後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

雑木林のお好きな方のために(3)見て楽しむ雑木林ー里山保存会など

2008年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム

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茨城県の霞ヶ浦の西に「つくば研究学園都市」があります。2002年頃、その地域のベンチャー企業の育成を支援する仕事をしていました。東京から車で通いました。昼食は周辺の蕎麦屋かイタリアンへ行きます。気がついてみると周辺には実に美しいい里山が散在しています。特に夏には緑の水田に浮かぶ島々のようにコンモリと樹木のかたまりが彼方此方に見えます。

つくば市に住んでいる人に聞きました。「里山保存会」がいくつもあってそれぞれ一つの里山の下草刈り、枝下ろし、倒木の処理、植林などを休日にしているそうです。

里山は以前、薪を取ったり、枯れ葉を畑の肥料にしたりしました。周囲の農家の大切な財産でした。しかし最近は、薪も枯れ葉も要らなくなり、雑木林は荒れるばかりでした。

一方、つくばの研究機関で働いている人々にとっては、通勤の途中に見える里山の景観はかけがえのない自然の財産のような感じがします。そこで里山の地主へ頼んで、ボランティアで維持管理をすることにしました。

下草を刈り、下枝をおろすと、クヌギやコナラの樹幹が遠方から白く見え、その向こう側には青空が広がってるが見えます。新緑の頃の芽吹いた梢の美しさ、緑濃い夏の里山、紅葉の里山、梢だけが木枯らしに揺れている冬の里山。どの季節も里山は見る人へくつろぎを与えます。

里山保存会のことを後で調べてみました。全国に有ることが分かりました。

里山を整理するときだけ雑木林へ入る。それ以外は外から見るだけにする。この約束さえ守れば地主は里山をボランティアの保存会へまかせるそうです。

上の写真は小生の山林の中の小屋の近所で見つけた美しい雑木林です。

隣の別荘の人が見て楽しむために下草を刈り、管理している様子です。

自分で雑木林へ入り、倒木を整理したり、薪を取る作業をしていると林の新鮮な空気が体にしみ込むようで楽しいものです。里山保存会の人々も楽しいので休日に雑木林へ入って行くのだと想像しています。全国でもっともっと里山保存会が出来ることを祈ります。(終わり)


本日の長崎での列福式の模様

2008年11月24日 | 写真

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カトリック中央協議会は長崎での列福式を11時30分から午後4時までインターネットでライブ配信しました。ここに掲載しました写真はデスクトップの画像をデジカメで撮ったものです。尚、最下段の最後の写真の出典は朝日新聞IT版:http://www.asahi.com/national/update/1124/SEB200811240009.html?ref=rss

司式は、教皇ベネディクト十六世によって教皇代理に任命された教皇列聖省庁前長官ジョゼ・サライバ・マルティンス枢機卿が行いました。

1603年から1639年にわたって信仰を捨てないで徳川幕府に処刑されたペトロ岐部と187人の殉教者を、ローマ法王が福者と宣言する式典は日本でははじめてでした。

式典は188人の殉教者の子孫の代表が遺物を祭壇に供えることから始まりました。

続いて岡田大司教が188人の殉教の証拠やいきさつをローマから来たマルティンス枢機卿へ説明し、福者として正式に認めるように願います。

それを受けて、ローマ法王は認めますという宣言をジョゼ・サライバ・マルティンス枢機卿が代読します。

この間の儀式の司式はローマ法王から派遣された白柳枢機卿がしました。

そこまでが1時間、そしてその後3時間の感謝のミサが行われました。圧巻はミサの最中に長崎県営野球場に集まった約3万人のカトリック信者の全員へ聖餅を与えるところでした。全国から集合した司教や神父様たち200人位が外野席から内野席まで散らばって一人一人に聖餅を下さいました。

今日の正午から午後4時まで、家内とともPCの前に座ってミサに参加することが出来ました。インターネット技術のお陰で、はるか長崎の式典へ参加するという体験をしました。

個人的なことですが1974年頃、塚本神父様の立川教会で私達の堅信式をしたときに司式して下さったのが、当時の白柳大司教様でした。その後も何度か白柳大司教様の感動的な説教を聞きました。10年以上拝眉しませんでしたが、今日、はからずもお元気なご様子を見て嬉ししさに堪えません。それに当時、立川教会で塚本神父様のお世話をしながら作曲をしていた新垣さんの曲が長崎から聞こえてきました。立川教会のことが懐かしくいろいろ思い出されました。当時、洗礼を受けたとき代父をして下さった山本教授のご子息が現在、小金井教会の主任司祭様です。それに昨日、小金井教会で堅信式を司式して下さった幸田司教さまも今日の長崎の式典の壇上におられるのを見て嬉しく思いました。

