中学、高校時代に水元君という友人がいました。伊達政宗の霊廟のある山の下の霊屋下という名前の町に住んでいました。父は戦死して母と二人で暮らしていました。
色白の優しい中学生でした。何度も彼の家に遊びに行きましたが母は働いていて会ったことはありません。水元君のそばに居ると平和な気分になるのです。
中学を卒業すると仙台の繁華街にある相沢眼鏡店で働き始めました。私は高校生になりましたが水元君に会う為に相沢眼鏡店へ何度も遊びに行きました。
優しい彼を他の店員も大切にしていたらしく私が遊びに行ってもそれとなく歓迎してくれたのです。
ある時何時ものように店に遊びに行った私にへ水元君は母と一緒に南米へ移民することにしたと告げたのです。平静な話しぶりに決心の固さが分かりました。彼は悲しそうにもう会えないが元気でねと言います。
翌月、相沢眼鏡店に行ったら水元君の姿はありませんでした。他の店員が南米へ行ってしまったと言います。私の少年の頃の悲しい思い出です。
あれから70年ちかくたちましたが私は水元君と相沢眼鏡店を忘れません。
そんな思い出があったので私は折に触れて南米移民のことや水元君が乗って行った船のことを調べてきました。
そこで移民船として使われたアルゼンチナ丸と氷川丸をご紹介したいと思います。3番目以下の写真は私が撮ったものです。
1番目の写真はアルゼンチナ丸の1962年の勇姿です。パナマ運河の向こうの南米沖で撮った写真です。水元君の乗って行った船の名前は知りませんがこの船だったかもしれません。アメリカ留学の時お世話になった黒田さんはアルゼンチナ丸に乗ってアメリカに来たそうです。移民と一緒だったので窓もない船倉の大部屋だったそうです。
写真の出典は、http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1571 です。
2番目の写真は南米への移民を乗せて横浜港を出航する氷川丸です。沢山の見送り人が移民する人に今生の別れをしている光景です。水元君もこうして横浜港を出たのでしょうか。
3番目の写真は現在横浜港に係留し公開されている氷川丸です。この船も戦後、南米への移民船として使用されました。そして移民と一緒にアメリカへの留学生も運んだのです。
4番目の写真は氷川丸の船尾です。氷川丸の2等に乗ると船内の行動範囲が制限されていて、その上、部屋も蚕棚の8人部屋です。丸窓が一つついているだけです。私も何度もこの蚕棚の客室を見学しましたがバスもシャワーもついていません。共同のシャワールームがあるだけでした。
5番目の写真は氷川丸の一等船客用のラウンジです。一等に乗った船客は豪華なダイニングで食事をしました。
氷川丸には喜劇王。チャップリンも乗船しました。また昭和12年9月発航の第47次航海ではイギリス国王ジョージ7世の戴冠式に天皇陛下の名代として出席された秩父宮夫妻が御乗船になりした。
氷川丸は華やかな物語を持っています。しかしもっと多くの物語は割愛します。
この日本郵船の氷川丸は昭和5年にシアトル航路用に建造された貨客船です。当時の最新鋭大型ディーゼル機関を搭載します。
一等客室にアールデコ様式の内装が施され太平洋戦争前には約1万人が乗船しました。
その後の戦争で政府徴用船、海軍特設病院船となり、終戦までに3回も触雷しましたが沈没を免れたのです。
戦後も引き続き病院船のまま復員輸送に従事し、昭和22年に復元工事で貨客船に戻り昭和26年8月からはシアトル・ニューヨークおよび欧州航路定期船に就航しました。 昭和28年には内装をアメリカンスタイルに改装しシアトル航路に復帰、フルブライト留学制度での渡航者約2,500人を含む乗客、約1万6,000人を輸送しました。
昭和35年、船齢30年に達しシアトル、バンクーバーから神戸に寄港した後に現在の係留地横浜への回航を最後に引退しました。太平洋横断254回、船客数は2万5千余名だったそうです。
今日は南米に移民してしまった親友との悲しい思い出と移民船としても活躍した氷川丸の物語を書きました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)
