後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本の趣味のいろいろと欧米の趣味のいろいろ・・・趣味と文化を考える

2014年11月14日 | 日記・エッセイ・コラム
明治、大正、昭和、戦後、そして現在と時が流れつつ、世相も大きく変化して来ました。思い返すと、この時代は日本にとって激動の時代でした。
人々の趣味に対する考え方も時代とともに大きく変化しました。戦前は富国強兵に忙しく、趣味を軽視する傾向がありました。
しかし豊かになった現在の日本人は「趣味」を重要に考えています。人生を豊かな気分で過ごすためにもとても大切なものと考えている人が多いのです。
私は時々、趣味というものをいろいろな視点から分類して考えています。
分類の仕方の一つに、「西洋の趣味」と「日本の趣味」と分けて考える方法があります。勿論、西洋の趣味といえば、その一方は東洋の趣味になりますが、それでは問題が大き過ぎるので、今日は「日本の趣味」だけを考えて見ました。
日本の趣味といえば茶道、華道、書道、日本画、和歌、俳句、囲碁将棋、謡曲、日本舞踊、音曲、剣道、柔道、などなどいろいろあります。よく考えてみるとこれらの趣味は日本の文化を背負っているのです。日本文化そのものだと言ったら過言でしょうか。
ヨーロッパから輸入された趣味は、油絵、クラシック音楽、登山、スキー、テニスに野球等のスポーツ、、そしてヨットなど明治維新以来、多種多様のものが輸入されて来ました。これらの欧米の趣味も彼等の文化を背負っているのです。
ですから日本の趣味とヨーロッパの趣味には文化の違いがあります。
そこで私の体験した欧米の趣味を例にとって、それが欧米の文化を背負っている事実を具体的に説明したいと思います。
私は50歳の時、ヨットという純粋にヨーロッパ的な趣味を始めて25年間楽しみました。そして欧米の文化にたいする深い、深い感動を覚えたのです。
何故、感動したのでしょうか?
それはヨットこそヨーロッパ文化をギッチリと詰め込んだ構造になっているからです。ヨットの部品の工芸品としての見事さ。一つ一つの完璧な機能。そして全ての部品が必要不可欠に出来上がっているのです。
それは完璧な調和です。機能美の極致です。そして風を受けて走しるので自然になじんだ美しい形に出来あがっているのです。
部品一つ一つの設計が如何にもヨーロッパ的で、日本人の発想と非常に違います。
下に示した図面は、1989年にアメリカのエリー湖そばのサンダスキーという町でクルーザースクールへ通った時に使ったテキストのなかの図面です。

(出典はGary Jobson著AmericanSailing Association監修「SailingFundamentals」出版社Simon & Shuster Inc.1987年版です。)
ヨットの構造で一番重要なものは、船底から下へ固定されているぶ厚い鉄製のキールという重い部品です。これが付いているからこそ強風が帆に当たっても船が転覆しなのです。
この構造は日本の帆船、例えば北前船には無かったのです。江戸時代の帆船がしばしば遭難したのはキールが無かったからです。
下の写真は私の持っていた26フィートの小さなアメリカ製のヨットの写真です。
強風で船体を傾けながら帆走している写真です。こんなに傾いても横倒しにならないのは船底にあるキールのお蔭なのです。

もう一つの驚異的な構造は三角形の帆を揚げ降ろし出来るように設計されていることです。帆の形を三角形にすると船は風上にも登れる性能を持つのです。もっとも真っ直ぐ風上に向かって走ることは出来ませんが、45度の方向へは登れるのです。
このキールと三角形の帆のお陰でスペインやポルトガルが大航海時代を築くことが出来たのです。当時の帆船は横型の帆を何枚も上げましたが、マストの後には必ず三角形の帆を何枚もつけていたのです。しかし、帆船の絵画ではよくこの三角形の帆は省略されて、描かれていません。残念です。
もう一つのヨットの構造の素晴らしさは一つ一つの部品の完璧な機能と形の美しさにあります。無駄の無いワイヤーの張り方、そしてワイヤーを固定する滑車やシャックルの巧妙な設計にはヨーロッパ人の知恵と職人のわざが詰まっているのです。
下の写真は海水の入り難い場所にあるキャビンへの入り口と簡素な手動ウインチを写した写真です。キャビン入口の左にある黒い円形のものは波で揺れても水平になる磁石板(コンパス)です。

ヨットの構造の素晴らしさは帆走のための帆やワイヤーの仕掛けの巧妙さだけではありません。
キャビンに入るとそこは住み心地の良い小さな別荘のような空間になっているのです。下の写真は炊事コーナーの写真です。

電動水洗トイレもついていて泊まれるように小さいながらも寝室もついています。 下にその写真を示します。

右側 の鏡のぶら下がっている壁の向こう側は水洗トイレで、左奥が小さい寝室になっています。家内と25年間よく一緒に泊まったものです。
それは さておきヨーロッパ文化というと日本ではイギリスの近代産業革命以後の事がよく強調されます。日本が富国強兵に忙しかったので軍備に必要な近代の科学、技術が重要視されました。しかし欧米の文化は富国強兵に必要な科学と技術だけではないのです。文学、絵画、音楽、思想や哲学そして宗教と豊かな広がりを持っているのです。
一方、日本にも古来から文学、絵画、音楽、思想や哲学そして宗教がありました。
異なる文化には絶対に優劣はありません。しかしその性質には歴然とした違いがあるのです。
全ての民族の文化の違いをお互いに尊重すれば地球が平和になると思います。
ヨットを25年間趣味にしていたお陰で、私はこのように想い、老境を楽しんでいます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今年も南米原産の皇帝ダリアが咲きました

2014年11月13日 | 写真
毎年、11月中旬になると小金井公園の皇帝ダリヤが大きな花弁を広げて満開になります。
南米原産の豪華な雰囲気を持ったダリアの一群です。背丈が5mくらいで花の直径も25cm位の 南米大陸の原野に咲くダリアの一種です。
これが咲くと、ああ、今年の華やかな花々も全て終ったと、しばし過ぎ去った花々を思い出します。
先程、小金井公園へ行って今年の皇帝ダリアの写真を撮って来ました。
それにしても皇帝ダリアは地球の裏側から遥々日本へやって来て、毎年咲いてくれることに感動します。











聖書の奇蹟物語を信じますか?・そして健康な懐疑心とは?

