広瀬川の南岸に連なる白い崖の上の一帯を向山といい、その奥の山を八木山と言った。最近は青葉城跡付近まで含めて青葉山と総称することもある。
伊達家の霊廟のある経ケ峰の下の御霊屋下橋を渡って崖に斜めにつけた鹿落坂を上ると向山へ行ける。僕の住んでいた家は坂の上からさらに500mくらい東へ歩いた山沿いの一軒家であった。
この向山は昔海の底であり、家の裏の赤土の崖の中から、大人の拳くらいの2枚貝の化石がよく出て来た。海底が複雑に盛り上がってできた小山が重なりあった地形である。
近所の山裾のあちこちに横穴が掘られてあり、亜炭や炭化した真黒な埋木(うもれぎ)を掘り出していた。大人になって全国へ出張したがこのような鉱産物は見たことが無い。仙台の向山でだけ採掘された幻の特産品であろう。幻と書いたのは戦後10年位で鉱脈を堀り尽くし、現在は採掘出来なくなったからである。
掘り出された亜炭は石炭ほど炭化が完全でない。近所で手に入る一番安価で火力の大きい燃料なので風呂を焚くのに用いた。煙が石油のような独特な臭いで、悪臭の傾向があったので煮炊きには使われない。戦後の貧しい生活の夕暮れにこの臭いが流れてくると、わけもなくわびしい思いになったものだ。
亜炭のなかで樹木の幹が真っ黒に炭化したものを埋木(うもれぎ)と言い、いろいろ細工をして小道具を作った。大体はお盆や茶卓などの日用品が多いが、この写真のように鷹を彫り出した彫刻品もあった。自宅にもこれと同じような鷹が飾ってあった。この写真で、鷹がとまっている黒い岩のように見えるものが亜炭の塊である。
向山には埋木細工をする店が数軒あり、いつも職人が黒い埋木をノミやカンナで削っていた。学校の行き帰りにはよく店の前で長い間立って、職人の仕事ぶりを飽かずに眺めたことを思い出す。職人は顔を埋木につけるように近づけてノミで細工する。短いノミの柄を胸に押し当てて、細かい部分を彫っている。不思議な姿勢である。何十年も後に棟方志功さんが版木を彫っている時の姿勢をテレビで見た。顔が版木へ近い。少年の日に見た埋木細工の職人の姿勢を思い出した。
埋木細工はとっくに途絶えたと思っていたら、仙台の秋保の小竹さんという方が伝承している。
埋木細工を検索すると小竹さんのこと、埋木細工の歴史などが出ている。
向山にあった埋木や亜炭は300万年以上古い地層から出る。完全に炭化した真黒なものである。同じ漢字をつかった「埋木細工」が各地にあるが、それらは縄文、弥生時代以後の古木が土中に埋まっていたものを使う。亜炭より新しいので全然炭化していない。茶色で木目も明瞭に残っている。この一群の細工ものと向山の埋木細工とはまったく違うものなのです。(終わり)上の写真は鷹を彫り出した埋木細工の置物で、出典は:http://www.navi-s.com/meibutsu/02_11.html 。
12月8日から12月13日まで 展示会『アジアの布展 インド刺繍の世界』を
開催いたします。
インド ラジャスタン・グジャラート、パキスタンのアンティーク刺繍布、
刺繍を施したシルクショール、シルクサリー類の展示も行います。
インドの美しい工芸、手仕事の世界を味わって頂きたいと願っています。
** 野蚕のシルク布を使った洋服類、ネパールの手編みのウールセーターも
用意しました。
これらの商品に関しては 半額セールで売り出します。**
インドのバザールのような雰囲気が出せればとも考えています。
会場では インド ラジャスタンのフォークミュージックも流し、
お越しの皆様には インド的世界を味わってもらおうと企画しています。
どうぞ皆様、こぞってお出かけください。
今日は日曜日。タレントに関するマタイの福音書の朗読と説教を聞いた。ある金持の主人が旅に出る前に、僕(しもべ)を呼び、ある僕には5タラントン預け、他の僕には1タラントンの現金を預けた。ながい旅行から帰ってみると、5タラントン預けた僕はそれで商売をして5タラントン儲けて10タラントンを主人へ差し出した。1タラントンだけ預かった僕はそれを大切に地中へ埋めて保管し、主人が帰ってきたとき掘り出して返した。
さてどちらの僕が主人に褒められたでしょうか?日本人の道徳観からすると主人から預かった大金(1タラントンはほぼ8000万円くらい)を勝手に使って商売をした僕はいけないと思いませんか?忠実に保管し、大金へ手をつけなかった僕の方が信頼したくなりますね。ところが主人は預けた大金を勇気をもって使い、商売をした僕のほうを褒め、重用します。地中に埋めて保管していた僕からお金を受け取ると、その僕を首にして放り出します。
人間が大切だと思ってだいじに持っているものは全て神が預けたもの。勇気をもってその大切なものを活用しなさい。そのほうが神に褒めらるのです。
それはそれとして、タレントの才を日本語では「天与の才」と言う時もあります。これは神の預けた才能に近いのですが、「与えた」と「預けた」との違いがあります。ここが案外、重要な違いかも知れません。
テレビで活躍する日本のタレントたちは、その才能を神からの預かりものと感じているでしょうか?