色白の優しい中学生でした。何度も彼の家に遊びに行きましたが母は働いていて会ったことはありません。水元君のそばに居ると平和な気分になるのです。
中学を卒業すると仙台の繁華街にある相沢眼鏡店で働き始めました。私は高校生になりましたが水元君に会う為に相沢眼鏡店へ何度も遊びに行きました。
優しい彼を他の店員も大切にしていたらしく私が遊びに行ってもそれとなく歓迎してくれたのです。
ある時何時ものように店に遊びに行った私にへ水元君は母と一緒に南米へ移民することにしたと告げたのです。平静な話しぶりに決心の固さが分かりました。彼は悲しそうにもう会えないが元気でねと言います。
翌月、相沢眼鏡店に行ったら水元君の姿はありませんでした。他の店員が南米へ行ってしまったと言います。私の少年の頃の悲しい思い出です。
あれから70年ちかくたちましたが私は水元君と相沢眼鏡店を忘れません。
そんな思い出があったので私は折に触れて南米移民のことや水元君が乗って行った船のことを調べてきました。
そこで移民船として使われたアルゼンチナ丸と氷川丸をご紹介したいと思います。3番目以下の写真は私が撮ったものです。
1番目の写真はアルゼンチナ丸の1962年の勇姿です。パナマ運河の向こうの南米沖で撮った写真です。水元君の乗って行った船の名前は知りませんがこの船だったかもしれません。アメリカ留学の時お世話になった黒田さんはアルゼンチナ丸に乗ってアメリカに来たそうです。移民と一緒だったので窓もない船倉の大部屋だったそうです。
写真の出典は、http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1571 です。
2番目の写真は南米への移民を乗せて横浜港を出航する氷川丸です。沢山の見送り人が移民する人に今生の別れをしている光景です。水元君もこうして横浜港を出たのでしょうか。
3番目の写真は現在横浜港に係留し公開されている氷川丸です。この船も戦後、南米への移民船として使用されました。そして移民と一緒にアメリカへの留学生も運んだのです。
4番目の写真は氷川丸の船尾です。氷川丸の2等に乗ると船内の行動範囲が制限されていて、その上、部屋も蚕棚の8人部屋です。丸窓が一つついているだけです。私も何度もこの蚕棚の客室を見学しましたがバスもシャワーもついていません。共同のシャワールームがあるだけでした。
5番目の写真は氷川丸の一等船客用のラウンジです。一等に乗った船客は豪華なダイニングで食事をしました。
氷川丸には喜劇王。チャップリンも乗船しました。また昭和12年9月発航の第47次航海ではイギリス国王ジョージ7世の戴冠式に天皇陛下の名代として出席された秩父宮夫妻が御乗船になりした。
氷川丸は華やかな物語を持っています。しかしもっと多くの物語は割愛します。
この日本郵船の氷川丸は昭和5年にシアトル航路用に建造された貨客船です。当時の最新鋭大型ディーゼル機関を搭載します。
一等客室にアールデコ様式の内装が施され太平洋戦争前には約1万人が乗船しました。
その後の戦争で政府徴用船、海軍特設病院船となり、終戦までに3回も触雷しましたが沈没を免れたのです。
戦後も引き続き病院船のまま復員輸送に従事し、昭和22年に復元工事で貨客船に戻り昭和26年8月からはシアトル・ニューヨークおよび欧州航路定期船に就航しました。 昭和28年には内装をアメリカンスタイルに改装しシアトル航路に復帰、フルブライト留学制度での渡航者約2,500人を含む乗客、約1万6,000人を輸送しました。
昭和35年、船齢30年に達しシアトル、バンクーバーから神戸に寄港した後に現在の係留地横浜への回航を最後に引退しました。太平洋横断254回、船客数は2万5千余名だったそうです。
今日は南米に移民してしまった親友との悲しい思い出と移民船としても活躍した氷川丸の物語を書きました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)