後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の日記、多摩中央公園の写真を撮りに行く、しかし」

2021年02月01日 | 写真
今日は少し足をのばして多摩市の「多摩中央公園」の風景写真を撮りに行きました。しかし公園と同じ高さの場所には駐車場が無いのです。これでは足の弱い私は公園まで登れません。仕方無く多摩尾根幹線道路に上がり眺望を楽しみながらドライブをして帰って来ました。
ネットからお借りした風景写真をお送りします。写真の出典は、https://1000enpark.com/park/00263/ です。









多摩中央公園は東京都多摩市にある多摩市立の広大な公園です。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%91%A9%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%85%AC%E5%9C%92 )
大きな池と芝生広場が特徴で公園外周には「県木の道」と称する各都道府県の指定樹木を植栽した樹林道があります。
京王線の多摩センター駅から行く場合は、パルテノン大通り(歩行者専用道路)の突き当たりにあるパルテノン多摩の中央部の大階段を登ります。階段の上ると「きらめきの池」と広場があり多摩センターの街並みが眺望できます。
付帯施設として多摩市連光寺1番地から復元移築された「旧富澤家古民家住宅」があります。富澤家は名士で駿河今川氏の家臣でした。その富澤家の建物と日本庭園が一般に公開してあります。

この公園は車で行かないで新宿から京王線で行って、多摩センター駅下車、それから約15分坂をを上って行った方が便利です。丘の上なので空気が新鮮です。

「都立野川公園と戦闘機、爆撃機を作っていた中島飛行機」

2021年02月01日 | 日記・エッセイ・コラム
先日武蔵野公園をご紹介しました。「今日の日記、都立武蔵野公園の写真を撮りに行く」(2021年01月30日掲載)をご覧ください。この武蔵野公園に隣接して都立野川公園が広がっています。その敷地続きに昔、中島飛行機の工場の一つがありました。中島飛行機は戦闘機、爆撃機を作っていたのです。

今日は野川公園をご紹介し、合わせて中島飛行機という会社をご紹介したいと思います。

1番目の写真は都立野川公園の中を流れる「野川」という名前の小川です。この小川のすぐ上流が武蔵野公園です。2つの公園は道路を挟んで繋がっています。

2番目の写真は野川の岸辺で遊んでいる子供達です。この写真の左側に湧き水が豊に出ている泉が3つほどあります。

3番目の写真は野川の南岸側に広がる芝生の原です。この公園はゴルフ場だったのです。戦後に米軍が中島飛行機の工場を接収してゴルフ場を作ったのです。ゴルフ場はこの写真から右の方に1500メートル以上続いています。そこが全て都立野川公園になっています。
ですから野川公園を歩いているとゴルフ場のようになだらかな起伏があり楽しいのです。芝生の草原を囲むように大きな樹々が植えてあります。
なだらかな起伏のある芝原を歩いていると優雅な気分になります。野川公園は優雅な公園なのです。

さて昔あった中島飛行機という会社をご紹介致します。
中島飛行機は1917年に彗星のように現れ、燃えるように成長し通算25、804機の軍用機を大量生産し1945年の終戦とともに煙の如く消えてしまった会社です。
その発展と各工場での生産活動の様子は多くの日本人の記憶から消えてしまいました。
以下は、http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/ からの抜粋です。
中島飛行機は全国に工場がありました。東京では野川公園の隣に工場と三鷹研究所、三鷹市の中心には武蔵野製作所があり、そして杉並区に東京制作所という3つの大きな工場がありました。
戦闘機や爆撃機を作っていたのです。

4番目の写真は中島飛行機が作っていた「隼」という戦闘機です。

5番目の写真は中島飛行機が作っていた「銀河」という爆撃機です。
中島飛行機はこの他にも戦闘機 「疾風」や重爆撃機 「呑龍」や陸上攻撃機「深山」などなどの軍用機を作っていたのです。なお有名なゼロ戦は三菱重工が作っていました。

中島飛行機はアメリカ占領軍によって徹底的に解体されました。その後、その技術は富士重工に残り、名車「スバル360」を生んだのです。
広大な三鷹研究所の跡地の南端に占領軍がゴルフ場にしました。その後、全敷地が返還され都立野川公園と富士重工の自動用エンジン工場と国際キリスト教大学の3地区になったのです。

昨日は家内と散歩しながら中島飛行機の有為変転ぶりを考え、どんな会社にも栄枯盛衰があり、運命にはどうしようもないことを想っていました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


=====中島飛行機物語の序文です==========
1917年、中島知久平を中心に栗原甚悟、佐久間一郎らのたった7名から始まった中島飛行機は消え去ったが、その志は確実に後世の多方面に受け継がれている。

 中島飛行機を代表する技師長であった小山悌氏は終戦後「われわれ中島の技術者は国家の存亡ということで必死に飛行機を設計し生産してきた。しかし、その飛行機により尊い若者の命が奪われたことは間違いのない事実である。過去の飛行機を美化するようなことは決してするまい」と述べられ、それが各技師達の心にあって、中島飛行機の記録や回顧録は極端に少ないものとなっている。

 飛行機に夢を賭けた技術者達のエネルギーは、戦争という異常な歴史に翻弄されはしたが、その行動を振り返ると「純粋に物事を探求し開拓してゆくパイオニアの姿」が浮かび上がってくる。武器としての飛行機には、多くの異論もあろうが、そこには研ぎ澄まされた美しさがあり、旅客機には新世界へ誘うロマンが漂っている。とくにプロペラで気流をかき分け、自分の翼で大気をとらえるレシプロエンジン機に、一途な技術者の顔が見えるような気がする。
====(http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/)===========