後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

奥多摩の山あいにある地酒、澤乃井の蔵元を訪ねて

2019年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム
先日の4月17日 に「白壁の酒蔵のある風景は日本人の郷愁」と題した記事で多摩川上流のほとりにある地酒、「嘉泉」をご紹介しました。蔵元は羽村の堰のそばにある文政5年創業の田村酒造です。
さて多摩川上流にはもっと遡った沢井という所に元禄15年創業の小澤酒造があります。「澤乃井」という銘柄の地酒を造ってています。
「澤乃井」は「沢井村」で出来た酒なのでそう命名したものです。
昨日は風薫る皐月の晴天です。青梅市の奥の奥多摩街道をドライブして沢井まで行きました。
そこで撮って来た小澤酒造の写真を送りします。
最後の写真は小澤酒造の近くの多摩川上流の風景です。









4枚目の写真には茅葺の家が写っています。蔵元の小澤家が現在でも住んでいる古い家です。
さて小澤酒造のことは詳細なホームページが、http://www.sawanoi-sake.com/ にありますので割愛します。
その代わり地酒というものに関する私の考えや想いを書かせて下さい。
地酒という言葉は最近盛んに使われるようになって来たと感じてします。
生産量が少なくて地元でしか飲まれていない酒を地酒と呼んでいるのです。
地方の活性化運動とも一緒になって地酒がもてはやされるのです。
しかしはっきり言って私は地酒が好きでありません。味に癖があり過ぎるのです。美味しくしようと味を作り過ぎている場合も多いのです。全国に流通している灘や伏見の酒のように味が洗練されていないのです。
そして新潟や秋田の有名な酒のように昔風の素朴な旨みが無いのです。
地酒の味は好きではありませんがそれを代々造っている人を尊敬していんます、そんな稼業にロマンを感じ憧れています。
白壁の建物が並ぶ酒蔵の風景は美しいものです。地方の人々を愛し、その好みの酒を造っている姿勢に感動します。ですから私は地酒の蔵元を尊敬し大切に思っています。
山梨県の甲斐駒岳の麓の小原宿にも七賢という地酒があります。
酒蔵の一部を公開しているんので何度も遊びに行きました。行くたびに「七賢」の小瓶を買って、大きな杉玉に送られて帰ってきます。
帰宅後、「七賢」を飲みます。ところが何十年飲んでも好きになれないのです。
私の味覚が変なのだと思っています。日本には地酒が好きな人が多いのです。
地酒の蔵元は例外なく繁盛しています。好ましいことです。
すこし自分の勝手な酒の味の好みを書いてみました.

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

何故、ローマ総督ピラトはイエスを死刑にしたか?

2019年04月18日 | 日記・エッセイ・コラム
今度の日曜日は復活祭です。キリスト教ではクリスマスよりも重要な祭日です。
イエスが十字架上で死んで3日目に甦って弟子達に話をしたのです。人間は死んでも生き返るのです。
そこで今日は何故イエスが死刑になったか、その理由と経緯を簡単に書きます。
少しややこしい話です。ユダヤ王国と、そこを占領しているローマ帝国との国際関係がからんだ話なのです。

イエス・キリストは約2000年前の中東のユダヤ王国のベツレヘムで生まれ、ナザレと言う町で育ちました。
ですからイエスはユダヤ教徒だったのです。そして民族宗教のユダヤ教を斬新に改革して全ての民族のためになる世界宗教にしたのです。その世界宗教を現在の人々は「キリスト教」と呼んでいます。
さてユダヤ教の保守的な聖職者や律法学者はイエスのこの改革を邪道だと非難し、イエスを捕らえて死刑にしようとしたのです。
しかし当時のユダヤ王国はローマ帝国の支配下にあったのです。ですから重要な裁判権はローマ総督のピラトだけが持っていたのです。
そこでユダヤ教の保守的な聖職者たちはイエスを捕らえて、ピラトに裁判をして死刑にして下さいと頼んだのです。
ピラトは始めイエスには罪が無いと思います。しかし保守的な聖職者や群衆が死刑判決を下せと叫び続けたのです。騒乱を恐れたピラトはしぶしぶイエスへ死刑の判決を下したのです。
この歴史的事実を福音書は克明に書いています。以下にルカによる福音書の第23章を示します。

