玄奘三蔵法師はシルクロードを通ってインドに行き仏教の経典657部を背負ってきました。現在日本で読まれている経典は全て玄奘が背負って来た大乗仏教の経典です。
長安を出発した玄奘は高昌国やヤブグカガン王国で歓迎され旅の支援を受けます。往路はシルクロードの天山北路を通り、帰りは西域南道を通りました。
その道筋の詳細は、天竺への道、第二十三回コラム「玄奘三蔵インドへの旅について」 | お寺の窓口 (oteranavi.com) という資料にあります。
玄奘の往路のルートの概略は、出発(629年)は長安で、そこからシルクロードを西に向かい、天山山脈を越えて現在のキルギス、ウズベキスタンという中央アジアに進んでいきました。そしてアフガニスタンを経て、インドの仏教の中心地だったブッダガヤ近郊のナーランダーに到着したのです。
1番目の写真は玄奘三蔵法師の旅の道程を示した図面です。
この図面の出典は、http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/12.html です。
玄奘三蔵法師の持って来た経典657部は現在、中國、台湾、韓国、日本で読まれているお経のほとんど全てなのです。漢文に翻訳したものです。そして一部はインドのパーリ語の発音をそのまま漢字で表したものです。
玄奘は西暦602年に生まれ、664年に62歳で亡くなりました。
西暦629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教の研究を行って、16年後の645年に経典や仏像などを持って帰還しました。以後、翻訳作業で従来伝承された仏教の誤りを正しながら、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなったのです。
2番目の写真は中国の長安の大慈恩寺の境内にある大雁塔です。ここに玄奘三蔵法師の持ち帰った経典が保管されていました。
私は1981年に許可を貰ってこの大雅塔の最上階まで登ったことがあります。当時は文化大革命の後だったので大雁塔の土の階段が崩れていたことに心が痛みました。現在は綺麗に修復され立ち入り禁止になっていると聞きました。
3番目の写真は大慈恩寺の境内にある玄奘三蔵法師の記念堂です。
写真の出典は、http://www.e-asianmarket.com/xian/xiantemple01.html です。
4番目の写真は西安の青龍寺にある空海の記念碑です。青龍寺は隋の時代、582年に創建されました。空海は、ここで恵果和尚から玄奘が持って来た経典と密教の教義を学びました。写真の出典は、https://bluebird-story.com/qinglongsi/ です。
5番目の写真は埼玉県の慈恩寺にある玄奘三蔵法師の像と玄奘塔です。この塔の下に玄奘三蔵法師の遺骨の一部の頂骨が祀ってあります。この写真は埼玉県の慈恩寺で私が撮りました。
この訪問記は、http://yamanasi-satoyama.blog.ocn.ne.jp の2009年9月14日の掲載記事、「日本の全仏教徒のために海を渡ってきた玄奘三蔵法師の遺骨にお参りして来ました」に書いてあります。
慈恩寺の第50世住職の大嶋見道師と第51世住職の大嶋見順師の2代の住職が心を配り慈恩寺から少し離れた場所に玄奘塔を建て、その根元に遺骨を奉安しています。
私は玄奘三蔵法師を尊敬しています。唐の長安を旅立ち、はるかインドまで行き、16年もインドで仏教を極め、数多くの経典を背負って長安に帰りついたのです。そしてインドの言葉で書かれた経典を漢文へと翻訳したのです。
玄奘三蔵法師の遺骨は長安の東の郊外の白鹿原に捨てられました。釈迦の教えどうり捨てたのです。しかし後に弟子たちが遺骨を拾い集めます。その遺骨の一部が埼玉県にあるのです。不思議です。
私は玄奘三蔵法師を尊敬しています。唐の長安を旅立ち、はるかインドまで行き、16年もインドで仏教を極め、数多くの経典を背負って長安に帰りついたのです。そしてインドの言葉で書かれた経典を漢文へと翻訳したのです。
玄奘三蔵法師の遺骨は長安の東の郊外の白鹿原に捨てられました。釈迦の教えどうり捨てたのです。しかし後に弟子たちが遺骨を拾い集めます。その遺骨の一部が埼玉県にあるのです。不思議です。
インド、中国、日本と広い地域に流れた悠久の時を考えています。人間の想念は時空を越えるのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)