今日は晴天で少し暖かい日でした。午後に武蔵国の国分寺跡と現在の国分寺の写真を撮りに行きました。
国分寺がこの場所に天平13年(741年)に出来たのは3Kmくらい南に武蔵国の国衙があったからです。現在の府中市の大國魂神社の隣りに国衙の建物があったのです。
写真を撮りながら悠久の時の流れを考えていました。
1番目の写真は国分寺跡の礎石のある風景です。
2番目の写真は現在の国分寺の楼門です。現在の武蔵国分寺は真言宗豊山派の寺院です。武蔵国国分寺の後継寺院にあたります。
3番目の写真は現在の国分寺です。万葉植物園が境内にあります。冬枯れで花も葉も枯れていました。
1333年に分倍河原の合戦で焼失した国分寺は江戸時代に再建されました。その現在の国分寺は昔の国分寺跡の北に約300mの所にあります。
奈良時代の中頃、聖武天皇は諸国に国分寺の建立を命じました。武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置されました。
武蔵国分寺跡は、全国の国分寺跡と比べても規模が大きく、その歴史的重要性はつとに認められており、大正11年に国指定史跡に指定されています。
4番目の写真は国分寺跡から出土した奈良時代の瓦です。
武蔵国分寺には壮大でした。山門、楼門、金堂、講堂、七重塔、庫裏、僧堂、鐘楼、などなどが東西1,500m、南北1,000mの範囲に華麗に並んでいたのです。
5番目の写真は武蔵国分寺僧寺イメージ図です。出典は、https://www.musashikokubunji.jp/history です。
当時はこの場所には東山道の武蔵路が南北に走り、近くには古墳時代からこの地を治めていた国府、現在の府中市がありました。
国分寺および国分尼寺の跡地の跡地の間を府中街道とJR武蔵野線が横切っています。
もともとの国分寺は鎌倉時代末期の新田義貞と鎌倉幕府側の合戦で焼失しました。その後の1335年に、新田義貞は国分寺跡に小さな薬師堂を建てました。その薬師堂は何度か修理されて現在も残っています。現在の武蔵国分寺の裏山に淋しく立っています。
そんな歴史を想いながら国分寺跡の公園でのんびりして来ました。
国分寺がこの場所に天平13年(741年)に出来たのは3Kmくらい南に武蔵国の国衙があったからです。現在の府中市の大國魂神社の隣りに国衙の建物があったのです。
写真を撮りながら悠久の時の流れを考えていました。
1番目の写真は国分寺跡の礎石のある風景です。
2番目の写真は現在の国分寺の楼門です。現在の武蔵国分寺は真言宗豊山派の寺院です。武蔵国国分寺の後継寺院にあたります。
3番目の写真は現在の国分寺です。万葉植物園が境内にあります。冬枯れで花も葉も枯れていました。
1333年に分倍河原の合戦で焼失した国分寺は江戸時代に再建されました。その現在の国分寺は昔の国分寺跡の北に約300mの所にあります。
奈良時代の中頃、聖武天皇は諸国に国分寺の建立を命じました。武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置されました。
武蔵国分寺跡は、全国の国分寺跡と比べても規模が大きく、その歴史的重要性はつとに認められており、大正11年に国指定史跡に指定されています。
4番目の写真は国分寺跡から出土した奈良時代の瓦です。
武蔵国分寺には壮大でした。山門、楼門、金堂、講堂、七重塔、庫裏、僧堂、鐘楼、などなどが東西1,500m、南北1,000mの範囲に華麗に並んでいたのです。
5番目の写真は武蔵国分寺僧寺イメージ図です。出典は、https://www.musashikokubunji.jp/history です。
当時はこの場所には東山道の武蔵路が南北に走り、近くには古墳時代からこの地を治めていた国府、現在の府中市がありました。
国分寺および国分尼寺の跡地の跡地の間を府中街道とJR武蔵野線が横切っています。
もともとの国分寺は鎌倉時代末期の新田義貞と鎌倉幕府側の合戦で焼失しました。その後の1335年に、新田義貞は国分寺跡に小さな薬師堂を建てました。その薬師堂は何度か修理されて現在も残っています。現在の武蔵国分寺の裏山に淋しく立っています。
そんな歴史を想いながら国分寺跡の公園でのんびりして来ました。