(1)ユダヤ教の保守派がイエスを捕らえピラト総督に裁判を頼む場面
1 群衆はみな立ちあがって、イエスをピラトのところへ連れて行った。
2 そして訴え出て言った、「わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました」。
3 ピラトはイエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」とお答えになった。
4 そこでピラトは祭司長たちと群衆とにむかって言った、「わたしはこの人になんの罪もみとめない」。
5 ところが彼らは、ますます言いつのってやまなかった、「彼は、ガリラヤからはじめてこの所まで、ユダヤ全国にわたって教え、民衆を煽動しているのです」。

(2)ピラトは困ってイエスをユダヤのヘロデ王へ送った場面
6 ピラトはこれを聞いて、この人はガリラヤ人かと尋ね、
7 そしてヘロデの支配下のものであることを確かめたので、ちょうどこのころ、ヘロデがエルサレムにいたのをさいわい、そちらへイエスを送りとどけた。

(3)ヘロデ王の対応の場面
8 ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ。それは、かねてイエスのことを聞いていたので、会って見たいと長いあいだ思っていたし、またイエスが何か奇跡を行うのを見たいと望んでいたからである。
9 それで、いろいろと質問を試みたが、イエスは何もお答えにならなかった。
10 祭司長たちと律法学者たちとは立って、激しい語調でイエスを訴えた。
11 またヘロデはその兵卒どもと一緒になって、イエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はなやかな着物を着せてピラトへ送りかえした。
12 ヘロデとピラトとは以前は互に敵視していたが、この日に親しい仲になった。

(4)ピラト総督が再度イエスを無罪放免しようとした場面
13 ピラトは、祭司長たちと役人たちと民衆とを、呼び集めて言った、
14 「おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。
15 ヘロデもまたみとめなかった。現に彼はイエスをわれわれに送りかえしてきた。この人はなんら死に当るようなことはしていないのである。
16 だから、彼をむち打ってから、ゆるしてやることにしよう」。
17 祭毎にピラトがひとりの囚人をゆるしてやることになっていた。

(6)群衆がイエスをに十字架につけて死刑にしろと叫ぶ場面
18 ところが、彼らはいっせいに叫んで言った、「その人を殺せ。バラバをゆるしてくれ」。
19 このバラバは、都で起った暴動と殺人とのかどで、獄に投ぜられていた者である。
20 ピラトはイエスをゆるしてやりたいと思って、もう一度かれらに呼びかけた。
21 しかし彼らは、わめきたてて「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と言いつづけた。
22 ピラトは三度目に彼らにむかって言った、「では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」。
23 ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求した。そして、その声が勝った。

(7)ピラトが折れてイエスに死刑判決を下す場面
24 ピラトはついに彼らの願いどおりにすることに決定した。
25 そして、暴動と殺人とのかどで獄に投ぜられた者の方を、彼らの要求に応じてゆるしてやり、イエスの方は彼らに引き渡して、その意のままにまかせた。
26 彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた。
27 大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れとが、イエスに従って行った。
・・・28から35までは省略します・・・

(8)ローマ軍の兵士が十字架につけたイエスを罵る場面
36 兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、
37 「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。
38 イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。
39 (イエスと共に他に2人の死刑囚が十字架に架けられていた)十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

(9)午後3時にイエスが絶命する場面
44 時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。
45 そして聖所の幕がまん中から裂けた。
46 そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。
47 (ローマ軍の100人の兵を持つ隊長の)百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。
48 この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。
49 すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。

このように福音書は具体的にピラト総督やヘロデ王の対応を克明に書いているのです。
この死せるイエスが3日目に復活し生き返るのです。その場面は続編でご説明いたします。

今日の挿し絵代わりの写真は椅子に座っているピラトの前に引き出された白い服を着たイエスの絵画です。死刑にしろと群衆が叫んでいます。

ピラトの前に引き出されたイエス(1881年、Mihály Munkácsy)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「白壁の酒蔵のある風景は日本人の郷愁」