(終わり)


今日の正午、長崎での列福式がITで見られます

2008年11月24日 | うんちく・小ネタ

今日の正午から長崎県営野球場、ビックNスタジアムで188人の殉教者を福者に列する式典があります。

その実況の模様がインターネットで11時30分から見ることができます。そのURLは;

http://www.kibe187.com/movie.html です。

司式は、教皇ベネディクト十六世によって教皇代理に任命された教皇列聖省庁前長官ジョゼ・サライバ・マルティンス枢機卿が行います。

ペトロ岐部と187殉教者を福者と宣言する式典は、列福式としては日本初です。

日本の宗教の歴史において注目すべき事と思いましたので、広くご案内申し上げます。

(終わり)

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雑木林のお好きな方のために(2)自然の林と動物たち

2008年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム

人々が雑木林から材木や薪をとらなくなって久しい。林は自然の状態へかえる。人間の手が入らない雑木林は倒木が増え、いろいろな草木が生えてくる。人間が一種類だけの樹木を整然と植えた林は雑然となって来る。いろいろな樹木が混じってくる。混生の林になる。見るといかにも荒々しい景観になって来る。小生の山林の中の小屋の付近の雑木林は倒木が多く、整然と植林した面影が無くなってしまった。

景色として美しくなくなった林があちこちにある。特に少し山に登ればすべてが自然林になってしまった。

しかし、「見て美しい」とは、人間の勝手で、野生の動物たちにとっては安住の地になって来た。動物にとっては住みよい場所になる。数も増える。山林の中の小屋の回りには、イノシシ、サル、日本シカ、クマなどが急に増え、時々見かける。イノシシやクマは神経質でめったに姿を見せない。しかし「鹿子模様」の日本シカは車の前を横切る習性があるのか再三見る。

馴染みはサルの群れで、よく会う。「オーイ、元気か?食べ物に困っていないか?」などど優しいことを言ってやる。しかし20m以内には近づいて来ない。用心しているのだ。先日の朝は、薪ストーブを焚いて、コーヒーを淹れていたら、遠くから窓の中を覗き込んでいる。何をしているのか好奇心いっぱいで見ているのだ。小屋の周りを歩いたり木に登って素通しのガラス窓のなかの朝食を覗いている。

雑木林や山の森林が自然にかえると野生の動物が増える。農家にとっては困ることだ。しかし人間が破壊してきた自然環境がもとの状態へ少しでも戻ることは良いことに違いない。少なくとも長期的に考えれば良いことに違いない。

自然にかえった雑木林は倒木が多く、薪ストーブのための燃料を簡単に採れる。

車で少し離れた雑木林に行って薪を取っている。陽が差し込んで実に平和な風景が広がっている。長い倒木を40cmの薪に切りそろえる。ノコギリを挽く音の間に時々、梢を渡る風の音がして、紅葉した落葉が降ってくる。薪ストーブの楽しみの一つは、この雑木林の中の静かな時間を楽しめることである。

下の2枚の写真は今回撮った薪ストーブの様子で、後ろに立っている金網は濡れた薪を乾かす箱です。(終わり)

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今日は日曜日、教会へ行きました

2008年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム

教会の暦では今日が年間で最後の日曜日で、来週はいよいよ待降節の第一日曜日になります。カトリック小金井教会では32年前に完成した聖堂の記念日で、堅信式(洗礼のあとしばらくして信仰を強めるために誓を立てる式)がありました。明日、長崎で列福式があるのに幸田司教様がきて下さって堅信式を司って下さいました。前からの山本主任司祭との約束をまもって小金井まで来て下さいました。きっと午後に長崎まで行くものと思います。説教は、1582年に4人の天正少年使節の一人としてローマへ行った中浦ジュリアンが1614年の徳川家康の禁教令で1633年に捕縛され殉教したことについてでした。中浦ジュリアンも明日の188人の列福式で福者になります。そんな残酷な歴史を幸田司教様はやさしい語り口で訥々と話して下さいました。順朴で優しいお人柄なのか、中浦ジュリアンの性格もそうだったに違いないと思ってしまいました。