テレビを見ている我々は彼らの才能は神のものと考えながらみているでしょうか?俳優、女優、歌手、司会者、お笑い芸能人・・・などをタレントと呼んでいますが、彼らの芸を我々は感心しながら何となく見てはいませんか。見ている我々は芸人の才能をその人間のものと見がちです。
欧米人は神様の預けたものと、無意識のうちに感じながら、見て聞いて楽しんでいるのです。全員がそうだと言っているのではありませんが。少なくとも私自身は時々そのように感じます。
特に日本の芸人で、「神からの才能」を思い出すのは、美空ひばりの歌を聞くときです。天賦の才があるだけでなく、ひばりさんは死にいたるまでチャレンジを続けました。本人は神から預かった才能と考えていたか、いなかったは別にしてテレビを見ている私は神の存在を考えながらひばりさんの歌を聞いています。
素晴らしい妻や子供や孫を持っていたら、みな神様からの預かりもの。と言ってしまえば綺麗事に過ぎますね。テレビタレントはその才能を神からの預かりものと冷静に感じることが出来るのです。家族は有難いのですが近すぎる存在なのかも知れません。(終わり)
昭和11年年生まれで22歳まで仙台の向山という所に住んでいた。向山は非常に複雑な地形の小山が重なり合っている。市街地の南端を蛇行しながら流れる広瀬側の南側にあり、広瀬川の岸からいきなり高さ40、50メートルの断崖があり、その上にある。
したがって、向山の広瀬川ぞいの断崖の上に立つと、仙台の白い街が一望に見える。戦前はあまり住宅が無く、見晴らしの良い崖の上に料亭や割烹旅館がポツリポツリと散在していた。伊達家の御墓のある西端の瑞鳳殿のある峰から数百メートルずつ離れて、東洋館、鹿落温泉旅館、いかり亭、蛇の目寿司、広瀬寮、観月亭、黒門の湯、などがあった。いずれも市街地を見下ろせる風光の良い場所にあった。
南、後ろの八木山には昭和11年にベーブルースが来てホームランを打った八木山球場があった。八木山は市民の遊山の地だったらしく入口には「八木山観光自動車」という看板だけが残っている車庫があった。
これらの料亭が大繁盛したのは大正時代という話を聞いた。日露戦争から昭和4年の世界大恐慌までの約30年間ほどの間である。その後はすっかりさびれ廃業したものも多く、特に、いかり亭の豪華な庭や建物は子供の遊び場になっていた。
この料亭の庭には滝がながれ、深い池にはアカハラというイモリが住んでいた。よく取って遊んだ。
先日の仙台、愛宕中学校の同窓会へ「黒門の湯」の当主の息子さんが出て居たので追憶の火がついたらしく、いろいろ思い出されてくる。
現在はすっかり住宅街になり、このような料亭も無くなった。でも東洋館と鹿落旅館だけは現在でも営業している。
向山には金持ちが別荘も作ったらしく、大規模な廃屋が小山の上にあった。お化け屋敷と言って、よく探検に行った。
現在、向山へ行って見ると何も無い。当時の向山の面影が全然無い。住宅だけが並んでいて、広瀬川の崖の上にはマンションがいくつも聳えている。
昔の向山の様子を記録しているのも良いと思い記してみました。記憶違いなどがありましたならご訂正を御願い致します。(続く)下の写真は現在営業中の東洋館のホームページの表紙です。URLは:http://www.toyokan.jp/index.html です。
昨日、京橋の、「うすけぼー」という店で仙台市立愛宕中学校の関東地域の同窓会がありました。第一回卒業生から第四回卒業生まで35名くらいのこじんまりした会だったので、一人一人が数分ずつ昔の思い出話をした。聞きながら忘れていたことを次々と想い出した。
