私には山奥に独り住む友人がいます。高齢になるにしたがって次第に視力が無くなり現在は盲目に近い状態のようです。
才能豊かな人で、私はパソコンの多様な使い方を丁寧に教わりました。シイタケの原木やクリンソウなどの花々も貰いました。深い森に棲むモリアオガエルを飼育していてその不思議な生態を教えてくれました。山林の中の私の親友です。
彼は山梨県北杜市にある甲斐駒の麓の山林の中に40年以上一人で住んでいます。結婚はしたことがありません。
最近盲目に近い状態になりましたが心優しい姪と北杜市の福祉課が世話をしています。そして厳冬期の数か月は北杜市関連の施設に住む予定です。これで私の心配も少し解消しました。
そこで今日はこの山奥に独り住む友人の生活の様子をご紹介したいと思います。
彼が住む 山荘も自分でロマンチックな構造を考え建てたのです。写真で示します。
1番目の写真は左右にわかれている2階部分をつなぐ天空の橋です。
そこを渡ると鉢植えの花を一面に並べる屋上があり、その後ろは18畳くらいの大きな部屋になっています。窓からは周囲の樹木が見え素晴らしい部屋です。
さて私が何度も通ったコンピューター室は別棟の母屋の3階にありました。
そこは冬でも陽射しが温かく窓からは落葉した雑木林の梢が見渡せます。
母屋の南側を少し下ると一年中ヤマメの棲んでいる小川が流れています。
2番目の写真はヤマメの棲むその小川です。
そのほとりに彼は深い池を作りました。
ある年にこの池の畔に生えている木の葉にモリアオガエルの白い泡の卵塊を見つけたそうです。そこでモリアオガエルの卵塊から数十匹のモリアオガエルを育て上げました。
自然界ではモリアオガエルは樹木の上で生きています。脚に吸盤がついていて木の葉に貼り付いて虫などを捕食して成長します。飛び跳ねる力が想像以上に大きくて、一度に3mくらい跳ぶそうです。こうして木から木へと樹上生活を続けるのです。卵を産む時だけ水辺に帰って来るのです。
彼は数十匹のモリアオガエルを箱の中に入れ、ヨーロッパコウロギを餌にして育て上げました。このコウロギの飼育も一苦労だったそうです。
3番目の写真はオタマジャクシから蛙になって樹上生活を3ケ月した4匹のモリアオガエルです。
4番目の写真は樹上生活を5ケ月したモリアオガエルです。
寒い冬になるとカエル達は冬眠をします。そこで彼は数十匹のモリアオガエルを入れた箱を家の中で暖房をしていない寒い部屋に入れて、注意深く低い温度に調整しています。
このように深い森の中で独りで暮らしているとめったに人に会いません。
そして山荘の広い庭には小さな草花を一杯咲かせていました。
5、6、7番目の写真のような小さな草花を丁寧に育ててその写真を自分のブログに毎日のように掲載していました。
このように独りで森の中で暮らしている彼の生活に憧れて何度も何度もお邪魔していろいろなことを教わりました。ブログを始める方法も12年前に教わりました。
彼は孤独です。しかし淋しそうにしてませんでした。いつも意気軒昂です。彼の生活ぶりを見ると全く自由な生き方を深く楽しんでいるのです。
彼は眼が見えなくなって2年程前にブログへの投稿は止めましたが、過去のブログは、http://sizen068.blog95.fc2.com/ を開くと見えます。
余談になしましたが彼の実弟に馬場駿という筆名の小説家がいます。この馬場駿のことは末尾の参考資料にあります。お読み頂ければ嬉しく思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===「小説家、馬場 駿のドラマチックな生の軌跡」=======
小説家、馬場駿と一緒に飲んだのは45年くらい前。深い森の奥の山荘の中、燃えさかる暖炉の前で、彼の兄をまじえて3人で飲んだ。彼らが手作りした暖炉は甲斐駒の御影石が埋め込んであった。歯切れの良い言葉で喋る馬場駿の才気が輝く、華やかな一夜であった。
彼はまだ小説を書いていなくて、当然馬場駿という筆名も持っていなかった。しかし彼の才能と情熱で何時かは大きな仕事をすると私は信じていた。
あの夜以来一度も会っていない。しかしその後、彼は伊東市に移り住んで岩漿文学会を創立し、小説も書き出した。処女出版は馬場駿の筆名で「小説大田道灌」を出している。その書評はこのブログでも2007年11月に掲載している。馬場駿著「小説大田道灌」を検索すると関連の情報が出て来る。
その彼が13年間も務めていた岩漿文学会の代表と編集長の役を後進へ譲ることになった。最近、郵送されて来た。「岩漿」第19号には、彼がこの文学会を創立したころの経緯や、この文学会の歴史について書いている。そしてその他に何故彼が馬場駿という筆名を持っているかという感動的な小文を書いている。
小説家、馬場 駿のドラマチックな生の軌跡がいきいきと描いてある文なので以下に転載することにした。転載を許可してくれた彼へ感謝しつつ。
=======「筆名は心の師」、木内光夫============
二十年以上も前、仔細あって所謂都落ちし、伊豆の地で志とはかけ離れた生活を悶々として送っていたときのことだ。生涯の師と仰ぐ馬場駿氏が単身、私の勤務先の観光ホテルを訪れた。このとき師は、かつて私が在籍していた会社を資本金数十億円にまで大きくし、社長付常務取締役として八面六臂の活躍をしていた。秘書も不知のお忍び旅行だという。師は私と妻を夕餉に誘い、その場で泣かんばかりにして私の現状を嘆き憂えた。こんなところで何をしているのだと。
この師との出会いは劇的だった。この会社の横濱支社へ応募した際、私は身内の身元保証を得られなかった。三十五六まで夢を追い、赤貧洗うが如しのアルバイト生活を送っていた私の、言ってみれば身から出た錆。私は不採用という結果に甘んじるしかなかった。ところが後日、会社が突然再面接を申し入れてきた。当時会社顧問だった師が支社長へ指示をしたのだ。高校任意退学、文部省大検一回全科目合格、通信教育四年で大学の法科卒、以後法曹を目指して職業的には浪々。師は弾かれた履歴書群の中から私の一枚を拾い上げたのだ。一転私は採用、本来経済力が必要な保証人も、母が「私が産んだ」という証明をもってこれに代えて可、となった。調査はしたよと破顔一笑の師。M銀行支店長だったという師はある日、「僕は東大卒、京大卒いろいろ部下をもったが、君のようなタイプは初めてだ」と肩を叩いてくれた。その言葉の含意は今も不明だが、私は心でその言葉を受け止めた。
心の師が翌朝ホテルを去る際に至言をくれる。「大都会で金や地位欲しさに暗闘しているよりも、疲れ果てた人を癒す仕事の方が数段上かもしれないな。ゆうべは言い過ぎた。悪かった」。文通はその後も続いたが、師は難病に罹り終に帰らぬ人となった。私はホテルサービスという仕事から卑屈な想いを取り去った。師に認められた自分を思い出し、その事を支えにあらゆる屈辱に耐えた。処女出版「小説大田道灌」の筆名は馬場駿。自伝ではないが師に肯定された私の過去が入る連載小説「孤往記」も。あと一冊は筆名馬場駿でと、今は小説「疎石と虫」と向かい合う。(終り)