キリシタン禁教令は秀吉も発布したが、取締の厳しさは時代と場所によって異なったようです。長崎地方では武士も農民もキリシタンに同情的で、かなり後まで変装した神父さん達が活躍していたという。事実、中浦ジュリアンは1614年の家康の禁教令から19年もの間、変装して隠れながら神父の活動をしていた。彼は殉教したが決して孤独ではなかった。信者や仲間の神父が居たのだ。信仰を守るには仲間が必要で、声を出して「キリストは必ず復活する」と言い合う必要がある。それが今日の説教の結論でした。(終わり)


雑木林のお好きな方のために(1)3種類の雑木林

2008年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログは、「山林・杜の人のブログ」を主題にして、「クルーザーヨットのブログ」という副題で、記事を書いたり、写真を掲載しています。僕は生まれつきすぐイライラしたりカッとなったりする人間なので山林やヨットをみると心が落ち着くのです。しかし短気でない人々でも山林やヨットが好きな方が多いのも本当です。

そこで主題のことをもっと取り上げてみようと思います。若いころから雑木林が好きでした。35年ほど前に、山梨の山林を買って、小屋を作ったのもそのせいです。

山梨へ数しげく通っていろいろな雑木林を見たり、林の中を歩きまわったりすろと3種類の雑木林があることに気が付きました。(1)農民が手入れしている美しい林、(2)都会の人々が手入れしている林、(3)人間が放棄した林、の3種類です。

したの写真の紅葉の林の向こう側は高台になって畑が広がっています。寒い北風を防ぐ重要な林として、農民が下枝を切ったりして仕上げていった美しい雑木林です。

手前の水田は多量の水を使いますので低い谷を平らに広げて使っています。このように美しい雑木林は農業の重要な一部として代々大切にされてきました。

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人間が手入れをしないと雑木林は見て美しいと感じないものです。

下の写真は小屋の窓の外の林です。毎年、下草を丁寧に刈ってもらっています。

一般的に別荘の管理費の多くは周辺の林の下草刈りと倒木の除去に使われます。

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昔は、村人は山から採ってきた薪で風呂を焚いたり炊事をしました。囲炉裏の燃料も薪です。したがって村人は山を大切に管理して常に薪が絶えないようにしました。もちろん家を作る材木は高価で、林業は重要な産業でした。しかし日本の高度成長が始まると農村でも薪がプロパンガスに変わり、材木は外国から輸入されるようになりました。もう山林は必要が無くなったのです。人々は昔から育てていた雑木林を放棄してしまったのです。そのような林の写真を2枚ご紹介いたします。

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このような荒れた雑木林が本来の自然な雑木林です。11月22日の午前中に散策しながら写真をとりました。40mくらい離れて20匹くらいのサルの群れがつかずはなれず附いてきました。自然林は野生のサルが好きようです。

この自然に近い雑木林の良い点は次回に書きます。(終わり)


七里ケ岩の紅葉

2008年11月22日 | 写真

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11月20日から山林の中の小屋に独りで2泊して来ました。丁度紅葉の季節で山々の雑木林の紅葉が秋の陽に輝いていました。七里ケ岩とは山梨県の北杜市から韮崎市へ流れ下る釜無川の北岸にえんえんと28Km続く断崖です。始めの3枚の写真は甲州街道の穴山橋付近から七里ケ岩を見上げた写真です。

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下の2枚は断崖の上の農村のなかを走っている「七里ケ岩ライン」という景色の良い道路から撮影した紅葉です。この道は南端が韮崎市で、新府、穴山、日野春、長坂、小淵沢へと続きます。高台の上の自動車通りなので、八ヶ岳、甲斐駒、地蔵、観音、薬師の峰々が雪を頂いている姿が綺麗に見えます。(終わり)

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撮影日時:上の3枚は11月20日午後2時頃、下の3枚は11月22日午後1時頃。


広々とした風景でくつろぐ

2008年11月20日 | 写真

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051_2 仕事を一切やめて毎日遊びまわっていると楽しい。人生で一番幸せな時期と思う。体が健康で、ヨットや山林の趣味が楽しめる体力があるかぎりは一番幸せな時期と思う。ところが遊びすぎてストレスが溜る。そんな折にはこの写真のような広々した風景の中を散歩してくつろぐ。小金井公園の広場の写真です。先日ユリノキの紅葉の写真を撮ったときにとりました。

皆様も写真でくつろいで頂ければ嬉しく思います(終わり)