戦後すぐ、占領軍の命令によって教育制度の一大変革がありました。急に新制中学が全国に出来たのです。大混乱が起きました。その体験記を少し書いて残して置きたいと思う。
昭和22年の4月に新制中学校が発足しました。旧制の中学校は2年生から上が在校していますので並存していました。旧制では多くの人は小学校卒で働き出して、旧制中学校へ上がる人は少なかったのです。
それが新制中学校は義務教育になり全員が入学します。働くのは新制中学卒業後になりました。当然、校舎も教室も机も椅子もありませんでした。戦争で疲弊し尽した市町村には土地を買って校舎を作る余裕がありません。
仙台市には13校ほどの新制中学校が一挙にできました。愛宕中学ははじめは仙台第十中学校という名前でした。市内の荒町小学校と向山小学校の卒業生が全員入学するのです。校舎が無くとも制度上では始めなければなりません。仕方なく荒町小学校や五橋小学校の教室を融通してもらい中学教育が始まりました。机も椅子も無いので自宅からミカン箱を持って来て、板床に座って授業を受けました。
筆者が入学したのは新制中学が出来て1年後でしたが、荒町小学校の板床の上にミカン箱を机にして1年近く勉強しました。
それを見かねた、ある生徒の親で資産家の人が遠藤山という小山を寄付してくれました。愛宕山の南側にある小山です。上の方を平らにして校舎が出来ます。生徒は寒い冬の日、すでに出来ていた机や椅子を担いで引っ越しをしました。自分の校舎が出来あがった喜びにあふれて、冬のぬかる坂道を登って行ったものです。
先生方も嬉しそうに机を背負っていました。先生というば、以前は師範学校出と決まっていましたが戦争へ出征し数が足りません。思いだしてみると実に色々な経歴の人が混じっていました。戦闘機に乗って空中戦をしてきた先生、外地からの引揚者、軍需工場の監督、などなどで特に印象深かったのは寶塚出身の音楽の先生でした。歌が上手で、挙措がキリリとした美しい先生でした。昨日の同窓会で聞いたのですが、その先生は当時20歳だったそうです。
教育の内容はほとんど忘れました。ただ多くの先生が立身出世が重要であると教えていました。もう一つは科学技術が劣っていたのでアメリカに負けたと教えていました。科学者になれ、技術者になって日本を復興させるのは君達だとよく聞いたのだけは忘れられません。そのせいで、私は金属工学の研究者になりました。
当時は日本にはまともな舗装道路がなく凸凹道をバスやトラックが砂塵を上げて走っていました。空襲で焼け野原になった仙台では、青葉通と広瀬通という幅広い幹線道路を作りましたが舗装はできません。いつも土埃もうもうでした。人々は仙台砂漠と言って嫌がり、埃の立たない昔からの裏小路を通ったものです。
定禅寺通りのケヤキ並木が有名になったのはそれから30年位たってからです。
下の写真はWikipedeaの「仙台大空襲」から引用しました。昭和22年当時はまだ焼跡が点在し、荒涼とした風景が広がっていました。そんな状態なのに一挙に新制中学校を13校も新しく作ったのです。占領軍の命令は絶対でした。
(終わり)
JR山手線の原宿駅を下りて、東郷会館へ行くとき竹下通を歩いて行く。何度も通ると親しみが湧いてくる。その通りを歩いている若者たちが何となく好きになる。あらためて、人々や店を注意深く観察すると、今年の晩秋から冬にかけての若い女性のファッションがよく分かる。
簡単に言えば、黒と白を基調にして赤や青の原色を上手に配している。中間色も使っている。年末へかけてパーティの多い季節に合わせたバッグやブーツなどもある。
しかし驚くほど保守的なファッションである。歩いている若者のデザインや色彩の取り合わせを見ると昔のある時期に帰ったようである。一時はやった奇抜なメイクをした女性も居ない。