2014年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム
近代科学を知っている人々は聖書の奇蹟物語を信じないといいます。
しかし私は信じています。
信じているというと正確ではありません。信じている時間もありますが、疑っている時間もあります。全然信じないと思っている時間もあります。
人間は生きていいる限り健康な懐疑心を持つべきとも思っています。ですから奇蹟物語を疑うのは自然なことです。
しかし奇蹟のことで論争をしてはいけません。ある人が信じていますと言えばそれは良いですねと答え、それ以上のことは言わないというのが私の信条です。信じていないと言えば、それも自然ですねと答えるだけです。
信じる信じないは別にして私は奇蹟物語が好きです。
特にカナの婚姻の宴会でブドウ酒が無くなったときイエス様が数多くの甕の中の水を上等なブドウ酒にした奇蹟が好きです。それを飲んだ男が言うのです、「宴会では先に上等な酒をだして、皆が酔ったら悪い酒を出すのが普通だが、この宴会では後からも良いブドウ酒が出てくる!」と。この台詞に私は同感です。同感してこの奇蹟を信じます。
またある時はイエス様が唾で土をこねて盲目の人の眼にそれを塗ると、見えるようになったという奇蹟も好きです。唾で土をこねることがイエス様の愛の深さを感じさせます。
そしてイエス様が水の上を歩く光景も好きです。弟子たちにも歩いて来なさいと誘います。弟子が歩いて少し行くと風が吹き、怖くなり、こんなことを信じられなくなります。すると途端に体が水の中に沈むのです。バシャバシャしている光景が目に浮かびます。
このように書いている時間は奇蹟を信じています。しばらくすると奇蹟物語は科学的に無理と、理性的に考え直します。
それでは冒頭に何故私は信じていますと書いたのでしょうか?
理性的な判断とは別にして、信じていますと公言出来るからです。堂々と言ったり書いたり出来る状態を私は信じていると定義してるのです。定義ですから議論はしません。
さて仏教ではどうでしょうか?お釈迦様は合理的な哲学から人間の悟りの状態を教えました。ですから奇蹟物語はほとんどありませ。しかし全ての宗教には神秘的なことが必ず存在しています。弟子たちが作ります。
私は仏教学の論争はしません。そのかわり誰でも知っている奇蹟を一つだけ書きます。それは弘法大師が全国を行脚したとき杖を突いて温泉を出したという奇蹟です。私はこの奇蹟が好きです。弘法大師が好きなのでこの話を信じています。
神道にも不思議な話があります。毎年10月になると全国の神々が全て出雲に集まります。出雲大社の境内には神々の泊まる小さな社が数多くずらりと並んでいるのです。
その月は全国から神々がいなくなるので10月のことを神無月(かんなづき)というのです。この話から私は幻想的な美しさを感じます。私の好きな不思議な話です。
このように宗教にまつわる奇蹟物語や不思議な話は人々の人生を豊かにします。感性を豊かにします。ですから私は信じるようにしています。
今日の挿絵は水上高原ホテル周辺の風景写真です。今年の10月1日に撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)





ヨットのセイリングの光景を見ると胸が熱くなる

2014年11月12日 | 日記・エッセイ・コラム
ヨットの趣味は25年間楽しんでいました。風が強いと怖い思いをする趣味です。冬のセイリングは辛いものです。しかし港に舫って夕日を見ながら飲むビールの素晴らしさは格別です。
その趣味を3年前の75歳の時にスッパリ止めました。
しかしヨットのセイリングの光景を見る度に胸が熱くなります。
今日は繁田慎吾さんのお蔭で神戸ー横浜外洋ヨットレースの写真を見せて頂きました。自分が波濤を越えているような錯覚をおぼえて興奮してしまいました。
その写真と記事を以下に転載いたします。
下の写真のヨットは風を左前方から受けて風上に上っています。クロ-ズホールドという帆走方法です。
ヨットが一番安定し、波が船体を打つ音がザワザワと聞こえ、何とも言えない良い心地になるのです。この写真を見ると風の強さが丁度良いようです。これ以上風が強くなると船体がもっと傾いてスピードが上がります。
右のデッキを波が洗うようになり最高のスピードになりますが、怖いのです。転覆しそうに感じて怖いのです。ヨットは怖いから面白いのです。そんなことを想像して興奮しています。ヨットは止めても楽しめるのです。

