後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「地方史とローカル文化の探求とその面白さ」

2021年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム
地方の歴史やローカル文化を調べるのが私の老境の趣味です。この趣味は多くの老人の趣味のようです。老境に至ると人々は歴史が好きになります。特に地方の歴史やローカル文化に興味を持つようになります。

今日は地方を訪問して地方史を調べる方法とインターネットで調べる方法を説明しようと思います。具体的には東京の小平市の小川町の地方史と九州の佐世保市のキリスト教にまつわるローカル文化をご紹介いたします。
さて小川町から始めます。
江戸時代になる前の武蔵野は茅茫々の荒れ地で、暗い森が散在していました。遥か西には奥多摩の山並みが碧く輝いています。そんな武蔵野の雑木林に隠れるように数少ない村が散在しているだけだったのです。
しかし江戸幕府が出来ると幕府は武蔵野の開拓を勧めます。地方、地方にいる名主的な有力者や郷士が幕府の許可を得て新しい農地を広げていったのです。開拓した人の名前が現在の町名になっている所が幾つかあります。例えば小平市の小川町は小川 九郎兵衛が開拓した旧小川村の後身です。
この小平市の小川町の地方史を調べるために小川寺を訪問しました。撮って来た写真を3枚お送りします。

1番目の写真は小川寺(しょうせんじ)の山門です。臨済宗円覚寺派の寺院です。 小川寺は、小川九郎兵衛が開基となり、雪山碩林師を開山として明暦2年(1656年)頃に創建したといいます。
小川九郎兵衛の開発計画は成功します。貞享(1684-1688年)の頃には開拓者たちの懐も潤っていきました。檀家はこぞって梵鐘などを寄進したのです。
小川九郎兵衛は自費を使って農民を住み着かせ、開拓に着手する一方で、江戸市ヶ谷の月桂寺住職・雪山碩林大禅師を勧請、薬師瑠璃光如来を本尊として開山したのが醫王山小川寺です。

2番目の写真は小川寺の13佛の写真です。13佛への信仰は江戸時代に出来た日本独特の信仰です。
この13の佛像へ先祖の供養と家族の健康や豊作を祈っていたのです。不動明王、釈迦如来、地蔵菩薩、弥勒菩薩などの十三仏は冥界の審理に関わる13の仏(仏陀と菩薩)です。
小川九郎兵衛のは寛文9年婿養子市兵衛に家督を譲り、岸村の旧宅に戻ってその年の12月17日に48歳の生涯を閉じました。小川九郎兵衛安次の墓は昭和62年3月、小平市の史跡に指定されています。墓はもともと武蔵村山市の禅昌寺にあったのですが小川寺へ分骨されたのです。

3番目の写真は1674年頃の小川村の地割図です、青梅街道の下側の真ん中に小川寺があります。

小川村のあった場所は武蔵野台地でも水利に乏しい地域で人の住んでいない荒れ野でした。律令制下では武蔵国多摩郡に属し、官道である東山道武蔵路が来ていましたが人はいなかったのです。中世には鎌倉街道の道筋が南北に通過していますが、農民の定住が困難であった土地でした。
1590年に徳川家康が江戸に幕府を作ったので、江戸城築城のための資材を運ぶ運搬路が整備され、青梅から江戸までを繋ぐ青梅街道も出来ます。
承応元年11月(1652年)老中の松平信綱によって玉川上水の開削が計画され、1654年に玉川上水が完成します。
このよう情勢を受けて、1656年に武蔵国多摩郡岸村(現武蔵村山市)の郷士、小川九郎兵衛が江戸幕府に開拓の許可を出願します。1657年から小川村として開拓し、青梅街道に沿って小川用水を整備し小川新田として新田開発を行ったのです。その後小川村を中心に諸村が形成され、青梅街道沿いに小川宿が設置されたのです。
小川寺には、小川九郎兵衛の作った小川分水が現在でも流れています。
小川九郎兵衛の事業は新田の開拓だけでなく、青梅や秩父の石灰や木材などの資材運搬の馬継場を作ったのです。その馬継場は繁盛し人々の生活が潤ったのです。彼は起業家でもあったのです。
以上が小平市の小川町の地方史です。こんな地方の歴史を調べるのが私の老境の趣味です。

さて次に佐世保のキリスト教にまつわるローカル文化をご紹介いたします。インターネットで調べる方法を用いました。
まず佐世保市の中心部にあるカトリック三浦町教会から始めます。この教会は明治30年(1897)コンパス司教により設立されました。
その後、脇田浅五郎神父の尽力により、現在の教会が建立され、昭和6年(1931)10月1日早坂司教によって祝別された教会です。
戦時中は空襲を避けるためにコールタールを塗られ、 黒い教会となりました。 そして佐世保大空襲の時にもこの教会だけは全く被害を受けませんでした。佐世保市街は1945年の空襲で焼け野原になったのです。

4番目の写真は佐世保市の中心にあるカトリック三浦町教会です。

5番目の写真はカトリック三浦町教会の内部です。内部全体が白く、すべてのアーチは尖頭形で柱頭を有する円柱で、やや大きめな柱頭には入念な装飾が施されています。また天井はリブ・ヴォールド天井になっています。