2019年04月17日 | 日記・エッセイ・コラム
どういう理由があるのか知りませんが、私は時々強い「郷愁」に襲われることがあります。心が淋しく悲しみでいっぱいになるのです。
そういう時に必ず訪れる白壁の酒蔵があります。
多摩川を遡った羽村の堰にある田村酒造です。文政5年創業です。

誰もいない構内に入ると昨年仕込んだ酒が蔵の中で静かに発酵しているだけです。
この田村酒造は何時も門が開いていて誰でも出入り自由です。
その中に入ると何故か私の心が静まります。
別に詳しく考えたわけではありませんが、私は白壁の酒蔵のある風景は日本人の郷愁ではないかと感じています。
昨日撮って来た写真をお送りします。
写真はこの酒蔵の風景と隣接して流れている玉川上水の写真です。そこから分水した田村分水が構内を流れています。









この酒蔵は多摩川の伏流水を用いて「嘉泉」という地酒を作っています。昨日は羽村の堰の傍にある酒屋さんから「嘉泉」の純米吟醸酒を一本買ってきました。
夕食に飲んでみましたら実に奥深い中辛の味でした。
その味に感動したので福生市の田村酒造をあらためて調べてみました。
よく出来たホームページが、http://www.seishu-kasen.com/ にありました。
早速「嘉泉」という地酒が出来た歴史を読みました。抜粋をお送りします。

・・・代々、福生村の名主だった田村家の「半十郎(豊真)」から数えて九代目の「勘次郎(賢真)」は28歳で名主役を継ぎ、文政5年(1822年)の46歳の時に酒造業を興しました。
当時の江戸は華やかな文化文政期を迎え、急速に発展していきました。酒の需要も増え、主流だった上方(関西)で生産する“下り酒”に代わるものとして幕府は“江戸地廻り酒”の生産を奨励しました。
田村家は敷地内の井戸に、酒造りに好適な中硬水の秩父奥多摩伏流水を得た喜びから“嘉泉“と酒銘を定めました。・・・

ここに「秩父奥多摩伏流」とありますが秩父と奥多摩は離れていて全く別の水系です。田村酒造の50メートル先には多摩川が流ています。ですから「嘉泉」は多摩川伏流水を用いた地酒と言えます。

日本酒の作り方です。
「新酒」10月中旬頃
最初のタンクを9月下旬に仕込み、発酵を経て10月中旬頃搾って出荷しています。この酒を「新酒」といいます。
それは新酒ならではのフレッシュな香り、コクのある味が充分に楽しめるそうす。

「大吟醸造り」12月中旬
日本酒の最高峰「大吟醸」の造りが始まると蔵に一層の緊張感が走ります。泊まり込みの麹の管理を経て、酒母の仕込みは年末頃。年が明けて醪となった大吟醸の搾りと出荷は例年2月中旬頃となります。

「甑(こしき)倒し」3月中旬
甑とは酒造りに使う米を蒸す道具で、湯が煮立つ釜の上に乗せて使います。家庭用蒸し器の上の部分のようなものです。今期の酒造りで最後の蒸米が完了したら、酒蔵では「甑倒し」といって今期の仕込みが無事に終了したことを祝う慣わしがあります。

「皆造(かいぞう)」4月下旬
皆造とは“みんな造った”という意味で、今期のもろみを全て搾りきり、酒造りのすべてが終了した時の言葉です。皆造後は製品化に伴う仕事が続きますが、蔵人は冬から続いた約半年の緊張の日々から開放されます。

このように酒造は特殊な日本の文化の一部を作っているのです。
そんな理由もあって白壁の酒蔵のある風景は日本人の郷愁なのではないでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


曾遊の地、三浦半島への小さな旅

2019年04月15日 | 日記・エッセイ・コラム
先週の土曜日に曾遊の地、三浦半島への小さな旅をしました。その折に撮ってきた写真をお送りします。
旅路は圏央道で茅ケ崎海岸に出て、海沿いに江の島、鎌倉と抜けて鐙摺港(葉山港)に寄り、そこから三浦半島の西海岸道路を走りました。森戸神社に車を停め、海と富士山の写真をゆっくり撮りました。
それから剣ケ崎を経て佐島付近で漁船や漁港の長閑な風景を写しました。
この時期の三浦半島はタブノキやクスノキや野生の椿類の新緑が匂うように美しいのです。海の写真だけでなく山の新緑の風景も写しました。
帰路は横須賀から横浜・横須賀高速道路に入り、狩場インターで第三京浜道路に乗り換えて帰って来ました。
写真はこの道順から離れ次の3つのテーマ順に掲載します。
(1)三浦半島の新緑、(2)佐島の漁港と漁船、(3)海辺から見た富士山.
それでは写真をお楽しみ下さい。