第2回神戸横濱ヨットレース:第二回神戸・横濱ヨットレースを開催する目的;
「もし、自分が出たいと思うレースがあるならば、自ら汗を流し、レースを育て支えていくべきだ」これが私共の基本的な姿勢です。
その考えを原点に置き、神戸・横濱ヨットレースを始めました。ヨットレースは、伝統を守り、行われてきた歴史を大切にするべきものだと思います。
世界の有名レースであるトランスパックは100年以上の歴史を誇ります。
バミューダレース、ファストネットレース、シドニー・ホーバートレースも長年続いてきたレースです。
残念ながらわが国には、世界に誇れる外洋レースが存在いたしません。これは誠に残念であります。
ひとつのレースを長い間時間をかけて、地域に根ざして地域に支えられて、そうして育てていく。そのようなレースでなければ、世界的といわれるレースには成長できません。
私たちは、このような方向性を持ち、第二回神戸・横濱ヨットレースを実行してまいりたいと思っています。
このページをご覧になっていただいている皆様、どうぞ宜しくお願いいたします。
・・・第二回神戸・横濱ヨットレース実行委員会・・・https://www.facebook.com/pages/%E7%AC%AC2%E5%9B%9E%E7%A5%9E%E6%88%B8%E6%A8%AA%E6%BF%B1%E3%83%A8%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B9/237390309787727?pnref=story
以下の2枚の写真は2011年10月18日に家内と一緒に最後のセイリングをしたときの写真です。

場所は霞ヶ浦です。下の写真の遠方に筑波山が写っています。

秘郷、秋山郷の紅葉は悲しみの色・・・・・・鈴木牧之の「北越雪譜」

2014年11月12日 | 日記・エッセイ・コラム
丁度、2年前の2012年の10月28日に秘境、秋山郷を訪れました。山々は華やかな紅葉に彩られていました。
しかし私は鈴木牧之の「北越雪譜」を読んでいたのでこの秘境で飢饉が何度も起きたことを知っていました。ですから美しい紅葉を見ても「北越雪譜」を思い出し悲しい気分になります。
悲劇が繰り返し起きた秋山郷の紅葉は悲しみの色です。飢饉で亡くなった人々の鎮魂のための紅葉に見えたのです。
日本は山国と言いますが、こんな山奥に何故人間が住むのでしょうか?飢饉で全部が死に絶えたという歴史を繰り返しても、山奥に連綿と人が住むのは何故でしょうか?
新潟県と長野県の県境にまたがる秘境の秋山郷はあまりにも山深いのでそこに人が住んでいるとは誰も知りませんでした。
それが江戸時代に「北越雪譜」を書いて有名になった鈴木牧之が秋山郷に入り、「秋山紀行」を書き、人が飢饉にもめげず住み着いていることを報告しました。
そして隔絶したの独特な風習を書いています。食べ物が無くて村落の全員が死ぬという悲惨な生活に胸がつまります。見回せば田圃や畑など作れないような険しい地形です。豪雪地帯です。
「北越雪譜」は1770年(明和7年)に越後の塩沢に生まれ、1842年(天保13年)に亡くなった豪商、鈴木牧之が書いた名著です。魚沼郡、塩沢とその近辺の人々の豪雪の中での生き方を詳しく書いています。商人や農民の生活を丁寧に観察し記録しています。多数の精密な絵も示しています。
そして山深い秋山郷の13の貧しい山村を巡り人々の生活の実態を記録しています。
そこでは大きな囲炉裏を囲んだカヤ壁の掘っ立て小屋に一家が雑魚寝をしています。フトンは一切なく冬はムシロの袋にもぐって寝ます。粗末な着物を着たままもぐって寝るのです。
家具は一切なく大きな囲炉裏に鍋が一個だけです。食べ物は稗と粟だけです。病人が出ると大切にしていた少しのコメでお粥を作って、薬として食べさせるのです。
その生活ぶりは縄文時代のようです。鈴木牧之は冷静に記録します。その態度は文化人類学の研究者のようです。
わずかに開けた山肌に稗や粟を植えて一年間の食料を作ります。その命の綱の粟と稗が冷害で取れない年には栃の実の毒を根気よく抜いて飢えをしのぎます。しかしそれも尽き果てる豪雪の冬には囲炉裏を囲んで寝る他はありません。寝ている間に囲炉裏の火も消えて一家の人々の命のともしびも静かに消えて行きます。
カヤぶきの掘っ立て小屋の外では音も無く雪が降り続き、やがては白一色の夢幻の世界に化してしまうのです。
現在、秋山郷は舗装道路がついていますが大型バスは通行出来ません。津南町まで大型バスで行って、そこで小型バスや乗合タクシーに乗り換えて、山並み深く分け入ります。
紅葉の山並みが幾重にも折り重なり、深い谷が小型バスを飲み込みそうで怖い道行きでした。
2012年10月28日の午後にこの小型バスで観賞した紅葉の写真をお送りいたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










幻想的な樹木の写真をお楽しみください

2014年11月11日 | 写真
昨日、40年前に「知り合ったアメリカ人が綺麗な木々の写真を送ってくれました」と題する記事を掲載いたしました。今日はその続きとして幻想的な樹木の写真を5枚お送りいたします。
Jim & Santa さんは1972年ごろカトリック立川教会で知り合ったアメリカ人です。時々面白い写真を送ってくれます。今日は先日ご紹介した木々の写真3枚の続きです。お楽しみ頂ければ嬉しく存じます。
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Amazing pics of tree the world over. Hope you enjoy.
Jim & Santa
http://www.duskyswondersite.com/tag/amazing-trees/