6番目の写真はカトリック三浦町教会の庭にあるルルドの泉です。
この教会は佐世保駅前の小高い丘の上に聳え立ち、そのゴシック建築の美しさとともに、佐世保のローカル文化を代表する名所となっています。
佐世保は佐世保鎮守府の昔から、海軍基地としてて栄えた街で、造船所で生計をたてる人々が多く、米海軍の軍人、家族の姿も混じって見られます。佐世保の軍港としての歴史はよく知られているので、今日はあまり知られていないキリスト教にまつわるローカル文化をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「小金井公園の梅林の今日の開花の様子です」

2021年02月18日 | 写真
公園内にある梅林には、28品種・100本の梅の木が植栽され、見頃の時期には梅まつりが開催されます。今日行ってみたらかなり咲いていました。今日の梅林の開花の様子を写真で示します。
写真の出典は、https://iwalkedblog.com/?p=34854 です。









「日本の仏教を客観的に考える(2)日本の大乗仏教とは何か?」

2021年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム
佛教は紀元前5世紀の中葉にお釈迦様によって作られた世界宗教です。
それがインドで2つに分かれ、上座部仏教(南伝仏教やテラワーダ仏教とも呼ばれます)と大乗仏教(北伝仏教)の二大宗派になりました。
上座部仏教はインドで紀元前4世紀頃に初期仏教から生まれ、それがスリランカに渡り、現在のようにミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムなどに普及しています。
一方、大乗仏教はインドで紀元前1世紀頃に作られ、1世紀以後に中央アジアから中国、朝鮮、台湾、日本へと伝承されました。
この関係を図に示すと1番目の図面のようになります。

1番目の写真は仏教のいろいろな宗派が何時出来て、何処へ伝ったかを示しています。この図解は東京大学仏教青年会の作った図解で、http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/05.html に掲載されています。
この図の示すように、インドでは5、6世紀頃に密教が盛んになり、それが中国を通して日本にも入って来ました。
空海が唐の青龍寺の恵果に指導を受け、真言密教として体系付けた真言宗が日本の密教の始まりになりました。
また最澄によって創始され天台宗も日本密教に分類されます。真言宗が密教専修であるのに対し、天台宗は天台・密教・戒律・禅の四宗相承である点が異なっているそうです。

それはさておき、インドでの仏教は13世紀初頭には完全に消滅してしまったのです。
それでは大乗仏教とはどのような教えなのでしょうか?
答は簡単至極です。大乗仏教の重要な経典の般若心経を理解すれば良いのです。
般若心経とはお釈迦様が弟子のシャーリプトラ(舎利子)へ向かって話したことをまとめたお経です。私自身は「般若心経」が大好きです。とても短い上にお釈迦様の教えの全てが詰まっているのです。
このお経は玄奘三蔵法師がインドから持って来て、唐の長安の大慈恩寺で漢文に翻訳したものです。そして大雅塔に全てのお経を大切に保管したのです。余談ながら私は1982年にこの大雅塔に登りました。幸な時間が流れました。
それはさておき、玄奘三蔵法師が翻訳した漢文の「般若心経」を示します。

摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神咒、是大明咒、是無上咒、是無等等咒、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多咒。即説咒曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経
(般若心経は、「大般若経」という600巻の経典(約300万文字)の内容を、わずか276文字に凝縮したものです)

この漢文の意味は次に掲載されています。
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/hannya.htm
このお経は日本人の文化の基調になりました。
大乗仏教では盧舎那仏像をはじめ抽象的な意味のあるいろいろな仏像を用いるのが特徴です。観音像、薬師像、不動王像、弘法大師像などなどいろいろな像が崇拝の対象になっています。
これとは対照的に上座部仏教ではお釈迦さまの像しかありません。
大乗仏教の特徴はヒンズー教と同じように多種類の仏像を崇拝することにあります。多神教的な信仰形態なのです。
ですから日本で神道と混淆することが容易だったのです。日本の仏教は偶像崇拝を禁じた釈迦の教とはおおいに違う仏教なのです。

今日の挿絵代わりの写真は昨日撮って来た清瀬市の圓通寺の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







=====参考資料======================
大慈恩寺とた玄奘の経典の翻訳作業;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%85%88%E6%81%A9%E5%AF%BA
隋の大興城にあった無漏寺(一説に浄覚寺)の故地に、648年(貞観22年)、皇太子の李治が、亡母(文徳皇后)追善のために建立したのが、大慈恩寺である。その名は「慈母の恩」に由来する。
各地から、良材を集め建てられ、その規模は、子院(塔頭)10数院を擁し、建築物は総数1,897間、公度僧だけで300名という大寺であった。帰朝した玄奘は、本寺の上座となり、寺地北西の翻経院で仏典の漢訳事業に従事した。当寺での、玄奘の訳経活動は、658年(顕慶3年)までの11年に及び、合わせて40部余の経典が漢訳された。玄奘の弟子である基(窺基)は、師から相承した法相宗を宣教し、「慈恩大師」と呼ばれた。
652年(永徽3年)、大雁塔が建立される。当初は、玄奘がインド・西域から持参した仏像や経典を収蔵するための塔であった(大雁塔の項を参照)。
唐代半ば以降、大慈恩寺の境内には、大きな戯場があり、俗講や見世物が行われていた。また、牡丹の名所としても知られ、それを詠んだ多くの漢詩が知られ、藤も植えられていた。春には、寺が所有していた南にある通善坊の「杏園」で杏の花が、夏には、寺の南池で蓮の花が咲き、秋には、柿がなり、紅葉につつまれたと伝えられる。