1番目の写真は佐島近辺の山の新緑の風景です。山桜と新緑のコントラストが美しかったです。

2番目の写真も佐島近辺の山の新緑の風景です。
関東地方の平野にはケヤキ、クヌギ、コナラ、カシワなどの樹木が生えていますが、三浦半島は違う樹木種で覆われています。その代表的な樹木がタブノキ類なのです。
常緑樹ですが春に新しい葉が出て古い葉が落葉します。
三浦半島の植生は武蔵野と全く違います。真鶴半島や伊豆半島と同じで、八丈島や神津島のような樹林になっています。
三浦半島はフィリピンプレートが隆起して、更に火山の溶岩が重なったような険しい山に覆われているのです、真鶴半島や伊豆半島と同じです。ですから三浦半島は武蔵野とは非常に違う異質の自然なのです。
わずか60Km位しか走っていないのに遠方の異質の世界へ旅をしたような気分になります。

3番目の写真は佐島から見下ろした漁港の風景です。のどかな風景です。
この風景は1962年、東京に住み始めてから何度も眺めて楽しんできました。
昔は港いっぱいに漁船が係留してあったのですが、年々その数が減って、この写真のようにまばらに漁船が係留されるようになりました。漁師が年老いて漁業を止めるからです。魚は冷凍技術の発達で外国から多量に輸入されるようになったのです。

4番目の写真は漁船の姿を探してやっと撮った写真です。漁から帰って来たようです。

5番目の写真は佐島のヨットのマリーナの陸置きのヨットの風景です。三浦半島は東京に近いためヨットのマリーナは相変わらず隆盛しています。このようなヨットのマリーナは油壺、小網代湾、葉山などにありいずれも溢れんばかりのヨットが陸置きされています。

6番目の写真は森戸神社から撮った富士山です。三浦半島の西の海岸道路を三崎に向かって走っていると車窓からこのような遠景の富士山が青い海の向こうに見えます。

7番目の写真は茅ヶ崎海岸から撮った富士山です。森戸神社から撮った富士山があまりにも小さいので茅ヶ崎海岸からの写真を追加しました。

さて写真で示したように三浦半島の風景は関東平野と非常に違うのです。房総半島とも違います。
それが三浦半島への旅の魅力なのです。食事のことは省略しましたが、洒落たレストランが葉山にも森戸にも佐島にも沢山あります。
是非お出掛けになっては如何でしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


春の花々の写真、そして菜食主義のこと

2019年04月13日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日です。気持ち良く一日が過ごせるように春の花々の写真をお送りします。
一昨日、三鷹市の花と緑の広場で撮った写真です。四季折々多種多様な花が美しく咲いています。
ある善意の地主が広い土地を三鷹市に無償で貸しているそうです。
緑の広場では子供達が楽しそうに遊んでいます。
珍しい花も植えてあります。2番目、3番目の写真はリナリアという花だそうです。
春の花々の写真をお楽しみ下さい。













今日の話題は菜食主義です。
菜食主義は理想的な生き方です。私はそう思いますが実行出来ません。ですから菜食だけで生きている人を尊敬しています。
私の考えを先に書けば、アメリカの動物愛護と菜食主義と仏教の不殺生戒は深い根のところで繋がっていると思います。
そこで今日は菜食主義に関連する問題をいろいろ考えてみたいと思います。
最近、ペットとして動物を飼うことが広く普及しています。ペットは人間の精神を豊かにし日常の生活をより幸せにしているのです。
これらの人間と動物のかかわりあいは仏教の不殺生戒とどのような関連があるのでしょうか?
そこで動物愛護の歴史と仏教の不殺生戒につぃて簡単に書いてみたいと思います。

