後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「『木々は光を浴びて』、そんな風景を求めて」

2025年01月13日 | 写真
『木々は光を浴びて』、そんな風景を求めて武蔵野公園まで行きました。
広々した風景をがあるだけで木々は光を浴びていません。困ったものです。でも気分は爽快でした。
撮って来ました写真をお送り致します。 

「小金井市の成人の日の風景」

2025年01月13日 | 写真
小金井市の成人の日の風景の写真をお送り致します。
駅前の公会堂で成人式があったようです。通りかかったら美しい和服姿が公会堂から出てきて写真を撮ってました。
私も写真を撮って来ました。そんな写真をお送り致します。




「美しいブナ林の写真」

2025年01月13日 | ブログ
美しいブナ林の写真をお送り致します。
新潟県の十日市町の近くに美しいブナ林があります。松之山美人林といいます。写真をお送りいたします。樹林がお好きな方らなら、きっと お喜び頂けと思います。

1番目の写真の出典は、https://www.tokamachishikankou.jp/spot/bijinbayashi/ です。
2番目から4番目の写真は以前に私が撮った写真です 。



「ニレの木にはヨーロッパ文化の香りするがする」

2025年01月13日 | 日記・エッセイ・コラム
ニレの木にはヨーロッパ文化の香りがします。私の思い込みかも知れません。
その理由はヨーロッパではニレ(楡)とブドウ(葡萄)は良縁の象徴とされているそうです。この風習は元々はイタリア由来で、以下のような話があります。
古代ローマ時代からイタリアではブドウを仕立てる支柱としてニレを使うために、ブドウ畑でニレも一緒に栽培していました。ニレは横方向に仕立ててぶどうの蔓を絡ませたのです。古代ローマの詩人オウィディウス(Ovidius、紀元前43-紀元前26年)はこれを見ていたく感動し、ulmus amat vitem, vitis non deserit ulmum(意訳:楡はブドウを愛している。ブドウも傷ついた楡を見捨てない)という詩を読んだそうです。
この話はヨーロッパでは有名です。ルネサンス時代には絵画の題材としてもよく描かれました。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%AC  )
写真の油彩画はその一例です。
この絵はニレの木の下の2人の女を情感豊かに描いた美しい油彩画です。
それはそれとしてニレの木にはヨーロッパ文化の香りがします。

「森有正の随筆、『木々は光を浴びて』」

2025年01月13日 | 日記・エッセイ・コラム
以前によく清瀬市の金山緑地に散歩に行きました。金山緑地では木々が光を浴びて、水面は陽に輝いているのです。そんなに大きな公園ではありませんが自然がいっぱいで数多くの水鳥がいます。
金山緑地は多摩湖から流れ下る柳瀬ケ川の岸辺の湿地に広がる公園です。公園の向こうは埼玉県です。今日はまずその風景写真をお送りいたします。
さて今日の表題の「木々は光を浴びて」は森有正という哲学者が書いた随筆集の題目なのです。この本は昭和47年に筑摩書房から出版されています。
若い頃から森や林の風景が好きだった私の愛読書でした。この本の一文をご紹介したいと思います。

『札幌では思うように散歩の出来なかったが、それでも植物園には数回出かけてみた。私は年を経た大樹を見るのが大好きである。その前に立っていると、感動で半日でも動かないでいられるかと思うほどである。植物園の春楡(ハルニレ)の大樹は完全に私を魅了してしまった。ことにその荒く裂けた幹の膚は、文字通り、風雪を凌いで生きて来た経験を見るような気がする。その中に一本、おそらく落雷でもあったのであろう、根本近くまで、殆ど木が二つに割れるほど裂けているのがあった。・・・園内に何十本とあるハルニレの大樹はおそらく原生林から残ったもので、そこに人口的に植えられたものではあるまい。・・・』

この文章にある植物園は札幌駅の近くにある北海道大学の付属植物園です。私はこの森有正の文章に誘われて何度か植物園を訪れてハルニレの大樹の前に立ちました。そして園内に何十本とあるハルニレの林を眺めます。その光景は大古の北海道の原生林の風景なのです。明治時代以後開拓された新しい北海道の風景ではないのです。
ハルニレの林は大古から続く重々しい自然の歴史を背負っているのです。これと対照的な風景は北海道大学の構内にある人工的なポプラ並木の風景です。美しい風景ですが軽い感じがする美しさです。
哲学は難しいので私には理解出来ません。ですから森有正の哲学書は読んだことがありません。しかし彼の「木々は光を浴びて」という随筆は理解できます。そして彼の哲学は深い思索に満ちた重厚な哲学だということは分かりました。

それにしても世の中には理解出来ないものが沢山あるものです。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===================
森 有正は1911年に生まれ、 1976年に亡くなった哲学者でフランス文学者でした。
東京都新宿区生まれです。明治時代の政治家森有礼の孫に当たる。父の森明は有礼の三男でキリスト教学者、牧師。

生後間もない1913年に洗礼を受けてクリスチャンとなり、6歳からフランス人教師のもとでフランス語、後にラテン語を学んだ。暁星小学校・暁星中学校から東京高等学校 (旧制)を経て1938年に東京帝国大学文学部仏文科を卒業(卒論は『パスカル研究』)、同大学院を経て東京帝国大学の特研生、副手、助手を歴任。傍ら東京女子大学や慶應義塾大学予科などで講師を務め、フランス思想・哲学史を講義した。旧制一高教授を経て、1948年東京大学文学部仏文科助教授に就任する。

第二次世界大戦後、海外留学が再開され、その第一陣として1950年フランスに留学する。デカルト、パスカルの研究をするが、そのままパリに留まり、1952年に東京大学を退職しパリ大学東洋語学校で日本語、日本文化を教えた。1962年にはフランス人の女性と再婚(1972年に離婚)。

デカルト、パスカルやリルケ『フィレンツェだより』、哲学者アランなどを訳し、パイプオルガンを演奏しレコードも出している。晩年に哲学的なエッセイを多数執筆し注目を浴び、1968年に『遥かなノートル・ダム』で芸術選奨文部大臣賞を受賞しそれらにより一時日本に帰国し講演・対談や短期の集中講義なども行っている。日本に永住帰国を決め、国際基督教大学に教職が内定していたが、血栓症がもととなり1976年にパリで客死した。墓所は多磨霊園にある。