あなたの隣人を愛せますか?・・・朝鮮文化を少し知ろう(5)革命的な磁器焼成と李朝の白磁

2014年11月11日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様は柿右衛門が磁器の絵に赤絵を焼き付けの成功したことを学校の教科書で習ったことを憶えていると思います。それは1646年のことでした。
日本では秀吉の朝鮮出兵まで磁器の焼成ができず土器を焼いた須恵器という陶器しか出来なかったのです。それが連行されて来た朝鮮の陶工たちによって初めて磁器が焼成されたのです。それは革命的な技術革新でした。
この新しい技術には2つの絶対条件が要求されます。
(1)磁器になる岩石成分を多く含有する磁石(じせきと言い、じしゃくとは違う)を発見する技術。
(2)焼成する炉の熱効率を上げて1000度以上の温度が出る構造の焼成炉を作る技術。
この二つの技術が日本には無かったのです。
さて朝鮮から連行されて来た陶工達はどのようにして上の新しい技術を伝えたのでしょうか?この問題を詳細に研究して発表している専門家がいます。彼は東京都の東京都の清瀬市郷土博物館の学芸員の内田祐治さんです。以下は彼の2008年6月発表の研究論文(http://members3.jcom.home.ne.jp/nabari.u.y/imari.pdf)からの抜粋です。佐賀県の一帯には、古来より須恵器からつづく窯が点在していました。その景観が一変する契機となったのが、秀吉による朝鮮半島への出兵でした。  
  ・文禄の役(1592 ~ 94)
  ・慶長の役(1597 ~ 98)
 この文禄・慶長の二度にわたる出兵により、数多くの朝鮮人が各武将の軍とともにわが国へ渡って来たのです。そのなかに陶工達がいました。
 もともと朝鮮半島での戦は恩賞としての領地を与えられぬ戦です。
そこで朝鮮陶工を帰化させることにり、諸藩へ新たな窯業を興させ、それをもって恩賞に代えることにしたのです。それが秀吉の政策でした。
 彼らは付き従った諸藩へ帰化し、各々の領主の庇護を受けて陶器の焼造をはじめたのです。それらは後に、唐津焼、上野焼、高取焼、薩摩焼、萩焼と呼ばれる窯業地帯を形成させていったのです。     
 なかでも多数の朝鮮陶工をともない、後の唐津焼きの礎を築いたのが北九州の鍋島藩、平戸藩、唐津藩でした。
 その陶工らは、松浦・佐賀・多久・武雄、平戸・諫早に陶土をみいだし、それぞれの窯を築いた。のです。やがて有田西部の乱橋に移住した李参平は、有田川上流の泉山の地で磁器原料となる磁石(北を指すいわゆる磁石とは違います)を発見します。
上白川の天狗谷に窯を築き、磁器の試作を完成させたという。これこそが我が国で磁器が焼成された新しい技術革新でした。
そして正保三年(1646)、酒井田柿右衛門が赤絵に成功したのです。
国産赤絵の成功を契機に、藩は一方で磁器製法の秘術を守り抜くために有田皿山へ番所を設け商人の直取引を禁じ、他方で海上輸送の焼物の集積港である伊万里津へ買い付けの場を定め、販売の制度を確立していった。
美しい絵模様のついた磁器はやがていろいろな藩で焼成されるようになり藩財政を潤したのです。そして江戸時代の外国貿易の主要な輸出品になっていったのです。その詳細は是非、清瀬市郷土博物館の学芸員の内田祐治さんの研究論文をご覧ください。
それはさておき日本で現在でも尊重されている朝鮮本土の李朝白磁の写真を見てみましょう。
李朝の陶磁器は、初期には粉青沙器が主流でしたが、17世紀以後は白磁に変わりました。
中国の元、明の白磁の影響を受けたものですが、17世紀には色が青味がかり、李朝末期には濁った白色に変わったのです。
李朝では、磁器の製造は官窯でである工匠が行っていました。
1752年に広州に分院の官窯が作られ生産の中心になっていましたが、1883年に分院が民営化され官窯の歴史は終わったのです。
下絵付はありましたが、上絵付はありませんでした。
コバルト顔料で下絵付した青花も作られましたが、コバルト顔料が不足したため、鉄絵具で下絵付する鉄砂や銅絵具で下絵付する辰砂(赤茶色)も作られたのです。

しかし、李朝白磁の95%以上は他の色による装飾がない純白磁であり、江戸時代に日本で作られていたような華やかな色絵磁器は李氏朝鮮には存在していません。以上の解説文は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%9C%9D%E7%99%BD%E7%A3%81#mediaviewer/File:Baekja-White_Ceramic.jpg から抜粋いたしました。
さて李朝の白磁は素朴で暖かみがあります。その上、上品な感じがします。見る人の心をなごやかにするのです。私も好きです。現在の日本人も尊重していますので、その写真を示します。
李朝の焼き物の一番目の写真以外の写真の出典は、http://www.nakamaga.com/newpage11.html です。一番目の写真の出典は上の解説文の出典と同じです。
二番目は李朝初期の白磁皿です。三番目は初期の白磁徳利です。四番目は李朝中期の貝文大徳利です。五番目は李朝後期の大白磁徳利です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)









平林寺の裏の雑木林の紅葉はこれからです

2014年11月10日 | 写真
今日も晴天だったので平林寺の紅葉の写真を撮りに行きました。紅葉はまだで、あと2週間くらい後が良い色になりそうでした。それでも家内が紅葉してる枝を探して写真を撮りました。
紅葉はまだでしたが、この雑木林は国指定の天然記念物だけあって昔の武蔵野そのままの自然です。3Kmほど散策して新鮮な空気を楽しんで来ました。写真をお楽しみ頂けたら嬉しいです。









薬物依存症の人を助けている武蔵野ダルクをご紹介いたします

2014年11月10日 | 日記・エッセイ・コラム
ダルクとは薬物(アルコール、覚せい剤、合法ドラッグ、向精神薬、風邪薬、痛み止めなどの様々な薬のほかあらゆる依存症)がやめたくてもやめられなくなる事態に陥った人達が回復を目指す民間のリハビリ施設です。スタッフは薬物依存からの回復者です。http://www.m-darc.jp/を御覧下さい。
ところで昨日、私のブログへ武蔵野ダルクの渡辺肇さんから以下のような投稿がありました。社会的に重要な情報と考えたので皆様へもご紹介いたします。