高齢の女性も一人歩いている。若い女性のファッションをよく観察しているようだ。最新のファッションと自分の年齢や個性を比較しているのだろう。
高級そうな布地の洋服に、竹下通りの今年のファッションが取り入れられている。そのファッショナブルな洋服を着こなしてゆうゆうと歩いている。
魅力的な女性とは季節季節のファッションをよく観察・研究して、自分に似合うように取り入れている女性である。と、つい断定したくなる。竹下通りを散歩しながらの感想です。(終わり)
撮影日時:11月11日午後2時頃、渋谷区、神宮前の竹下通にて。
フォトアルバム「中古ヨットの見分け方の写真集(1)」へ8枚の写真を追加しました。
霞ヶ浦での中古ヨットの帆走ぶりと中古ヨットの係留岩壁の様子の写真です。
このブログはこの11月5日でちょうど1年間が経過しました。アクセス数は1年間で58000件でした。その他に、フォトアルバム「中古ヨットの見分け方の写真集(1)」のみのアクセス数が35000件あり、現在も毎日、数十件のアクセスが御座います。
ご覧下さった皆々様へ深く感謝致します。 敬具、藤山杜人
庭木の下のほの暗いところに、つわぶきの花が咲いている。そこだけスポットライトがついているようだ。一生懸命、写真を撮っていて、ふと振り向くと池の回廊の上で結婚式の記念写真を撮っている。みんなが楽しそうに笑い合いながら何枚も撮っている。静かな曇り日の午後のひと時だ。
昔の高校時代の同窓会の幹事3人が集まって準備の相談をする。どういう訳か東郷会館にある水交会のパーティ会場を使うことになっている。何度も相談会に行っているので、東郷神社や東郷会館や水交会の関係が分かってくる。ここは旧海軍や海上自衛隊の同窓会組織らしい。しかしいつも人気が少なくて森閑としている。一昨日は珍しく結婚式があった。神社の本殿の前に赤い絨毯が、長くしいてある。広い庭は池を中心に出来ている。
岸辺に別種のように見える つわぶきの花の一群が咲いている。庭樹の下のほの暗いところに咲いているほうが風情があるが、こちらの写真も一枚撮っておく。散策しながら明治時代の日露戦争のことをいろいろ想像してきた。
このブログでは「外国体験のいろいろー随筆シリーズ」、75回の後を受けて、「人間が好きだから旅をするー随筆シリーズ」、8回を掲載しています。筆者の異文化体験の随筆です。
これに対して多くの貴重なコメンントを頂きました。その幾つかはブログのトップページへ再度掲載しなおして皆様へご紹介してきました。
その延長として、このブログに「異文化交流のページ」を設置することにしました。
日本に在住していたり旅行中の外国人の方々の日本の文化・習慣へ対するご意見や、質問をコメントとして投稿して頂きたいと思います。それを即刻、私がこのブログのトップページへ再度掲載致します。ご質問については可能なかぎり私の答えも掲載いたします。日本人の方々からもコメントの投稿を歓迎いたします。外国の方の質問へ対する答えも歓迎します。
使用言語は日本語と英語のに限定し、「異文化交流」へ建設的な意見や質問に限らせて頂きたいと存知ます。
皆様の善意を信じて、このページがお役に立つようになることをお祈りします。
敬具、藤山杜人
最近、航空参謀長(最近は幕僚長という)が「太平洋戦争はアジア人に感謝されている」と主張して早めの退職へ追い込まれた。軍隊の文民統制(シビリアン・コントロ-ル)から大きく逸脱したからである。
彼の主張は我々の生活を脅かすのだ。この主張に反発した中国人が日本へ輸出するギョーザに毒を入れたら、どうなるか?