追憶の中の仙台(5)食糧難の懐かしい思い出

2008年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム

出来る事なら一生ひもじい体験などしないほうが良い。しかし運命がそれを体験させる場合もある。少年のころ過ごした仙台では昭和19年ころから戦後の昭和26年頃まで食糧難の時代であった。仙台だけでなく全国の都市は全て食糧難に遭遇した。餓死者も毎日出た。しかし、食糧難の時代も遥か昔になり、60年近くなると悲しいことは全て忘れてしまう。残るのは懐かしい、甘い思い出になってしまうから不思議だ。

昭和19年になると米の配給も不足し、お粥や大根の葉を刻みこんだご飯になる。サツマイモやジャガイモの蒸かしたものに塩を付けて昼食にする。庭でとれたカボチャを夜のご飯へ混ぜて炊く。肉などは何ケ月も見たことが無い。だだし、仙台は塩釜漁港に近いので腐った臭いのする激塩のタラ、ホッケ、ニシン、イワシ、が一品だけ何日か間をおいて魚屋に並ぶ。三陸沖で取れるクジラ肉も並ぶ日もある。製氷機が無いのですべて塩を多量に使った塩付けである。それでも腐るから凄い臭いだ。今書きながら臭いの酷さと塩辛さを思い出して生唾がほとばしる。そのせいで塩味の濃い料理が好きになり、今でも薄味好みの家人と意見が合わない。臭い魚は腐っているのではなく、発酵しているの場合が多いので食べられる。

そんな食生活も敗戦の8月15日の後に一変する。社会の秩序がなくなると食料の輸送や流通経路が混乱し、店からは食料関係の商品が消えてしまった。毎日、食べるものが無い。

ひもじさの余り長屋の友達に教わったアカザ、スカンポ、ハコベ、オオバコなどの葉や茎を野山から採ってきて醤油で煮付けたり、おひたしにして食べた。でも空腹はおさまらない。米を精米するとき出る糠に少しの小麦粉を混ぜてフライパンで焼いたパンも食べた。

まずい代物で喉につかえる。赤い高粱もゆでて食べる。これも不味い。戦後しばらくして進駐軍の食糧援助で軍隊用の豆のケチャップ煮の大きな缶詰めが配給になった。まずくはないし、栄養があって元気が少し出た。それに精製していない赤っぽい砂糖が多量に配給になった。米の配給の代用品である。カルメ焼きという玉杓子のような形の銅の小鍋で砂糖を溶かし、溶けたら重曹を付けた棒でかき回し、冷やすと、フックラと膨れ上がった砂糖菓子が出来る。子供でも面白いように出来る。食べるとサクサクとして実に美味しい。しかしいくら食べても米のご飯の代わりにはならない。すぐ飽きる。人間は砂糖だけでは生きて行けないという勉強になる。

肉に餓えていたので、何処の家でも鶏やウサギを飼っていた。毎日2個の鶏卵を5人の家族が分けて食べていた。卵を産まなくなったら殺して鶏肉を食べる。ウサギも殺して食べる。大人が殺して皮を剥いで、肉を鍋にするが、美味しくない。可愛がっていた鶏やウサギを食べて美味しいはずはない。

1960年にアメリカへ留学したとき、毎日肉が好きなだけ食べられることに吃驚した。

こんな国と戦争すれば負けるのが道理だと胃袋が教えてくれた。

現在でもレストランやパーティで肉料理が出ると、その有難さに思わず頭が垂れる。そしてひもじい思いですごした仙台の日々が甘い追憶として思い出される。(続く)


中国共産党の言論統制を体験しました

2008年11月19日 | うんちく・小ネタ

別に目くじら立てて怒る必要も有りませんが。小生のブログは中国共産党政府の検閲にかかっているようで、中国では開けることが出来ません。私は中国人が好きですし、中国文化も尊敬していま。これも長い歴史のひとこまとして受け入れることにしています。

しかし皆様へも、このことをご紹介しておくほうが良いと思いました。ご存じのかたも多いと思いますが念の為に掲載いたします。

私は「趣味人倶楽部」という社会ネットワークに入っています。その異文化交流コミュニティで意見の交換をして楽しんでいます。そのなかで上海にご在住の「上海さん」から私のブログがどうしても開けられないというコメントを頂きました。2、3回意見を交換しているあいだにRHSさんが、ご親切に以下のようなご説明をして下さいました。