====渡辺肇さんからの投稿================
こんにちは。私は武蔵野ダルクの渡辺と申します。
この活動を始めて約2年が過ぎました。活動をとうして、初めてカトリック東京教区の教会などと関わりが出来ました。そして、初めて様々な事を感じてもいるので投稿してみようと思いました。
私自身は両親共にカトリック信徒でした。府中のカトリック墓地に入りました。
そうした関係で、イエスのカリタス修道女会本部のホームページの中の「薬物依存を乗り越えて」があるのを見つけました。
どうぞ多くの人にご覧になっていただきたいと思います。
私は昔、両親に反発しプロテスタントの洗礼を受けた事がありましたが、カトリックへ改宗しました。
長年、共に住み、生活を共にしたロイ神父や両親と同じ神の元へ行くのです。そしてすつきりしたのです。
その故もあり、武蔵野ダルクの活動をスタートしました。活動を初めてみるとダルクの真実が教会関係者のも一切しられていない事に驚きました。
現在は内閣府の会議にも参加し、警視庁や、司法、法務省と共連携して活動するダルクが知られていないのです。
私は、若い頃、ロイさんのダルク事務所の仕事を手伝いました。そこへはアメリカ大使館の人達も来ました。ロイさんは、東京にあるカトリック教会に関係し、その後一諸にアメリカに行き、NYの国連にいたメリノール会の神父にも協力してもらいました。そしてレンタカーでフイラデルフイアの教会を80.代と90年代と周り、日本のダルクの活動を支援してもらいました。
アメリカの人達は、日本社会がいかに問題があるか教えてくれました。そして12ステツプによる回復支援が必要であると話してました。それは日本社会の問題でした。
そのあと、28年近く、日本のダルク対策組織はアメリカの教会の人達に支えられました。
今、武蔵野ダルクの活動を初めて、カトリック東京教区で支援をお願いしています。
あるアメリカ人が私に言いました。この問題は、日本、東京の問題なのに、いつまでアメリカに頼つているのか。東京の教会も自立しなさい。と。
しかし教会をまわり、ダルクの活動を知らない人がほとんどでした。その上、一般社会よりも、教会の方が、偏見や差別が強くあるlことに驚きました。
悲しいなと感じています。
警察も法務省の人達も、どうすればいいかと聞いてきます。
また、あなたはカトリックでしょう?カトリックつてどうなんですか?なども良く聞かれます。
答えは、カトリックは開かれています。東京も今武蔵野ダルクはスタートしましたと説明しています。
他宗教も、国も皆でこの問題は取り組むべきです。
ダルクは病気だという事です。
宗教では虫歯は治らない。信仰は大事で、良い宗教は善いことです。しかし病気は
直すべきです。
私は、教会を批判するつもりもまつたくないし、どちらかと言うと、私自身、教会では、静かに祈るのが好きな方です。
しかしあらゆる差別は無知からきます。社会の中で様々な人達と今、この武蔵野ダルクの活動をどうしていこうかと話すとき、教会の人達が知らなのでは、寂しい話しです。
神の霊は貧しい人たちの上にいるとはロイ神父の言葉です。
今、公立の学校が私達をよんで、様々な問題を話し合っています。PTAや教育委員会も私達と話し合っています。
どんな人も同じ人間です。法務省の人が私に言いました。東京のカトリックがこの問題に関心持つてくれるとロイさんも天国で喜びます。
カトリックも本当に平和を祈るならば私達の活動に目を止め、まず知つてほしい。と願います。
この活動に関わると教会には新しい人達が目を向けます。
ほんとうです。沢山新しい人達が教会に来ることを願つています。 神に感謝
武蔵野ダルク、渡辺肇

40年前に知り合ったアメリカ人が綺麗な木々の写真を送ってくれました

2014年11月10日 | 写真
みなさま、おはようございます。
Jim & Santa さんは1972年ごろカトリック立川教会で知り合ったアメリカ人です。立川教会と立川基地内のアメリカの教会との間で交流があり、その折りに知り合ったのです。
Jimは立川の空軍基地で働いていたアメリカ空軍の将校でした。 Santaさんは細身の美人でレントゲン技師でした。
私どもの家にJim & Santaさんと幼い息子さんをご招待したこともあります。彼等も家に招待してくれました。それだけの交流でしたがその後40年、毎年クリスマスカードを送ってくれます。
その上、時々面白い写真を送ってくれます。今日は最近送ってくれた木々の写真を3枚だけお送りいたします。...
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Amazing pics of tree the world over. Hope you enjoy.
Jim & Santa
http://www.duskyswondersite.com/tag/amazing-trees/

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘



カトリック小金井教会のミサ

2014年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は家内とカトリック小金井教会のミサに行きました。
今日の聖書の朗読は、エゼキエルの預言(一部分)、答唱詩編、使徒パウロの手紙、そしてアレルヤ唱を唄い、ヨハネによる福音でした。
ヨハネによる福音はイエス様が暴力を使う唯一の場面です。
・・・ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このようなものはここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない」・・・・・
神殿で金儲けの商売はしてはいけないというイエス様の言い分には賛成です。しかし暴力はいけません。しかも牛や羊や鳩は、信者が買って「いけにえ」として神に供えるのです。いけにえは供えたあと食べたのでしょうが。
そのいけにえを買うのには占領軍のローマの貨幣を使ってはいけません。ユダヤの貨幣を使わなければいけません。ですからこそ両替屋が必要だったのです。
境内で商売をしないで神殿の外の参道ですべきだったのでしょう。しかし神殿の中のほうが商売繁盛です。つい境内の中で商売をしたくなります。
この様に新約聖書は当時のユダヤ人の風習をいきいきと描いているので面白いのです。
福音書の朗読のあとは聖歌を歌ったり信仰宣言をします。そしてイエス様の体の一部に見立てた聖なるパン切れを神父様から貰って、それを食べてから帰ってきました。
その上、今日のミサの終わりのほうで七五三の可愛い子供たちが祭壇の前に並んで神父さんの祝福を受け、千歳あめを貰っていました。
今朝の記事では、おたあジュリアのことを書いたのでジュリアのためにも祈ってきました。
さてと、午後は天気が悪いのですが一回りドライブにでも行くつもりです。
皆さまも楽しい日曜日を過ごすように祈っています。
今日のミサの報告でした。

