臨し、観兵式場にて整列、行進したのです。それは華やかな光景でした。
(3)陸軍士官学校の教科内容
予科の教育内容:
予科(予士)では旧制高等学校に準ずる「普通学」をメインに受ける。
修身、国語および漢文(国語・漢文・作文)、外国語(英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語・中国語から一つを選択)、歴史(日本史・西洋史)、数学(三角法・幾何・幾何および微積分・代数および微積分)、物理、化学、地理および地質、心理および論理、法制および経済、図画。
本科の教育内容:
軍事学をメインとする本科の教育課程は以下となっている。
戦術学、戦史、軍制学、兵器学、射撃学、航空学、築城学、交通学、測図学、馬学、衛生学、教育学(軍隊教育・一般教育)、外国語、校内教練、校外教練、陣中勤務、射撃、剣術・体操・馬術、典令範・服務提要となっている。
これらのほか、現地戦術、測図演習、野営演習、各見学も実施されました。
以上から明らかになったことは、本科の教科内容に戦場への食糧の補給問題の教科が欠落してることです。
その上、敵の捕虜の取り扱いに関する国際規定の教育も皆無です。
外国の戦車や機関銃の性能の教育も全くありません。
これでは日本の陸軍の参謀達が敵側の軍備を一切考えず、また補給の戦略も考えなかったのは当然です。
私は印刷された資料だけでは不十分と思いました。
私は次のような質問を印刷して、陸軍士官学校の第57期生の中尉だった田中和彦さんと第59期生の少尉だった立石 恒さんへお渡ししたのです。そして暫くたってから両方のご自宅を訪問していろいろ教えて頂きました。
(1)教室での講義では仮想敵国の兵器、戦車、戦闘機、爆撃機の性能を教える講義が充分ありましたか?
(2)野外における指揮や兵器の取り扱いの教育は毎週、何日ありましたか?
教室での戦術や兵器に関する講義は毎週、何日ありましたか?
(3)仮想敵国との戦争にあたっての戦場における指揮方法や戦術の講義が充分ありましたか?
中国軍の兵器の数量や性能に関する講義はありましたか?
特にアメリカの航空母艦や艦載機の性能に関する講義はありましたか?
(4)敵の軍隊の配置と日本軍の戦略に関する講義はありましたか?
(5)海外に展開した日本軍の弾薬と食料の補給方法についての講義はありましたか?
(6)敵兵の捕虜の取り扱いに関する講義はありましたか?
確認した結果を書きます。
(1)皆無でした。
(2)日本軍の保有する兵器の取り扱い方や性能は充分教わりました。
(3)中国軍の兵器の数量や性能に関する講義は皆無でした。
(4)図上作戦の練習は充分ありました。
(5)皆無でした。
(6)皆無でした。
以上で皆様は何故、ノモンハン事件と太平洋戦争で日本は惨敗したかお分かりになったと思います。
そもそも陸軍士官学校が敵側の軍事力を考える重要性を教え、補給のための戦略を教えていたら真珠湾攻撃をしなかった筈です。
全ての惨敗の原因には日本の軍人教育が深くかかわっていたのです。恐ろしいのは教育なのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
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1番目の写真は戦争中の写真です。白馬に乗った昭和天皇の姿です。昭和天皇は大元帥として全軍の最高指揮官でした。それと同時に現人神(あらひとがみ)という神様だったのです。
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2番目の写真は937年6月に建設された市ヶ谷台の陸軍士官学校本部です。
現在は防衛省市ヶ谷地区の市ヶ谷記念館として、部分的に保存されています。
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3番目の写真は朝霞の振武台の予科の校舎です。現在は記念館として保存されています。
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4番目の写真は3番目の写真は1874年の開校当時の陸軍士官学校です。
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5番目の写真は敗戦後、荒廃した全国を巡り、打ちひしがれた国民を激励している場面です。敗戦で急に現人神から人間になった昭和天皇を、まだ神として見ている人々の表情をご覧下さい。