===========RHSさんより上海さまへのご説明文==========
中国在住とうかがってわかりました。それは中国側での検閲のせいです。
ちなみに藤山さんのブログは日本では見ることができます。
検閲の対象や理由はわかりませんが、一般的には政治的、宗教的、社会的な、ある言葉がひっかかると、そのブログは中国では見れなくなってしまいます。
それ以外にも、たとえば上海ガニは抗生物質づけ、のようなメールを書いた入りすると、文字化けしたり見えなくなったりします。  同様の現象は、天安門事件の起こった日の前後になると見れなくなることもあります。
わたくしも拙ブログに北京出張時にアクセスしようとしてできませんでした。

これも異文化?と言えば異文化ですね。

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RHSさんの最後の文章が良いですね。「これも異文化?と言えば異文化ですね。」

私のブログでは「中国人は好きですが、チベットを占領しているのは間違いだ」と明解に書いてあります。ダライラマの偉さも書きました。チベットとかダライラマという単語があるとコンピューターで自動的にブログを閉鎖してしまう方法でも取っているのでしょう。

日本人のブログはタイでもネパールでもインドでも自由に開けられるようです。検閲で開けられない国は中華人民共和国と北朝鮮くらいではないでしょうか?それと軍事独裁のミャンマーもそうかも知れませんね。言論統制は一党独裁の国が取らなくてはならない悲しい政策です。

最近、直接体験しましたので、ご報告したいと思いました。(終わり)


夢のリニア新幹線

2008年11月19日 | 写真

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新幹線の列車をレールから浮き上がらせて、時速500kmで東京ー大阪間を走らせようとする技術が開発されています。山梨の大月市の郊外に実験線があり、時速552Kmの試験運行も1999年に成功しています。その公開や試乗もしています。

この技術のポイントは2つあり、超電導材料技術と液体ヘリュームを作る超急速冷却技術です。この前の飛行船が安全なのは絶対に燃えないヘリューム気体を使っているからです。このヘリュームを作る技術がリニア新幹線が使っている超急速冷却技術と同じ原理なのです。そこで思いついて、リニア新幹線の計画をご紹介しました。詳しくは「リニア実験線」をキーワードにして検索して下さい。

この実験線は世界一のレベルの開発研究で、アメリカでは実験を諦め、ドイツ、イギリスだけが続行し、一部実用している非常に困難な技術開発です。

2000年頃アメリカの技術情報機関の依頼で2度ほど取材に行きました。技術に関する解説記事は別途掲載したいと思います。(終わり)


夢のような飛行船の世界の写真

2008年11月19日 | 写真

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帆走子さんは「ロスミナの風」という楽しいブログ( http://rusmina-2.cocolog-nifty.com/blog/を書いていらっしゃいます。その中で飛行船の短い紹介記事を見つけました。

小生も昔から飛行船にあこがれていました。夢のような空の乗り物です。

そこで、株式会社日本飛行船のHPを色々調べてみました。埼玉県の桶川にある本田飛行場を営業基地にして、全国を回っている飛行船を運行している会社です。今日は関西の空にいますが、東京の上空でもよく見かけます。そのHPから美しい写真を転載致します。

上の左は第一次大戦以前に開発されたツェッペリン号で、右は1916年に所沢から大阪へ飛んだ軍用飛行船「雄飛号」の写真です。

下の写真は現在、日本の空を飛んでいる、ツェッペリンNT号の写真です。お楽しみ頂ければ幸いです。写真は全て株式会社日本飛行船のHPを出典としています。(http://www.nac-airship.com/ )

(終わり)

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異文化交流と日本語をボランティアで教える会ー異文化交流のページのご案内です

2008年11月18日 | 国際・政治

拝啓、皆々様へ、

突然ですが、小生の大学時代の同級生の大宮司さんが、ボランティアで日本語を教えながら、いろいろ楽しいイベントを企画し、異文化交流の活動をしています。

このブログで、先日、「異文化交流のページ」を設置しましたので、その情報としてご案内致します。日本語教室のある地域は新宿から出ている京王八王子線の沿線の南多摩地帯です。この会の代表は長沼さんといいますが、京王線の長沼駅ゆかりの方ではないかと想像しています。長沼は野猿峠の下の閑静な良いところです。詳しくは下記のご案内のHPをご覧下さい。外国人だけでなく、日本語を教える日本人も募集しています。よろしく御願い申し上げます。敬具、藤山杜人      

