後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「少年の頃の思い出、消えてしまった沼と亜炭の煙」

2025年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和11年生れの私は戦前、戦後に仙台市で少年時代を過ごしました。その頃日中戦争が起きやがて真珠湾攻撃があり悲惨な大戦争のあった時代です。
今日は仙台の戦前、戦後の暮らしぶりの思い出を書いてみたいと思います。
さて皆様が子供の頃に釣りをしたり、遊んだ川や沼はまだ現存していますか?
皆様の子供の頃には炊事のための燃料や風呂釜の燃料は何だったのでしょうか?
今日の私の話は昔、釣りをしていた三つの沼と燃料にしていた亜炭という不思議な燃料が跡形も無く消えてしまったという話です。完全に消えてしまったのです。これは小さな出来事ですが私にとっては大きなショックでした。
それは故郷の仙台市の向山という地区のことです。その向山からは仙台の中心街が見下ろせる景色の良い所なのです。料亭や温泉旅館のあるささやかな仙台の観光地だったのです。
その高台には東洋館、鹿落温泉旅館、いかり亭、蛇の目寿司、広瀬寮、観月亭、黒門下の湯などが散在していました。長徳寺や大満寺や愛宕神社もありました。
その向山の谷地に沿って3つの沼が並んでいました。そこで私は小ブナを釣ったりオタマジャクシを捕って、蛙に育てたりして遊んだものでした。この3つの沼は少年時代の大切な遊び場だったのです。毎日この沼の岸辺で遊んでいました。
昔に向山を流れていた川が涸れて無くなり、湿地や幾つかの沼になっていたのです。
それが東京オリンピック後の経済成長にしたがって、湿地も3つの沼も完全に埋め立てられ消えてしまったのです。
フナ釣りをした沼はガソリンスタンドになってしまいました。そして他の沼もみな新しい住宅地になってしまったのです。
昔の風景は想像も出来なくなりました。この世から完全に消えてしまったのです。
この様な風景の変化は東京オリンピック後の経済成長の時代に全国で起きたのです。全国の都市部の郊外の風景が一変したのです。
さて完全に消えてしまったものといえば亜炭という不思議な燃料があります。仙台に漂っていた亜炭の独特な煙の臭いが消えて無くなったのです。
大正、昭和、そして戦後にかけて向山には数々の亜炭を掘り出す横穴がありました。子供のころはその亜炭の横穴に出入りするトロッコに乗って遊んだものです。横穴は電燈もない暗闇でした。怖くて30mも入ると逃げ出してきたものです。
向山の住民はこの亜炭を八鉱社という元締めから買って炊事や風呂の燃料にしていたのです。
夕方になると、亜炭の煙の独特な臭いが流れてきます。亜炭は石炭になる前の炭化した木材で、仙台の郊外で当時掘りだされていたのです。
燃料にするだけでなく埋木細工を作ってお盆や皿や飾りものにして仙台名物のお土産として売っていたのです。埋木細工をする職人の仕事が格子窓を通して見えました。子供心にその彫師のノミの動きに感動して、あかずに覗き込んでいたものです。そんな工房が向山に3軒あったのです。
その埋もれ木細工の職人の工房も向山から完全に消えてしまいました。
2枚の写真を示します。

1番目の写真が現在の鹿落ち坂(ししおちざか)の様子です。左の白い車の上の平地が昔、鹿落温泉(ししおちおんせん)の建物があった場所です。左上の大きな建物は料亭の東洋館です。坂の右下には広瀬川が流れています。東洋館と鹿落温泉からは仙台の中心街が見下ろせるのです。

2番目の写真は 戦後に新しく建てた仙台駅です。市電がその前を走っています。市内のあちこちへ行くときよく乗ったものです。

今日は少年の頃の思い出と消えてしまった沼と亜炭という燃料について書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

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