後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「野川にさしかかる桜花の風情」

2023年03月21日 | 写真
近所に野川にさしかかって咲いている桜花があります。何とも言えない良い風情なので毎年写真を撮りに行きます。
満開の頃なので午後から写真を撮りに行きました。あいにくの曇り日の写真ですがお楽しみ下さい。

「現在は四旬節、日本の土になった外国人の神父を想う」

2023年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今年、2023年の灰の水曜日は2月22日でした。四旬節は2月23日から4月8日までで4月9日は復活祭です。現在は四旬節の最中です。
そこで今日は今年の四旬節にあっての教皇のメッセージを紹介して、その後日本の土になった2人の外国人の神父をご紹介したいと思います。
まず教皇のフランシスコ神父さまをご紹介いたします。

1番目の写真はフランシスコ法王です。(2014年8月撮影)教皇就任 は2013年3月13日でした。

2番目の写真はフランシスコ神父さまが長崎を訪れたことを記念する原爆落下中心碑です。法王は2019年11月23日から11月26日まで日本を訪問しました。
フランシスコ神父さまは1936年にアルゼンチンの首都ブエノスアイレスでイタリア系移民の子として生まれました。さて2023年の四旬節にあたって次のような教皇メッセージを出してます。
・・・親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 マタイ、マルコ、ルカの福音書は、いずれもイエスの変容のエピソードを描いています。そこでは、弟子たちがご自分を理解できなかったことへのイエスの反応を見ることができます。その少し前、イエスが神の子キリストであると信仰告白した後にその受難と十字架の予告を否定したペトロと師との間には、激しい衝突がありました。イエスは彼をきつく叱責しました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16・23)。それに続いて、「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(マタイ17・1)のです。・・・

以下は、https://www.cbcj.catholic.jp/2023/02/24/26555/ に掲載されています。

私は四旬節の間、日本の土になった2人の外人神父んもことをあれこれ想います。フランスから来たド・ロ神父さまとロシアから来たニコライ神父さまです。 

さてド・ロ神父さまですが、彼は美味しいソーメンを作って九州の人々を助けました。そのド・ロさまソーメンを現在でも製造している会社が長崎にあります。
(株式会社サンフリード、http://www.sunflead.co.jp/  )
ド・ロさまは、明治12年(1879年)に現在の長崎市の旧黒崎村出津の里に赴任したフランス人宣教師のマルク・マリー・ド・ロ神父(1840~1914)のことです。
彼は、村人たちの暮らしが、あまりにも貧しいのに驚き、村人の生活の向上のために布教活動のかたわら障害者の為の授産所や救助院を設けます。その上、故国、フランスから小麦粉を取り寄せ、フランスに残してあった私財を投じてパン、マカロニ、ソーメン作りの工場を建て製造技術を教えました。
ド・ロさまは72歳で亡くなるまでの42年間、故郷のフランスに一度も帰りませんでした。終生、長崎の貧しい人々に優しく接したのです。信者でない人々へも等しく支援したのです。

3番目の写真は出津教会です。ド・ロ神父はパリ外国宣教会所属で、1868年(慶応4年)6月に来日し、長崎市外海地区において布教活動のために建てた教会です。

ド・ロ神父が設計した出津教会堂、大野教会堂、旧羅典神学校、旧大司教館および、社会福祉事業に関連する遺跡(ド・ロ神父遺跡、旧出津救助院)は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定一覧表へ登録された「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に加えられています。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/マルク・マリー・ド・ロ です。

次にロシアから来たニコライ神父さまをご紹介致します。彼は日本の土になったロシア正教のニコライ・カサートキンという人でした。ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。日本に着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、上野の谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。
4番目の写真はニコライ神父様が建てた東京、神田にあるニコライ堂です。
5番目の写真はニコライ堂の内部です。1904年と1905年には日露戦争が続きました。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えられています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。1912年、持病の心臓病が悪化し、コライ堂で天に帰りました。駿河台のニコライ堂から上野の谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。多くの日本人がニコライの死を悲しんだのです。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の写真に見えます。
6番目の写真は谷中にあるニコライのお墓です。ニコライは明治天皇を尊敬し、深く日本の信者を愛していたのです。日本人を愛すことは「隣人を愛せ」というイエス様の教えなのです。   今日は今年の四旬節にあっての教皇のメッセージを紹介して、その後日本の土になったフランスから来たド・ロ神父さまとロシアから来たニコライ神父さまをご紹介致しました。    それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)