後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「公園に一本だけの早咲きの櫻の花の写真を撮って来た」

2023年03月04日 | 写真
大島櫻と寒櫻を交配してつくった早咲きの「大漁櫻」の花の写真を撮って来ました。
小金井公園で現在この一本だけ咲いてます。多数あるソメイヨシノ種の櫻が咲くのはまだまだ先になります。
撮って来た写真をお送り致します。

「ウクライナの歴史(4)ソ連時代の大飢饉」

2023年03月04日 | 日記・エッセイ・コラム
ウクライナの歴史を調べて行くと悲劇の連続で心が痛みます。1917年の共産主義革命の後、「ウクライナ共和国」が独立しますがソ連のスターリンによって潰されます。そして1932年になると大飢饉がウクライナを襲い330万人から数百万人にもの餓死者を出したのです。これは人類史上でも数少ない大規模な飢饉なので「ホロドモール」という特別な名前がついています。
今日はウクライナの大飢饉、「ホロドモール」について書きたいと思います。
この大飢饉は1932年から1933年にかけてウクライナ・北カフカース・クバーニなどウクライナ人が住んでいた地域で起きました。
そしてカザフスタンなど、ソビエト連邦各地でもおきた大飢饉でした。
この飢饉は、スターリン政権による農業の集団化政策が原因と考えられています。人為的な大飢饉であったことが明らかになっているのです。
つまり集団化で働く意欲を失った農民によって麦の収穫が激減したため起きた大飢饉でした。
ソ連政府の五カ年計画のコルホーズ(集団農場)による農業の集団化政策の大失敗でした。
穀物の強制徴発、ノルマを達成しない農民への弾圧や処罰などを原因として発生した大飢饉でした。
ロシア革命によって、地主階級は完全に消滅し、また共同体(ミール)復活により自作農も消滅します。土地の急激な国有化によって農業生産は重大な打撃を受け、さらにロシア内戦(1917-22年)でウクライナは疲弊したのです。
スターリンのウクライナ嫌いは非理性的でかつ徹底的でした。1929年にはウクライナ民族主義グループの摘発をはじめ、ウクライナ解放同盟が逮捕されます。
1930年1月22日、スターリンは「民族問題の本質は、農民の問題である」と宣言し、ウクライナにおける集団化の目的は、「ウクライナ民族主義の社会的基礎、つまり個人の土地財産をつぶすことだ」と表明します。
ウクライナ共産党書記長コシオールはウクライナの収穫高の壊滅的減少について知っていたがスターリンの集団化政策を推進し、飢饉の原因はウクライナの民族主義にあると断言したのです。
そして1931年の不作に対して、ソ連当局は、目標を達成していない集団農場に、作付け用の種子の差し出しさえも命じたのです。農民は自ら穀物を生産しているにも関わらず、自分達の食糧分を確保することも許されなくなくなったのです。
ソ連政府の政策に不満を持った農民は「クラーク」とみなされシベリアに追放されました。1931年5月26日にはウクライナの富農の家族3500人がウクライナのザポリージア州から追い出され、6月3日にシベリアに到着します。輸送中に15-20%、特に子供が死亡したのです。
こうして大飢饉が始まり330万人以上の餓死者を出したのです。
1932年春にはすでに飢饉が発生しており、ウクライナ農民には一人当たり約113kgの穀物しか残っていなかったと言われています。ウクライナ共産党員も餓死の報告と飢饉の危険を訴え、ソ連当局にも飢饉の報告はあがっていました。しかし6月にはハルキウのすべての地区での餓死が報告され出したのです。
飢饉が報告されると、党中央と地方指導部との間での責任転嫁も起こります。スターリンは1932年はじめには、ウクライナでの食糧危機の原因の責任は地方指導部にあり、地方指導部が工業化に熱中するあまり穀物調達計画を怠ったと非難します。しかしウクライナの指導者らは飢饉の責任は党中央にあると言明します。
以上がウクライナの大飢饉のあらましです。明快に言えばスターリンの政策の大失敗です。稚拙な農業の集団化計画の失政で起きた大飢饉だったのです。
ウクライナ民族のソ連に対する怨念の原因になりました。ソ連崩壊後、ウクライナが独立するのは当然の成り行きです。

写真はウクライナ大飢饉に関連したものです。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AB です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真はハルキウ州で行われた「プロレタリア革命の波」と呼ばれるコルホーズからのパンの強制収集の場面です。。

2番目の写真はウラル山脈西側のペルミにあった強制労働収容所です。
強制労働収容所にはクラーク、農民だけでなく、少数民族、反ソ連分子とされた共産党員、戦争捕虜など様々な人間が収容されていました。第二次世界大戦の終戦後には日本人も約57万人がシベリア抑留で同様の強制収容所に収容され約5万5000人が死亡したのです。

3番目の写真はバルト海運河で強制労働中の収容者です(1932年)。