後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日は茶室で抹茶を楽しみました

2014年11月16日 | 写真
茶道を習ったことはありませんが時々は気軽に抹茶を飲みます。
家内が道具一式を持っていて座敷に炉も切ってありますが、めったに炉に炭を入れません。普通は座敷に置く炉ですませています。
その代わりあちこちで抹茶を出すところがあると家内と一緒によく茶室に入り、しばし日本文化を楽しみます。
今日も府中郷土の森博物館公園を散歩していたら茶室で呈茶をしていましたので一服頂きました。茶室の庭や寄り付きの風景を見ていると和やかな気持ちになります。これこそ日本文化の一つです。
下に今日撮ってきた写真を示します。

この一番目の写真が茶室と庭の風景です。

上の二番目の写真は茶室の前にある寄り付きです。

上の三番目の写真は道端に何気なく咲いていた野菊とホトトギスの花です。

上の四番目の写真は公園の中にある池です。

上の五番目の写真は池のそばにあるイチョウの黄葉です。
このような写真だけを掲載すると府中郷土の森博物館公園は静寂な場所のように見えます。しかし公園の入り口に近い北半分では「府中市制50周年記念農業祭」をしていまして人々が多数いました。人混みでした。喧騒につつまれていました。しかし家族連れが実に楽しそうにしていました。それを眺めるのも楽しいものです。写真は撮りましたが省略します。
写真の選び方でいろいろな報道の印象が非常に違ったものになるということは本当なのですね。つまらないことを書いて失礼いたしました。

文化とは何でしょうか(1)ハプスブルグ家とヨーロッパ文化

2014年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム

一番目の写真は昨日、野川公園で撮ったユリノキのたたずまいです。毎年撮る樹木の写真です。この光景を見るたびにこの植え方がヨーロッパ文化なのだと感じています。
文化の狭い定義では芸術や宗教です。 趣味やスポーツも文化です。人間の精神生活を豊かにするものが文化と定義します。
これに対して広い定義では人間の知的な働きで出来上がった全てのものです。
鉄道や自動車も全ての工業技術も文化です。政治制度や戦争の準備と戦い方も文化です。人々の生活を快適にして便利にする知的生産物の全てを文化と定義します。もちろん広義の文化は狭義の文化も含み込んでいます。広義の文化から狭義の文化を差し引いた部分を文明と呼びます。
最近、朝鮮文化について連載記事を掲載してきました。それがキッカケとなりもっと広い視野で世界の国々の文化を考えてみることにしました。
その第一回はヨーロッパ文化へ与えたハプスブルグ家の影響を取りあげました。
日本では産業革命以後のイギリス、フランス、ドイツ、アメリカの広義の文化を熱心に取り入れて富国強兵を実行し、戦後の経済の復興と高度成長に成功しました。
ですから産業革命より古いヨーロッパの文化を軽視する風潮があります。
しかしヨーロッパ文化へ与えたハプスブルグ家の影響を調べてみると現在のヨーロッパの通貨の統合やEUの考え方が理解出来ると思います。
ハプスブルグ家は武力と婚姻関係を利用してヨーロッパ全土に領土を広げ、幾つもの王国を作り、その王達の生殺与奪の権力を手中に収めた一家だったのです。
中世から近代にかけてヨーロッパ全土に支配権を及ぼし、「ヨーロッパは同じ文化圏」という考え方を定着させたのです。
ヨーロッパの歴史でそのような一家はウイーンのハプスブルグ家とフィレンツェのメディチ家です。メジチ家はルネッサンスの芸術家を援助したので日本では善玉になっています。しかしハプスブルグ家も中世以来、ルネッサンス期も通して芸術家を支援し音楽や絵画を育てていたのです。
この2つの家だけが有名なのは王様の権力の以上の権力を握っていたからです。
ハプスブルグ家の当主はその広大な領地内の幾つかの王国の王様たちより権力があったのです。その王位継承権をハプスブルグ家が握っていたのです。
これは日本人にとって理解しにくい事情です。ですから日本ではハプスブルグ家のことはあまり知られていません。
それではハプスブルグ家の領土はどのくらい大きかったかを二番目の写真の地図で示します。

この図は、1547年時点でのハプスブルク家の領土(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)です。
ハプスブルグ家はオーストリアを中心にした領土とスペインを中心にした領土に別れていました。
そして中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の指名権、継承権を握っていたのですから驚きです。
現在も、ハプスブルグ家の子孫は婚姻によりスペイン、ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性すらあるのです。
そしてこの一家の本拠地はウイーンのシェーンブルン宮殿にありました。三番目の写真で示します。