写真には函館のカトリック元町教会をご紹介いたします。
1859年(安政6年)にフランス人の司祭、カション神父によって建てられた古い教会です。このカトリック元町教会は、以後、3度の火事にあいます。現在、数多くの観光客が訪れる建物は1924年(大正13年)に出来たものです。
この教会の内部の中央祭壇と、会堂の内壁に飾ってある14個の木造彫刻はイタリーのチロル地方の作品です。ときのローマ法王ベネディクト15世が寄贈してたものです。力強い作品です。美しい作品です。この教会全体が調和を持った一個の美術的な作品になっています。
この教会の創立は明治維新の起きる前の江戸時代です。キリシタン禁教は厳しく、明治政府になってから7年間もキリシタン禁教が続けられたのです。ですから教会が出来ても隠れキリシタンは訪れることは出来ませんでした。下に外観と内部の写真を示します。




あなたの隣人を愛せますか?・・・朝鮮文化を少し知ろう(4)日本人に感動を与えた朝鮮の少女

2014年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム
この連載記事の目的は日本文化と朝鮮文化には絶対に優劣が無いということを理解してもらうのが目的です。今まで朝鮮の歴史や文学や韓国の世界遺産を紹介してきました。
今日は日曜日なので日本人に感動を与えたカトリックの朝鮮の少女の事を書きたいと思います。彼女の名前は、おたあジュリアといい、秀吉の朝鮮出兵の時、小西行長に連れて来られてのです。そして信仰を捨てなかったのでい伊豆七島の神津島へ流されたのです。その島で彼女は人々に非常に大きな感銘を与えたのです。
この話は何度か書きましたが、その記事を再編集して以下にお送りします。

一番目と二番目の写真は神津島の写真です。
(写真の出典:http://runo345.btblog.jp/)

神津島へは私も2006年に旅をしました。
江戸幕府は250年間にわたる恐怖のキリシタン弾圧を続けたいたのです。
キリシタンとして捕まった朝鮮出身のジュリアは、むごい拷問にあっても絶対に棄教しなかったのです。
ジュリアは秀吉の朝鮮遠征のとき日本の武将、小西行長によって連れて来られたのです。磔の刑を免れて神津島への遠島の刑を言い渡されます。
流された神津島では、ジュリアは罪人にも拘わらず人々の世話をして島民に愛されます。島民に尊敬され、親切にかくまわれます。
江戸時代はキリシタンへ親切にしたり、尊敬した人々はキリシタンと同罪の罰を受けます。
ですから神津島の島民はジュリアを尊敬している事は絶対に秘密にしなければいけません。幕府の役人の拷問を想像して恐れました。それは島の人だけの恐怖の秘密だったのです。
時代は明治、大正、昭和と流れて行きましたが、この秘密は島民に守られ語り継がれて来たのです。
話は変わりますが、2006年に私は満70歳になったので仕事を一切止めました。
そして伊豆七島の神津島へ東京から高速水中翼船で4時間、遥か外洋に浮かぶ小さな火山島へ小さな旅をしました。
山ばかりで平地が無い小さな島で、島の民宿に投宿しました。
そして燗酒を傾けつつ、宿の主人から島の昔話を聞いたのです。彼は低い声で話し出しました。
「朝鮮風の石碑が岬に有りますよ。おたあジュリアの墓です」 ・・・・
「小西行長が朝鮮征伐のとき連れ帰った娘です。日本に来てからキリシタンになったのでここへ流された女です。当時の島の人々を助け勇気づけたので女神のように思っている人が多いです」 ・・・・
「おたあ、は立派な女です。元気になると島の人々の面倒を良くみたのです。困った人の相談に乗り、人々を勇気づけました。皆尊敬し、おたあは本当に優しく賢い女だったのです」 ・・・・
「おたあ、に島の人々は感銘を受け、彼女の島での生活を暖かく助けたのです。しかしキリシタンを助ければ幕府から重い処罰を受けます」 ・・・・
「ですから神津島の人々はこのおたあジュリアのことは絶対に秘密にしたのです」・・・「秘密は明治、大正になっても固く守られたのです」・・・
「島の人々は今でもおたあ、のことを尊敬しています。まあ、つまらない話かもしれませんが」
現地へ行ってみないとローカルな歴史は分からないものです。
帰宅後、調べてみた。おたあ、は3歳の時、日本へ連れて来られ、アウグスチノ小西行長の養女となり、洗礼を受け、ジュリアという名を授かりました。関が原の合戦の後、小西は石田三成とともに三条河原で斬首されます。
家康の側室の侍女となったが家康の言いなりになりません。
桃山、江戸、駿河と移され、禁教令と共に神津島へ流刑になったのです。
それは慶長17年、1612年のことでした。小西行長の友人の石田三成一族も神津島へ隠れ住み、ジュリアを助けたという話もあります。
現在は、毎年、神津島おたあジュリア顕彰会などの主催で「ジュリア祭り」があります。カトリック東京大司教区と韓国のカトリック教会が共同でジュリアあたあの慰霊祭も同時に行っているのです。
尚、ジュリアの最後には諸説があって、神津島から天国へ昇ったのかは定かではありません。
三番目から六番目の写真4枚は順々にジュリアの姿、神津島にある記念塔(お墓と想定されていた)、韓国、切頭島へ神津島から引っ越したジュリアのお墓(1972年日韓の友情による移設)、そして六番目の写真は荒れる太平洋の波の様子です。
なおジュリアの姿絵は、http://shl.holy.jp/text_gospel/julia.html から転載しました。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