中国の各地で操業している数多くの日本の会社の工場へ、中国側の自治体が無法な税金をかけたり、営業上の邪魔をしはじめたらどうなるか?日本の会社が倒産すれば、日本人が困るのは当然である。
だからこそ、軍人が政治的な発言をしてはいけないのだ。政治問題にかんする限り軍人には言論の自由が無いのだ。そんなことも分からない人物が参謀長になって居たのだから恐ろしい。
上の写真は昨日撮影した東郷平八郎元帥が祀られている神社である。境内にはバルチック艦隊を葬ったあと、旗艦三笠の上で、元帥が明治天皇にかしこまって、いろいろ説明している絵画が飾ってある。
そうか文民統制は日本には根着かないわけだ!と合点が行く。
もともと、これは欧米の近代国家で、軍隊の暴走を防ぐために発達した政治的な思想である。
関東軍が中国大陸で勝手気儘に武力侵略したのを政治家が止められなかった。それは一つの記憶に過ぎない。
むしろ戦後、アメリカの占領軍によって押し付けられた政策である。
占領軍に押し付けられた考え方は、なんでも無視しようという感情が現在の日本人の中にあるのは自然なことだ。その感情が国益へ損害を与える結果になる場合もある。どのような場合には国益を損なうのか?そのような教育をするのが自衛隊の職場教育である。
しかし、日本では政治家も軍人も民間人の我々もみんな、シビリアン・コントロールとか、文民統制の重要性をよく理解できないのも一方の真実である。
朝鮮戦争のとき敗走する共産軍が中国領へ逃げ込んだ。マッカーサー司令官はその中国領を爆撃し共産軍を殲滅しなければ又朝鮮へ侵入してくると主張する。
それは軍事的には正しい主張だ。でもその結果は、大きな悲劇となる。マッカーサーにはそれが理解出来ない。
そんな司令官をトルーマン大統領は一通の電報で解任する。マッカーサーのことを神のように崇めていた日本人にとっては驚天動地の体験であった。中国領を爆撃すればソ連も参戦し、第3次世界大戦が勃発する可能性が否定できない。それが政治家、トルーマンの判断であった。我々日本人が第三次世界大戦で塗炭の苦しみから逃れられたのは、トルーマンの政治的判断のお陰である可能性を否定できないのではなかろうか。
「軍人は現職にある限り、客観的に国際政治が理解しにくい職業だ。ややもすると武力を使いたくなる職業だ!」という国民共通の強い認識が無ければ文民統制は根着かない。はかない浮き草のようにマスコミが賢げに騒ぐだけで終わってします。
アイゼンハワー司令官が退職後に大統領になったのは、彼のバランス良い国際政治能力をアメリカ国民が信頼したのだ。しかし、歴代の大統領で総司令官の経歴を持った大統領は希少な存在である。
この問題は、われわれ一人一人の心の中の問題なのだ。田母神参謀長ひとりを非難しただけでは済まない。いつも忘れないことが重要なのだ。(終わり)
上の写真の左が さこみちよさん、右がマネージャーの石橋明弘さんです。11月10日、横浜にぎわい座での公演の後、近所の居酒屋での写真です。
さこみちよさんは検索すると、Wikipedea百科事典の詳しい紹介をはじめ数多くの活躍の紹介記事があります。
10日のにぎわい座では立川ぜん馬師匠の江戸落語のあとほぼ1時間にわたって多彩な芸で観客を魅了しました。
まず江戸小唄と都々逸です。艶っぽい唄いぶりで我々を江戸時代へ連れて行ってくれます。下町で生まれ育った江戸っ子娘はオキャンで可愛いと見せてくれます。
ああ、これが江戸の町人文化の粋なのか。いいものだな。ぜん馬師匠の落語で江戸時代の長屋へ引っ越したような気分になっていた後だけに小唄と都々逸のしみじみとした世界へ一層深くひき込まれます。
ところが一変、さこみちよさんの芸筋が大阪の芸へ変わりします。回り舞台がグルリと回り一気に賑やかで華やかな歌謡曲の世界になります。一人二役のような可笑しな話術をまじえながら、歌謡曲を何曲も歌います。
一人の芸人が江戸の芸と大阪の芸を演じ分け、観客を魅了する。すっかり吃驚してしまいました。
マネージャーの石橋明弘さんへメールで申し込むと、ぜん馬師匠の江戸落語のCDや、さこみちよのさんの歌謡曲のCDを購入できます。
アドレスは;ishibashi@i-science.co.jp です。 (終わり)