後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ゴーギャンとゴッホの喧嘩と彼等の絵画」

2021年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム
1888年、ゴーギャンは南仏アルルに移っていたゴッホの「黄色い家」で9週間にわたり仲良く共同生活を送りました。しかし二人の間には数々の行き違いが起こり、ゴッホの精神は次第に異常をきたすようになったのです。12月23日の夜ゴッホが自分の耳を切ったのです。
ゴーギャンの後年の回想によると、ゴッホがゴーギャンに対しカミソリを持って向かってくるという出来事がありました。その後で自分を傷つけてしまったのです。
翌日ゴッホはアルルの病院に送られました。そしてゴーギャンはアルルを去ったのです。
今日はゴーギャンとゴッホの絵画をご紹介いたします。

1番目の写真はゴーギャンの『マルティニークの風景』1887年、です。
1887年、ゴーギャンはパナマを訪れた後、6月から11月までの約半年、南太平洋のマルティニーク島に滞在しました。ゴーギャンはパナマ滞在中に破産しフランス法に従い起訴され国の費用で本国に戻ることになります。しかしゴーギャンはフランスに帰らずマルティニーク島で船を降りてしまいます。この南太平洋の島では原住民の小屋に住んで人間観察をしながら絵を描きます。夏になると暑く雨漏りがし、ゴーギャンは、赤痢とマラリアにも苦しんだと言います。

2番目の写真はゴーギャンの『ナヴェ・ナヴェ・モエ(聖なる泉)』1894年、です。この絵は原住民の女の優しさを描いた絵のようでです。

3番目の写真はゴーギャンの『タヒチの女(浜辺にて)』1891年、です。この絵から女の強い生活力を感じます。

4番目の写真はゴーギャンの『海辺の騎手たち』1902年、です。南の島の人々が競馬などをして生活を楽しんでいる様子が伺えます。

5番目の写真はゴッホの「夜のカフェテラス」1888年、です。
「夜のカフェテラス」は、ゴッホがフランスのアルルに滞在していた時に制作された作品です。ゴッホは広場の角に立ちイーゼルを立てて絵を描いていたと言われています。

6番目の写真はゴッホの「糸杉と星の見える道」1890年、です。
「糸杉と星の見える道」はゴッホがサン=レミ=ド=プロヴァンスの精神病院で療養していた時に制作した作品です。

7番目の写真はゴッホの「カラスのいる麦畑」1890年、です。
「カラスのいる麦畑」は、ゴッホの最晩年に描かれた作品のひとつです。聖書の中で「麦刈り」はしばしば人の死の象徴として語られており、ゴッホ自身も死のイメージとして好んで麦畑の主題を描いています。
作品の暗鬱な雰囲気と晩年に描かれた作品ということからゴッホの絶筆作と言われることの多いこの作品ですが、実はこの作品が完成されてから、ゴッホが死ぬまでには25作品ほどの絵を描いています。

さてゴッホの生涯はよく知られているので、以下にゴーギャンのことをご紹介します。
ゴーギャンのフルネームはウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン( Eugène Henri Paul Gauguin )と言います。1848年に生まれ 1903年に死んだフランスのポスト印象派の画家でした。
ゴーギャンは南太平洋の島々が好きだったのです。
移住した目的はヨーロッパ文明と「人工的・因習的な何もかも」からの脱出であった言われています。
タヒチでの最初の3週間は、植民地の首都で西欧化の進んだ住宅で過ごしました。しかしその住宅を出ておよそ45キロメートル離れた場所にアトリエをと泊まるために自分で竹の小屋を建てます。ここでタヒチ時代で最も評価の高い作品を描いています。
ゴーギャンはタヒチの古い習俗に関する本を読み、アリオイという独自の共同体やオロ (神)についての解説に惹きつけられたそうです。そして、想像に基づいて、絵や木彫りの彫刻を制作しました。
そしてこんな死に方をします。
マルキーズ諸島に住んいたゴーギャンの体力は相当落ち込み体の痛みも激しくなります。再びモルヒネに頼るようになります。死は、1903年5月8日の朝、突然訪れたました。
それに先立ち、ゴーギャンはヴェルニエ牧師を呼び、ふらふらすると訴えます。ヴェルニエ牧師はゴーギャンと言葉を交わし容態が安定していると考えて立ち去りました。ところが、午前11時に近くの住人ティオカがゴーギャンが死んでいるのを発見します。
そして翌日、マルキーズ諸島のカトリック教会のカルヴァリー墓地に埋葬されたのです。
ゴーギャン死亡の報は、1903年8月23日までフランスに届きませんでした。遺言はなく、価値のない家財は現地で競売に付され、手紙、原稿、絵画は9月5日に競売にかけられたます。このように財産が速やかに処分されてしまったため、彼の晩年に関する情報が失われてしまった言われています。妻メットが競売の売上金を受け取ったは僅かおよそ4000フランでした。詳しくは、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%B3 にあります。

この様にゴーギャンの死に方は淋しい南の島でした。しかし彼の絵画作品は力強く100年以上たった現在でも輝いております。人々へ元気と勇気を与えています。芸術は永遠の価値を持っているのです。

今日は主にゴーギャンの絵画と生涯についてご紹介しました。それにしてもゴッホもゴーギャンも痛ましい人生を送った天才でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)