毎年、5月になるとジュリア祭りが現在でも開催れています。2010年にも5月8日に神津島でジュリア祭りが開催されました。

全国の過疎集落の問題を考えてみよう

2014年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム

全国の山々にある集落、そして離れ島にある集落は過疎化が進んで廃集落、廃村への道を進んでいます。
完全に人が住まなくなれば廃村となってしまいますが、次第に人口が減少している地域では大きな問題が起きています。
高齢化で車の運転が出来なくなり買い物が出来なくなります。このような買い物難民が全国で600万人いると云われています。高齢者なのでインターネットも使えないのでネット購入も出来ません。
その上、車で病院に行けないので病気になっても昔のように売薬しか飲めません。いわゆる病気難民です。
この様に過疎化は人道的な問題をはらんでいるのです。
都会に住んでいる人々は過疎集落から都会へ引っ越せば良いと考えます。しかし過疎地の家も土地も売れないのです。引っ越し資金が皆無なのです。
村役場や町役場が買い物や病院通いのマイクロバスを出せば良いのですが、その予算が無いのです。
これこそ中央政府の資金援助を大きく増額すればある程度問題が解決します。中央省庁の役人は予算の分捕り合戦をしますが過疎集落の人々のことは眼中にありません。
皆様は過疎集落の問題をどのようにお考えでしょうか?
参考資料に東日本の「学校跡を有する廃村・高度過疎集落」の資料を添付します。
そして挿絵写真は昨日、檜原村で撮ったいろいろな菊の花の写真です。







===参考資料:「学校跡を有する廃村・高度過疎集落」===
(以下は、http://heyaneko.web.fc2.com/ghle.htmlから転載しました。 )
編者が確認した全国の「学校跡を有する廃村・高度過疎集落」(学校の所在は昭和34年以降)は 1000ヶ所です(廃村814ヶ所,高度過疎集落186ヶ所,以下「廃村 千選」と略す)。
「廃村 千選」は,「廃村と過疎の風景」の一連の旅(平成17年8月以降)に並行して全国の「学校跡を有する廃村・高度過疎集落」(以下「廃校廃村」と略す)を「へき地学校名簿」,「全国学校総覧」,地形図,住宅地図などの資料を調べて,独自に編集・作成したものです。
「廃村 千選」作成開始からWeb公開開始まで丸4年,冊子(東日本編)完成までは丸5年かかりました。振り返れば,全国一巡から先の調べ物,地図の作成などに時間がかかりました。西日本編を分けてまとめるという判断ができてよかったです。
「廃村 千選」 東日本 = 683ヶ所('05年5月19日作成,'14年10月26日更新)
  都道府県名 、廃校廃村の数、 廃村の数 、へき地校の数 、そして代表的な廃校廃村名、調査年月 更新年月 を以下に示します。
●1 道央 90集落 68集落 328校 当別町青山中央,夕張市北炭夕張・鹿島,美唄市東美唄,
神恵内村オブカル石,苫小牧市柏原・静川,静内町高見 05.09
~08.08 14.10
●48 道東 82集落 53集落 547校 上士幌町三股,浦幌町上厚内・浦幌炭山,阿寒町雄別,
厚岸町小島,紋別市鴻之舞,滝上町拓雄,雄武町上幌内 05.09
~08.06 14.05
●49 道北 81集落 57集落 313校 占冠村ニニウ,朝日町似峡,名寄市智東,歌登町大曲,
稚内市峰岡,幌延町雄信内,羽幌町羽幌砿,増毛町歩古丹 05.09
~08.10 14.10
●50 道南 22集落 20集落 117校 上ノ国町中外鉱山,北檜山町日中戸,奥尻町球浦開拓,
七飯町精進川,森町三岱,八雲町桜野・富咲・夏路 05.09
~08.06 14.10
●2 青森 18集落 17集落 194校 青森市二股,黒石市沖浦,相馬村舟打,西目屋村砂子瀬,
中里町母沢,天間林村上北鉱山,七戸町寺下,川内町野平 06.07
~08.05 14.03
●3 岩手 33集落 22集落 254校 松尾村松尾鉱山,二戸市小端,紫波町小清水,花巻市豊沢,
湯田町鷲合森,胆沢町尿前,岩泉町櫃取,三陸町大窪 06.03
~08.06 14.03
●4 秋田 48集落 45集落 166校 大館市合津,比内町立又,森吉町森吉,上小阿仁村屋布,
鳥海町袖川,田沢湖町玉川・宝仙台,東成瀬村檜山台 05.06
~08.10 12.07
●5 宮城 12集落 9集落 108校 川崎町小松倉・小沢,七ヶ宿町渡瀬・追見・仕切目・稲子,
大和町嘉太神・升沢,鳴子町北滝,鶯沢町大土森 06.07
~08.04 10.08
●6 山形 77集落 72集落 272校 上山市内山・竜沢・古屋敷,西川町月山沢,大石田町小平,
白鷹町栃窪,小国町西滝,最上町作造原,朝日村桝形 06.01
~08.05 12.07
●7 福島 37集落 34集落 190校 いわき市八茎鉱山,福島市大滝・梨平,棚倉町中ノ沢,
会津若松市二幣地,田島町八総鉱山,檜枝岐村小沢平 06.06
~08.11 14.08
○8 茨城 ゼロ ゼロ 19校   05.09
~08.11 10.05
●9 栃木 4集落 3集落 38校 鹿沼市梶又,足尾町横根山,桐生市入飛駒今倉 05.08
~07.01 13.01
●10 群馬 9集落 8集落 69校 上野村本谷,嬬恋村石津鉱山・吾妻鉱山・小串,利根村平滝 05.08
~07.01 14.02
○11 千葉 ゼロ ゼロ 13校   05.10
~07.01 10.05
●12 埼玉 1集落 1集落 35校 大滝村小倉沢 05.10
~07.09 13.01
●13 東京 2集落 2集落 35校 八丈町(八丈小島)宇津木・鳥打 05.09
~07.01 10.05
●14 神奈川 2集落 2集落 6校 清川村札掛,山北町地蔵平 05.09
~07.06 13.01
●15 新潟 81集落 68集落 389校 村松町上杉川,朝日村三面,下田村吉ヶ平,見附市栃窪,
十日町市稲子平・大池・軽沢,糸魚川市菅沼,青海町橋立 06.07
~08.11 14.08
●16 長野 25集落 21集落 168校 飯山市堂平・沓津・堀越,美麻村高地,小谷村真木・戸土,
臼田町広川原,高遠町芝平,中川村四徳,飯田市大平 05.05
~08.10 14.02
●17 山梨 5集落 4集落 60校 塩山市滑沢,牧丘町柳平,敷島町大明神,早川町天久保 05.12
~08.06 13.01
●18 静岡 8集落 6集落 79校 春野町小俣京丸,龍山村新開,水窪町峠・有本・門谷 05.07
~08.01 13.01
●19 愛知 2集落 1集落 60校 旭町牛地,設楽町宇連 05.12
~07.03 14.10
●20 岐阜 39集落 37集落 156校 藤橋村(徳山)徳山本郷・戸入・門入,根尾村越波,美山町椿,
金山町卯野原,神岡町跡津川・栃洞,河合村保・舟原 05.05
~07.09 14.10
●21 三重 5集落 5集落 62校 白山町北布引,飯南町峠,飯高町青田・蓮,紀和町和田 05.11~08.06 14.07
======================
以上の合計は、 計 683集落 556集落 3,678校 となります。  