日本では天武天皇や聖武天皇など歴代の天皇が肉食禁止令を発布した歴史があり、明治維新以前の日本人はほとんど四つ足の動物は食べていなかったのです。

一方、アメリカにおける動物愛護運動の歴史を簡単に見てみましょう。
以下は、http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2016/12/02/124340 からの抜粋です。
アメリカの最初の公式な動物愛護団体は1866年に設立したニューヨークのアメリカ動物虐待防止協会( American Society for the Prevention of Cruelty to Animals)ですが、同様の団体がペンシルバニアやマサチューセッツにも同時期に存在していました。1866年と言えば丁度明治維新の前の年です。
 動物愛護団体の登場の背景には様々な要因があります。産業革命以後の近代工業の進歩もそれに含まれる要因です。
人々が自然から離れていくにつれて、動物との関係へのノスタルジアが発達していったのです。
また、中産階級が経済的に余裕が出来たことにより、ペットを飼うことが以前よりも一般的になったことも理由の一つです。これは日本の経済高度成長とともにペットが広く普及してきた事情と同じです。

アメリカで動物愛護運動が始まった頃、人間の動物に対する虐待(cruelty)が酷いと運動家たちは考えました。彼らは全ての形の虐待に対して様々な反対運動を展開していったのです。馬の酷使などのその一例です。
アメリカの動物愛護には「動物の権利運動」だけでなく「動物の福祉運動」も含まれているのが特徴です。
それは19世紀の馬の酷使からの解放から最近のシーワールドでの見世物のシャチの解放までの複雑な長い歴史があるのです。

その上イギリスのインド領有に伴って、欧米でもインドの菜食主義の考えが紹介されます。ベジタリアンに対する興味が広がったのです。
ヨーロッパにも菜食主義者は居ますが、特に最近、菜食実践者の人口増加が著しいのが、アメリカ合衆国です。
最近のアメリカではベジタリアンをビーガンと言うそうです。このビーガンという呼び方はビヨンド・ミート(Beyond Meat)に由来する略語なのです。

そのアメリカのビーガン(ベジタリアン)ですが、2009年の時点でビーガンを実践している人は、アメリカ全土でたった1%程度しかいませんでした。
それが2013年の時点では2.5%に、2017年には6%まで増加し、人数にすると2,000万人近くのビーガン人口がいると推定されています。
特に若年層での増加が顕著なのです。
ビーガン(ベジタリアン)は特に若い世代に多く、アメリカでは菜食実践者の約半数が35歳未満です。
アメリカに行くとレストランには必ずベジタリアン・メニューが完備してあります。

さて一方、中国、朝鮮や日本の食文化と佛教の不殺生戒の歴史を考えてみましょう、
以下は、http://kumamoto.lin.gr.jp/shokuniku/eiyochisiki/bukkyo/index.html らの抜粋です。
日本人の食文化史には、外国にない特徴があります。それは、おそらく仏教の肉食禁止令が何回も出されていることです。
 仏教はインドで生まれ、シルクロードを通って中国に入り、更に朝鮮半島を経由して日本に渡ってきました。
そして肉食禁止の思想が根付いたのは、極東の地日本ででした。
中国では、仏僧以外には、肉食禁止は定着しませんでした。
朝鮮半島の歴史では仏教の伝来した四世紀から五世紀にかけては肉食は自由でした。しかし 六世紀から肉食禁止が始まりました。高句麗、百済は早くから、そして最後に新羅が殺生禁止を唱えました。統一新羅の時代には殺生厳禁、魚を食べることすら禁止しました。

わが国でも、奈良時代にはかなり、動物性の食品は摂られています。しかし、平安時代の末期には、肉食禁止令が徹底します。
鎌倉仏教で一段と肉食禁止が厳しくなり、牛乳という用語が一部の文献から姿を消えます。
しかし大衆の間ではひそかに肉食は続けられていました。鳥は禁止されていなかったので、ウサギも一羽二羽と数え、みなし鳥としてひそかに食していました。しかし、国民全体の栄養状態に影響するほどの量ではなく、わが国は菜食主義の国だったと言えます。

私はアメリカの動物愛護運動と日本の殺生禁止と同じ部分と違う部分があるような気がします。
何処が共通でどういう内容が違うのかは明快に書けません。
皆様のお考えをコメントとして投稿して頂けたら嬉しく存じます。

お寺の住職だった祖父と叔父は殆ど肉を食べない菜食でした。叔父は夏に、蚊が腕に止まるのを扇子でソッと追い払い殺しませんでした。そんなことを思い出しながら今日の記事を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

西東京市の東伏見稲荷神社の神様は?

