私は昭和26年に仙台一高へ入学し29年に卒業しました。仙台一高は旧制の仙台一中を新制高校にしたばかりで校舎も先生方も一中時代のままでした。全く新し新制中学校から入学すると昔の日本の大人社会に入ったようです。全てに伝統がありそれをを重んじていました。例えば仙台一高と二高の野球の試合では応援歌を歌います、その練習が長期間でかなり厳しいのです。その仙台一高で私は部活として木工部という部に入りました。部室には木工用の工具として大きな電気ドリルがポツンとあるだけで誰も木工などしていません。その倶楽部はもっぱら松島湾でボートを漕ぐ活動をしていたのです。木工部というのは名前だけで何故か松島でボート遊びをする部だったのです。それでは松島湾の風景と漕いでいたボートをご紹介致します。1番目の写真は宮戸島の大高森の展望台から見た松島湾です。遥かに遠い背景として蔵王山の山波が写っています。2番目の写真は松島湾でよく漕いでいたカッターです。このカッターは東北大学の漕艇部のものです。塩釜の艇庫にあります。その東北大学のカッターを3年生が塩釜の艇庫から借り出して来るのです。
1年生と2年生の部員が塩釜の岸壁で待っていると3年生が何処からかカッターを漕ぎよせて来ます。東北大学の艇庫の場所は3年生だけが知っている秘密なのです。それが3年生の権威なのです。全部で14,5人が乗り込むとカッターは島々の間を縫って松島湾を周航します。3年生が舵を握り掛け声をかけます。1年生と2年生は従順な漕ぎ手です。しかし3年生は意外に優しいのです。掛け声に合わせてオールを動かしていれば力を抜いても怒りません。そして漕ぎながら景色を楽しめと言うのです。しかし牡蠣棚だけへはカッターをぶつけてはいけないと言います。
昼になれば適当な島の砂浜へボートを乗り上げて持参のオニギリを食べます。午後も漕ぎますが、塩釜までの帰路は漕ぐのを止めて帆走なのです。
この帆走も不思議な体験です。帰路になると3年生がカッターの先端に低いマストを立てます。
そこへ薄汚れた三角形の布製の帆を上げるのです。すると帆が風をはらんでカッターが勢い良く快走するのです。後は風まかせで塩釜まで帰ります。
1年生と2年生の部員が塩釜の岸壁で待っていると3年生が何処からかカッターを漕ぎよせて来ます。東北大学の艇庫の場所は3年生だけが知っている秘密なのです。それが3年生の権威なのです。全部で14,5人が乗り込むとカッターは島々の間を縫って松島湾を周航します。3年生が舵を握り掛け声をかけます。1年生と2年生は従順な漕ぎ手です。しかし3年生は意外に優しいのです。掛け声に合わせてオールを動かしていれば力を抜いても怒りません。そして漕ぎながら景色を楽しめと言うのです。しかし牡蠣棚だけへはカッターをぶつけてはいけないと言います。
昼になれば適当な島の砂浜へボートを乗り上げて持参のオニギリを食べます。午後も漕ぎますが、塩釜までの帰路は漕ぐのを止めて帆走なのです。
この帆走も不思議な体験です。帰路になると3年生がカッターの先端に低いマストを立てます。
そこへ薄汚れた三角形の布製の帆を上げるのです。すると帆が風をはらんでカッターが勢い良く快走するのです。後は風まかせで塩釜まで帰ります。
カッターのオールは電信柱かと思うほ太く重いのです。船体の分厚い木造です。1番目の写真のような洒落たカッターではありません。もう木造の武骨なカッターは無くなったです。 3番目の写真は競走用のエイトです。8人に漕ぎ1人の舵手の合計9人乗りです。しかし仙台一高の木工部では12、3人で乗ります。前甲板に2人と後甲板の2人、合計13人でよく乗りました。このエイトも東北大学の漕艇部から借りていました。エイトの船体は薄く華奢に出来ていて絶対に牡蠣棚にぶっつけてはいけないのです。座席も巧妙に出来ていてスライデイング形式とフィックス形式の2つがありました。午前中と午後に漕ぎ回ると疲労困憊です。4番目の写真は松島湾の夕日です。カッターもエイトは漕ぎはじめると面白くつい時を忘れます。気が付いたや夕方になっていたことも何度かありました。夕方の松島も良いものです。
昭和26年から29年まで私は仙台一高の「木工部」の部員でした。しかし木工は一切しませんでした。このクラブは木工とは関係しなで、もっぱら松島湾を漕ぎまわるクラブだったのです。今思うと不思議なクラブでした。
これも忘れられない昭和の思い出でした。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)