後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の日記、白鷺と水辺の写真を撮りに行った」

2021年02月08日 | 写真
この季節は水辺に白鷺が集まります。午後から清瀬市の金山緑地へ白鷺と水辺の写真を撮りに行きました。
10羽ほどの白鷺が水辺にいました。こんなのどかな風景を見ているととても平和な気分になります。
金山緑地から県境を超えて埼玉県の田園地帯を少しドライブして来ました。今日も何事も無く平穏に暮れていくでしょう。家内が撮って来た写真をお送り致します。







「シルクロードのロマン(4)平山 郁夫の『シルクロード美術館』を訪ねる」

2021年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム
平山郁夫はシルクロードのロマンに魅せられた画家でした。1960年代から足繫くシルクロードに行き数々の風景画を描きました。八ヶ岳の山麓の甲斐小泉には平山 郁夫の『シルクロード美術館』があります。2年前にこの美術館を訪ね写真も撮って来ました。広い立派な美術館でした。平山 郁夫は1930年に生まれ 2009年に没しました。
今日は平山 郁夫の絵画をご紹介いたします。

1番目の写真はシルクロードを行く玄奘三蔵法師をテーマにした『仏教伝来』です。東京藝術大学で助手を務めていた1959年ごろの制作です。平山郁夫は三蔵法師を非常に尊敬していました。この制作が切っ掛けになり中国の長安とローマを結ぶシルクロードに強い興味を持ちその風景画を沢山描くようになります。

2番目の写真は2019年に訪ねた甲斐小泉の平山郁夫シルクロード美術館に展示してあった「月光砂漠行」です。
平山郁夫は1968年以降シルクロードに関連する国々を数十回訪問し各地の風景画を描いています。訪れた国は中国、中央アジア、西アジア、東南アジア、地中海地域などシルクロードと関連のあった国々約37カ国です。平山郁夫の一生はシルクロードに魅せられた生涯だったのです。

3番目の写真は同じくシルクロード美術館に展示してあった「アフガニスタンの砂漠行」です。
この美術館の1階にはシルクロードと関連のあった陶磁器、織物、イスラーム美術の彫刻、ガンダーラ美術の仏像、硬貨など約9000点の一部が展示されています。平山郁夫のシルクロードにかける情熱の強さに圧倒されます。

4番目の写真はインド洋を東西に繫ぐ「海のシルクロード」です。
「シルクロード」という名称はドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『China(支那)』で1877年に作った名前です。ドイツ語でSeidenstraßenと複数形になっていますが,全て内陸の交易路を意味し海のシルクロードは含まれていませんでした。「海のシルクロード」は後世の人々が付けた名前です。

5番目の写真は『流水間断無』(奥入瀬渓流) です。この絵の大きな原画もシルクロード美術館 に展示してありました。

6番目の写真は平山郁夫シルクロード美術館に展示してあった北杜市から見上げた「甲斐駒岳」です。

7番目の写真は平山郁夫の郷里の尾道から四国を繫ぐ橋を描いた「白い橋 因島大橋」です。平山郁夫は1930年に 広島県尾道市瀬戸田町に生まれ尾道市で育ちました。
平山郁夫の頭には常に仏教的祈りがあったようです。平山郁夫は先の戦争や原爆被爆の体験から、終生「平安と鎮魂」を求めていたのです。
奈良の薬師寺に奉納された壮大なスケールの『大唐西域壁画』と『ナーランダの月』は正しく心の平安と全ての死者の鎮魂を祈った壮大な絵画です。平山郁夫の絵画の裏には静かな仏教的祈りがあるのです。
誤解を恐れずに書けば、全て宗教画なのです。それが平山郁夫の絵画の強みでもありますが弱みになる場合もあるのです。
宗教的になって芸術性が弱くなるのです。しかし皆とても美しい絵です。私は彼の絵が大好きですが、家人は何となくつまらない絵だと言います。困ったものです。
今日は「シルクロードのロマン(4)」として平山郁夫の心静まる風景画をご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


====参考資料===========================
平山 郁夫(1930年6月15日 - 2009年12月2日[)について、

日本画家、教育者。日本美術院理事長、一ツ橋綜合財団理事、第6代・第8代東京藝術大学学長を務めた。文化勲章受章者。称号は広島県名誉県民、広島市名誉市民、鎌倉市名誉市民。 (https://ja.wikipedia.org/wiki/平山郁夫)

旧制広島修道中学3年在学中、勤労動員されていた広島市内陸軍兵器補給廠で広島市への原子爆弾投下により被災。この被爆経験が後の「文化財赤十字」活動などの原点になっている。
第二次世界大戦後は実家に近い旧制忠海中学に転校した。ここでは高橋玄洋と同級生となっている。卒業後、清水南山(祖母の兄)の強い勧めもあり東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。前田青邨に師事する。
東京藝術大学で助手を務めていた1959年ごろ、原爆後遺症(白血球減少)で一時は死も覚悟したこともありました。郁夫の作品には仏教をテーマとしたものが多い。

仏教のテーマはやがて、古代インドに発生した仏教をアジアの果ての島国にまで伝えた仏教東漸の道と文化の西と東を結んだシルクロードへの憧憬につながっていった。そのあと、郁夫はイタリアやフランスなど、ヨーロッパ諸国も訪ねている。
郁夫は1960年代後半からたびたびシルクロードの遺跡や中国を訪ね、極寒のヒマラヤ山脈から酷暑のタクラマカン砂漠に至るまでシルクロードをくまなく旅している。その成果は奈良・薬師寺玄奘三蔵院の壁画に結実している。
アッシジのサン・フランチェスコ聖堂壁画の模写、法隆寺金堂壁画の模写、高松塚古墳壁画の模写や、ユネスコ親善大使として中国と北朝鮮を仲介して高句麗前期の都城と古墳と高句麗古墳群の世界遺産同時登録に寄与した功績で韓国政府より修交勲章興仁章(2等級)を受章した。

また、国内外を問わず長年にわたって後進の指導に当たる。日本への敦煌研究者及び文化財修復者など受け入れ事業などを提唱し、敦煌莫高窟の壁画修復事業にあたって日本画の岩絵具を用いた重ねの技法を指導するなど、現地で失われた美術技法の再構築と人材育成に尽力した。「文化財赤十字活動」の名のもとカンボジアのアンコール遺跡救済活動、敦煌の莫高窟の保存事業、南京城壁の修復事業、バーミヤンの大仏保護事業などの文化財保護や相互理解活動を評価されるなどその活動は幅広く社会への影響も大きい。