後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

金子みすずの童謡詩と240頭の鯨の戒名と過去帳

2019年11月14日 | 日記・エッセイ・コラム
金子みすずは山口県の長門市の仙崎に住んでいました。26歳という若さで自殺した悲しい生涯でした。
まず作品4編をお読みください。
   「大漁」
朝焼け小焼けだ大漁だ
オオバいわしの大漁だ
浜は祭りのようだけど
海の中では何万の
いわしの弔いするだろう

「星とタンポポ」
青いお空のそこ深く
海の小石のそのように
夜がくるまで沈んでる
昼のお星は目に見えぬ
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ
散ってすがれたタンポポの
川原のすきにだぁまって
春のくるまで隠れてる
強いその根は目に見えぬ
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ

 「不思議」

わたしは不思議でたまらない
黒い雲から降る雨が
銀に光っていることが
わたしは不思議でたまらない
青いクワの葉食べている
蚕が白くなることが
わたしは不思議でたまらない
たれもいじらぬ夕顔が
一人でパラリと開くのが
わたしは不思議でたまらない
たれに聞いても笑ってて
あたりまえだということが

 「みんなをすきに」

私は好きになりたいな
何でもかんでもみいんな
ねぎもトマトもお魚も
のこらず好きになりたいな
うちのおかずはみいんな
かあさまがお作りになったもの
私は好きになりたいな
だれでもかれでもみいんな
お医者さんでもカラスでも
残らず好きになりたいな
世界のものはみいんな
神様がお作りになったもの

その他の詩は:http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/misuzu-top.html にあります。

さて金子みすずの作品には生きている魚や鳥に対する慈しみと憐れみをうたった美しい作品が多いのです。そして上にある「星とタンポポ」のような透徹した自然観が詩になっています。読んでいて心地よい詩となっています。
作品には、小さく弱い生き物への憐みの心が美しい命の響きになっています。私は金子みすずの作品のようなものが西洋にはあまり無いと思います。
私は以前からこの詩人は仏教の生類憐みの気持ちを豊かに持っている仏教徒と感じていました。彼女は決して仏教を宣伝しないのですが、立派な信者だと思っていました。
しかしその事は今まで人には言いませんでした。
しかしある時、BS朝日の「金子みすずの故郷の風景」という番組を見てやっぱりそうだったのかと思ったのです。

彼女の住んでいた山口県の仙崎湾の港町は日本海に面していて、江戸時代から明治初年まで、毎年多くの抹香鯨が回遊して来ました。その鯨を毎年数十頭も捕って藩の財政を豊かにしていたのです。
その仙崎港にある向岸寺に「鯨の過去帳」があることをBS朝日の番組が報じていました。江戸時代末期に捕った鯨240頭の亡くなった日月と戒名が書いてある鯨の過去帳なのです。これには驚きました。鯨をお寺さんが供養しているのです。人間の生活を支えてくれたことに感謝しているのです。
このような文化の色濃くある仙崎港に住んでいた金子みすずが人間のために殺される生き物へ慈しみの心を持っても不思議ではありません。
そうです。仏教の心を無意識のうちに童謡詩にしていたのです。

同じ様に感じている方がいました。http://mandalaya.com/misuzu.html をご覧ください。
その方は高野山真言宗の阿闍梨の小林宗峰師です。(http://mandalaya.com/index.html )
小林宗峰師は金子みすずを「悟った人」と彼女の生を見抜いているのです。
私は嬉しくなりました。この世で一見、不幸そうだった彼女はお釈迦様の知恵を感じて生きていたのです。無意識に感じて心が満たされていたに違いありません。
それが仙崎港の伝統文化だったのでしょう。
ここで私は宮沢賢治の仏教を考えています。彼は意識的に仏教を信じ、他人へも信仰を勧めました。
賢治の作品やみすずの作品が我々の心に響くのは我々も仏教徒だからかもしれません。やはり日本は仏教国なのです。それは日本人の運命のようなものです。
私はカトリックですが仏教の影響を深く受けています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘

1番目の写真は仙崎湾の風景です。

2番目の写真は240頭の鯨の戒名と過去帳のある向岸寺です。

3番目の写真は向岸寺にある鯨の位牌です。
===参考資料================================
金子みすずの生涯:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E3%81%BF%E3%81%99%E3%82%9E
山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)出身。郡立大津高等女学校(現・山口県立大津緑洋高等学校)卒業。父・庄之助は、妻(みすゞの母)の妹の嫁ぎ先である下関の書店・上山文英堂の清国営口支店長だったが、1906年(明治39年)2月10日、みすゞが3歳のときに清国で不慮の死をとげる。劇団若草の創始者である上山雅輔(本名:上山正祐)は彼女の実弟であるが、幼くして母の妹(みすゞにとっては叔母)の嫁ぎ先である上山家に養子に出されている。叔母の死後、雅輔の養父・上山松蔵とみすゞの母が再婚したため、みすゞも下関に移り住む。同時に、みすゞと雅輔は実の姉弟でありつつ、義理の姉弟の関係となる。
1926年(大正15年)、叔父松蔵の経営する上山文英堂の番頭格の男性・宮本啓喜と結婚し、娘を1人もうける。しかし、夫は正祐との不仲から、次第に叔父に冷遇されるようになり、女性問題を原因に上山文英堂を追われることとなる。みすゞは夫に従ったものの、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、後ろめたさからかみすゞに詩の投稿、詩人仲間との文通を禁じた。さらにみすゞに淋病を感染させるなどした事から1933年(昭和5年)2月に正式な離婚が決まった(手続き上は成立していない)。みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一度は受け入れたが、すぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求。夫への抵抗心から同年3月10日、みすゞは、娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を遺し服毒自殺、26年の短い生涯を閉じた。