時間がゆっくり流れる山里、檜原村の暮らし

2014年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム
ここ数日、朝鮮の歴史や文学を調べていていたので疲れました。そこで昨日はのんびりと山里の紅葉の写真を撮りに行きました。
檜原村は東京の本州の唯一の村で人口が2300人しかありません。険しい山々が重なりその谷間に集落があります。
縄文時代から人が住み、古墳時代には朝鮮からの渡来人も移り住んだそうです。
江戸時代は天領になり江戸へ材木を送るので林業がさかえたそうです。
そんな時間がゆっくり流れる山里、檜原村の暮らしぶりを撮った写真をお送りいたします。

上の茅葺屋根の家は神戸岩への道にありました。表のガラス戸以外は江戸時代のままの作りです。昔はガラス戸が雨戸でした。もっとも電気とプロパンガスは使っているようです。
しかし檜原村にはコンビニもスーパーもありません。ファミレスも回転寿司もありません。病院もありません。しかし下の写真のように神戸岩からの清流が静かな瀬音をたてています。

この川の水は本当に透明です。川底まで見えます。そのまま飲めそうです。
神戸岩への道の最後の集落で車を停め散歩しました。数軒の家がありますが庭には塀や柵がありません。皆仲良く穏やかに暮らしているようです。
家内がつなげれていない犬を見つけてしゃがんで話し込んでいます。犬もおだかに話しています。しかし家内があまり長く話し込んでいるので少し迷惑そうにしています。

それに気づいた家内が立ち上がりました。犬はやっとホットして向かいの山の紅葉を見ています。この集落には10種類以上の菊が咲いていました。晩秋は菊の季節です。下に2種類の菊の花の写真をお送りします。



ささやかな観光気分で散策している私にとって時間がゆっくり流れる山里の暮らしは素晴らしいものです。しかし山里は過疎です。若者はみんな東京に出て行ってしまいます。学校の分教場も廃校になっています。
家々の三分の一くらいには人が住んでいません。分かりやすく言えば廃屋です。
しかしその廃屋を綺麗にして保存しているのです。見苦しくないようにしてあるのです。
観光客が不愉快な気分にならないようにしているのです。
この山里に住んで居る人々の心の豊かさを感じます。
全国には過疎の村が沢山あります。朽ち果てた廃屋を見ると心が暗くなります。しかし檜原村にはそんな廃屋があまりありません。
住んでいる人々の心の暖かさを感じる昨日の小さな旅でした。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


東京の山奥、檜原村の秋川渓谷の紅葉の写真を撮って来ました

2014年11月07日 | 写真
今日は晴天で明日から暫く雨の日が続くという天気予報です。そこで秋川渓谷の養沢渓谷と神戸岩渓谷へ分け入って紅葉の写真を撮って来ました。
今日は家内が一緒でしたので撮影はまかせ、私は車の運転と撮影ポイント探しを分担しました。
秋川の支流の養沢渓谷と神戸岩渓谷は山々がせまり、奥も深く秘境のような感じがします。気温も都心より低く、今日の最高気温は16度でした。
自然林の紅葉の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。