 日本語を勉強したい外国人は、だれでも入会できます。いっしょに楽しく勉強しましょう。

 電話またはメールをください。学習の場所と時間を説明します。いろいろ相談にのります。教室の見学もできます。


電話の連絡は
・・南多摩日本語の会(代表 長沼 ゆり)
     (夜間)TEL/FAX 042-591-6140

メールの連絡は・・(代表補佐 大宮司 弘昌)
daimiyain@m2.hinocatv.ne.jp

ホームページ   
URL:http://www.ab.auone-net.jp/~m-tama34

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巨大なダリアの花の写真です

2008年11月18日 | 写真

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このブログは昨年の11月に始めました。そのころ都立小金井公園に巨大なダリアの花が咲いていました。木立ダリアとか皇帝ダリアという中南米原産のダリアです。今年も咲くころと思い昨日行って、写真を撮ってきました。

大人の4倍くらいの高さのところに熱帯を思わせる豪華なダリアが咲いていました。

今年ももう少しで師走になり、静かに年が暮れて行きます。皆様のご健康をお祈りします。(終わり)


追憶の中の仙台(4)セピア色の幼少時

2008年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム

昭和11年に生まれ、昭和20年まで住んでいた家は、向山にある一軒家であった。

少し離れたところに亜炭堀り人や埋木細工職人の住む長屋があった。父母は大学と県立の女子専門学校の教師をしていたので長屋の人々よりは生活が良かった。女中も2人居た。父母は毎年2回、長屋の人々を招いて酒食を供していた。

共稼ぎでいつも両親が居ない。女中2人が可愛がってくれるが、仕事が忙しいのでいつも相手はしてくれない。長屋へ遊びに行くことが多くなる。

今になって思い返すと長屋の子供たちと遊びまわったことが楽しく思い出される。の中には亜炭を掘る横穴がいくつも暗い口を開けている。横穴には狭いレールが敷いてあり、亜炭を運び上げるトロッコがある。長屋の子はトロッコの扱いが上手で、トロッコに乗せてくれる。横穴の奥のほうが低くなっているので、明るい外で乗って奥の真っ暗な中へゴーッと一気に走り下る。暗い闇のなかへ吸い込まれるスリルが子供の冒険心をくすぐる。

長屋では生活が厳しく何でも食べる。年上の兄貴分の少年が山からシジュウカラやメジロをたくさん取って来る。小枝にトリモチをつけ、オトリの小鳥を入れたトリカゴの上に付けて置く。すると山の小鳥が寄ってきてトリモチの小枝にとまる。

取ってきた小鳥はすべて羽を取り去り、醤油につけて炭火で焼いて食べる。丁寧に焼くと頭がコリコリとした歯ごたえで美味である。トリモチを使えない他の子供は雀を籠で取る。餌をまいた上に、棒で支えた籠を伏せておく。雀が籠の下に入ったら、棒から長くのばした紐を引いて籠を落として取る。これは非常に難しい特技だ。雀は用心深いので習性を熟知していないと捕れない。自分で何十回も試したが一度も成功したことが無い。長屋の子供のうち2人だけが出来た特技で、いつも雀を何十匹も捕っていた。数羽を焼き鳥にして一緒に食べる。残りは夕食のおかずにする。おやじが焼き鳥を肴に一杯のコップ酒を幸福そうに飲んでいる光景を何度か見た。

長屋では付近の野草を味噌汁の具にしてよく食べていた。一度だけ、昼食をご馳走になったが、この味噌汁と白いご飯に焼きたての塩イワシ2匹であった。

この鰯の塩焼きと野草の味噌汁が美味で一生忘れられない食事になった。

昭和16年に戦争が始まると石炭堀りの仕事が増えたのか、長屋の子供たちは親とともに居なくなってしまった。丁度、亜炭が枯渇したので北海道へでも行ってしまったのだろう。

亜炭堀りの横穴だけを残して行ってしまった。横穴は仙台大空襲のときの防空壕として役に立った。

面白く遊んで、ヤキトリを食べさせてもらい、塩イワシ、野草の味噌汁、白いご飯へよばれた思い出もセピア色にかすんで遥か60年以上の昔になってしまった。

何十年も後で、長屋を歩いてみた。家々が立派になり、見知らぬ人々が住んでいるだけである。消えてしまった長屋の人々の過酷な一生を想像しながら、「夢まぼろし」の境地になる。それにしてもみんなは何処へ行ってしまったのだろう。

(続く)