後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「懐かしい復活祭の前に棕櫚の枝を振ってイエスさまを歓迎する写真」

2023年03月02日 | 写真
3年くらい前までは毎週教会のカトリック小金井教会のミサに行っておりました。コロナ禍で行けなくなりそのうち足が弱くなって最近は自宅でインターネットのミサにあずかっています。昔の自分のブログを見ていたら2018年03月27日 掲載記事に懐かしい復活祭の前のミサの写真が出てました。懐かしいので4枚の写真を再び掲載いたします。このミサはイエスさまを信者たちが棕櫚の枝をふって歓迎しエルサレム送るへ場面を再現しています。

1番目の写真は侍者と神父さん達が列を作って会衆の真ん中を通って行く場面です。

2番目の写真は聖書を朗読しながら聖堂に入って行く場面です。棕櫚の葉を振った信者たちに歓迎されて、イエスがエルサレムに入城する場面を再現したものです。

3番目の写真は教会の中で何時もの同じようにミサをしている場面です。

4番目の写真は神父さまが聖餅を信者一人、一人へ手渡している場面です。
話は次のように展開します。
棕櫚の葉を振った多くの人々に歓迎されて、イエスがエルサレムに入城するのです。
人々の歓迎にもかかわらず、イエスは捕まってローマ総督のピラトの裁判にかけられ、十字架上で死にます。
しかし墓に葬られたイエスが生き返って、弟子達の前に現れ話をするのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ウクライナの美しい農村風景」

2023年03月02日 | 写真
ウクライナの都市はロシアのミサイル攻撃で無残にも破壊され惨状を呈しています。見るも無残な光景です。しかし農村地帯では美しい風景がそのまま残っています。

そんなウクライナの美しい農村風景の写真をお送り致します。写真はインターネットからお借りしました。

「ウクライナの歴史(3)中世時代のキエフ大公国」

2023年03月02日 | 日記・エッセイ・コラム
今回のロシアによるウクライナの軍事侵攻の直接的な原因は1991年のソ連崩壊後の両国の確執です。ロシアがソ連時代の盟友と信じていたウクライナがロシアを裏切ったと感じたからです。ロシアによるウクライナの軍事侵攻の直接的な原因は明日具体的に書くことにして今日はウクライナの中世の歴史を簡単に書きます。ウクライナ草原にコサック騎兵隊が活躍する前の歴史です。
話は前後しますが「ウクライナの歴史」として書いておくべきことです。キエフを首都にした中世時代のキエフ大公国のことです。これが現在のウクライナの始まりです。
キエフ大公国は中世のヨーロッパに燦然と輝く文化を持った大国でした。

6世紀後半に入ると東スラヴ人がキエフ周辺を支配するようになった。『原初年代記』には、東スラヴ人の中のポリャーネ氏族であった三人の兄弟(キー、シチェク、ホリフ)および彼らの妹であるルイベジにより、この地に町が作られ、キエフと名付けられたと記されている。

1番目の写真はキエフ市のドニエプル川沿いの公園に設置された三兄弟と妹の像です。
キエフ大公国は9世紀後半から13世紀半ばにかけて、東ヨーロッパおよび北ヨーロッパに存在した国家でした。
一方、ノヴゴロドの地ではルーシ族の首長リューリクが一族を引き連れて到来し、ノヴゴロド公としてリューリク朝を興した。キエフの町はリューリク朝の貴族アスコルドとディルによって征服されたが、彼らは882年にリューリクの息子イホルの後見人オレフによって討たれた。
オレフは近隣の諸部族を従属させ、この地を統治しキエフ公を名乗り、都をノヴゴロドからキエフへと移した。こうしてノヴゴロドからキエフに至る広大な地を統治する国家(キエフ大公国)が誕生した。
正式な国号はルーシで日本語名はその大公座の置かれたキエフに由来する。
10世紀までにキリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。
11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。キエフ大公国は、その政権下に東スラヴ人、フィン・ウゴル人、バルト人の諸部族の住む広大な地域を組み込んでいた。
しかし1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。

交易は公国の経済活動の主要な要素であり、対外交易は非常に発達していた。ドニエプル川を軸とした水路は、ルーシと東ローマをつないでいた。さらに商人たちはキエフからモラヴィア、ボヘミア、ポーランド、ドイツ南部へ、ノヴゴロドやポロツクからはバルト海を経てスカンジナビアやポメレリア、その西へと出かけていた。

2番目の写真は945年、ドレヴャーネ族から税金を徴収している情景です。
宗教は最終的にキリスト教になった。
980年、ウラジーミル1世はスラヴ民族の様々な信仰や祭祀・祭礼の文化を体系化することで、キエフ大公国をスラヴ人全体を代表する国に発展させようと試みた。様々な民間信仰の神が列聖され、キエフの周辺の丘にその神殿が建設された 。しかし987年には他の各宗教を調査させたうえキリスト教を導入することになり、988年には本人も洗礼を受けた。
キリスト教が導入されると、教会は長年に渡って、教会からみて異教の残滓である忌わしい慣習、悪鬼のような娯楽、冒涜に値するものを排除しようとした。しかしこの種の伝承は人々の風俗の間に保持された。それは初期の宗教的な意味合いを失い、儀式が娯楽へと変質し、19-20世紀の直前まで残されていた。

3番目の写真は現在のキエフにある美しい教会です。
キリスト教の導入によって、識字力の幅広い層への普及・記述文化の急激な発達が促進された。カトリックが宗教的な場面で用いる言語を限定したのに対し、ルーシの地での正教会は、キエフ大公国の人々の母語に非常に近い古代教会スラヴ語での礼拝を許容したからである。このことは母語で読み書きする力の発達のために好ましい環境を作り上げた。

住居については以下でご紹介致します。
古代スラヴ人の住居は、社会階層によって異なる様式を持っていたと考えられる。インド・ヨーロッパ語族の社会には、支配階級となる戦士層と、農耕牧畜を行う生産者層のあいだに歴然とした階層差があり、それが住居にも現れていた。
8-10世紀ごろのスラヴ人の遺跡には、半地下式の住居が多数発見されている。 もっとも原始的な住居は、地面を1メートルほど掘り、その上に、簡素な屋根を直接かぶせたものである。屋根は木の枝や葉、葦や粘土で作られた。半放浪的な生活を送っていた初期スラヴ人に適した形式であった。
一方、10世紀ごろのキエフやベロゴロドの遺跡には、竈(かまど)や二階などのある発達した住居が含まれている。これらは支配者層である戦士階級のものだと思われる。
スラヴ人の住居の最初の形態は暖炉を兼ねた竈と、その竈を置いた部屋という簡単なものであったと思われる。竈や炉は全スラヴでペーチカ等と呼ばれている。
次の段階では、竈のある部屋を寒さや雪から守るためにもう一つの部屋が作られた。こうしたスタイルの住居は、10世紀ごろの東西スラヴ人の住居に既に見られ、現在の民家にも残っている。これらは10世紀以降の文献に現れている。

今日の話はこれ位にして、詳しくは次の文献をご覧下さい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%A8%E3%83%95%E5%A4%A7%E5%85%AC%E5%9B%BD

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)