これがシェーンブルン宮殿(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83…)です。
そして多くの王国(公国や帝国を含む)の連合として、1526年から1804年まで「ハプスブルグ君主国」が存在したのです。
その歴史は複雑ですが、ご興味のある方は末尾に付けた参考資料をご覧ください。
「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によってでも所領を増やしていったのです。
その例はマリア・テレジアが数多くの娘たちを各国の王子と結婚させたことでもよく知られています。その結果、ヨーロッパの数多くの王族が親戚関係になり、ある意味でのヨーロッパ統合の実態が自然に生まれたのです。現在のヨーロッパ連合や通貨の統一はこのような歴史の影響があると考えるとヨーロッパ文化の奥深さが少し理解出来るのではないかと思います。現在、日本ハプスブルグ協会が「文化芸術サロン」というブログ;(http://blogs.yahoo.co.jp/operafestival/8729389.html)を発表しています。そして良質のヨーロッパの芸術の日本への紹介活動をしています。ハプスブルグ家がこのように日本へもつながっていると思えば不思議な気がします。

それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)

===========参考資料=================
ハプスブルク家(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)(ドイツ語: Haus Habsburg)は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の家系となった。また、後半は形骸化していたとはいえ、ほぼドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の皇帝位を中世以来保持し、その解体後もオーストリアがドイツ連邦議長を独占したため、ビスマルクによる統一ドイツ帝国から排除されるまで、形式的には全ドイツ人の君主であった。ヨーロッパ随一の名門王家と言われている。
ハプスブルク君主国(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)(ハプスブルクくんしゅこく、ドイツ語: Habsburgermonarchie, 英語: Habsburg Monarchy)は、オーストリア系ハプスブルク家(のちハプスブルク=ロートリンゲン家)が君主として統治した国家の歴史学上の呼称である。
正確には「帝国」ではない時代もあるがハプスブルク帝国(ドイツ語: Habsburgisches Reich,英語: Habsburg Empire)とも呼ばれる。成立年はハプスブルク家がオーストリア大公領に加えてハンガリー王国、ボヘミア王国を獲得した1526年とされる。1804年までは公式の名称を持っていなかったが、同時代の人々ですらこれを事実上の国家として認識し、オーストリア(ハプスブルク家をオーストリア家ということから)と呼称していた。1804年から1867年はオーストリア帝国(「オーストリア家の帝国」という意味)、1867年から1918年はオーストリア=ハンガリー帝国(「帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」)を総称とした。
ハプスブルク君主国の領域は、大きく分けて以下の3つから形成されていた。
ハプスブルク家世襲領ハプスブルク家の所領とされたのは、現在のオーストリア、スロベニア、イタリア北部、ラインラント(1797年まで)である。ナポレオン戦争の過程でこれらの領土の多くが一旦は失われたが、ウィーン会議(1814年)によって多くを回復し、さらにザルツブルク大司教領を加えた。ベーメン王冠領ベーメン王国領はベーメン(ボヘミア)、メーレン(モラヴィア)、シュレージエン(シレジア)、ラウジッツからなっていた。ラウジッツは1620年にザクセン公国へ割譲され、シュレージエンはオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)の結果プロイセン王国に奪われた。ハンガリー王冠領ハンガリー王国はモハーチの戦いの後、北西部の3分の1がハプスブルク家、東南部と中部の3分の2がオスマン帝国の支配下に入った(オスマン帝国領ハンガリー)。オスマン帝国の衰退とともに、1699年のカルロヴィッツ条約で旧ハンガリー王国の領域の大部分がハプスブルク家へ割譲された。ハンガリー王国領とされた地域は、現在のハンガリー、スロバキア、クロアチア、ヴォイヴォディナ、トランシルヴァニア、ルテニアのカルパチア地方が含まれていた。オスマン帝国と接する最前線は、軍事上の必要性からウィーン政府による直轄支配とされた。
これら以外に歴史上、以下の地域がハプスブルク君主国の領域となった。
南ネーデルラント (現在のベルギーとルクセンブルク、1713年 - 1792年)
ミラノ公国(ロンバルディア、1713年 - 1797年)
ナポリ王国(1713年 - 1735年)
サルデーニャ王国 (1713年 - 1720年)
トスカーナ大公国 (1737年- 1860年)バナト・テメスヴァル (1718年 - 1778年)
セルビア (1718年 - 1739年)
ボスニア (1718年 - 1739年)
オルテニア (1718年 - 1737年)
シチリア王国 (1720年 - 1735年)
パルマ公国(1735年 - 1748年)
ガリツィア・ロドメリア王国 (現在のポーランドとウクライナの一部、1772年 - 1918年)
ブコビナ (1774年 - 1918年)
ヴェネツィア(1797年 - 1805年, 1814年 - 1866年)
ダルマチア(1797年- 1805年, 1814年 - 1918年)
ロンバルディア (1814年 - 1858年)
ホルシュタイン (1865年 - 1866年)
ボスニア・ヘルツェゴビナ (1908年 - 1918年)