2019年04月12日 | 日記・エッセイ・コラム
西東京市とは以前の田無市と保谷市が合併して出来た新しい市です。
そこに京都の伏見稲荷の分社として東京には東伏見稲荷神社があります。昨日その写真を撮ってきたのでご覧下さい。





写真でご覧のように東伏見稲荷神社はなかなか立派な神社です。
さてこの神社に祀られている神様は何方でしょうか?
結論を先に書けば宇迦之御魂大神 (うかのみたまのおおかみ)、佐田彦大神 (さたひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)、田中大神(たなかのおおかみ)、四大神 (しのおおかみ)などです。
如何でしょうか?あまりにも神様の名前が多いので頭が痛くなりませんか?
しかし多くの神々を神道の神と総称してしまえば簡単です。

それでは稲荷信仰と稲荷神社のついてご説明いたします。
日本には稲荷神社というものが実に数多くあります。赤い鳥居とその下に2匹のキツネが座っているのがお稲荷さんの特徴なのですぐに分かります。
お稲荷様の神様が祀ってあって、キツネはその神の使いです。お稲荷さんの一部にはキツネ自身が神として祀られているところもあります。
人々はキツネを神の使いとして信仰し、キツネに油揚げを供えたりします。
このような信仰は日本独特なもので朝鮮半島や中国大陸やシベリアには皆無です。

さて日本の三大稲荷として有名な愛知県の豊川稲荷のことまず説明いたします。
豊川稲荷は曹洞宗の妙厳寺を囲んでいて、妙厳寺を守るために作られた神社なのです。ところが豊川稲荷の方が妙厳寺よりも有名になってしまい人々はお寺の本堂を拝まないで裏にある豊川稲荷神社の方へい急いで歩いて行きます。
三大稲荷とはこの豊川稲荷と京都の伏見稲荷神社と九州にある祐徳稲荷神社のことです。
そして全国の稲荷神社は仏教系と神道系の2つに大別できます。

仏教系とは豊川稲荷の系統を汲むお稲荷さんです。祀ってある神が仏教系(ヒンズ-教)の神様なのです。
豊川稲荷の場合の神様は吒枳尼天(だきにてん)と言うインドの古代民間信仰に由来する仏教の女神です。
この吒枳尼天(だきにてん)は日本に入って来ると稲荷信仰と習合し、稲荷神と同一視されるようになったのです。妙厳寺では「吒枳尼真天」(だきにしんてん)と呼んでいます。
ですから豊川稲荷では手を打つ代わりに曹洞宗の陀羅尼経の一部を唱えます。その部分は本殿の両脇の柱に大きな金文字で書かれています。

さて一方神道系のお稲荷さんの祀り神を祐徳神社の場合に示すと以下のようになります。
倉稲魂大神、大宮売大神、猿田彦大神、 神令使命婦大神、 萬媛命 。

同じ神道系の京都の伏見神社では次のようになります。
宇迦之御魂大神 、佐田彦大神 、大宮能売大神、田中大神、四大神 。

要するに神道の神を祀ってあるお稲荷さんが神道系のお稲荷さんで、仏教の神が祀ってあれば仏教系のお稲荷さんと言えます。

ついでに豊川稲荷の神仏混淆ぶりを示します。
豊川稲荷ではお寺の鐘楼があります。それがお稲荷さんと仲良く同じ境内にあるのです。
そしておキツネさんへ対する信仰も同居しているのです。
曹洞宗の妙厳寺の裏にはキツネ塚があります。数百のキツネが並んだ光景は異様です。

昨日行って写真を撮って来た西東京市の東伏見稲荷神社は京都の分社です。ですから当然神道系の純粋な神社です。純粋とは仏教との混淆が無いという意味です。

日本の人々は神社に祀ってある神にはあまり頓着しせん。文字通り八百万の神が祀ってあるということで安心して拝んでいるのです。
この文化では宗教戦争は起きません。日本人はおおらかで広い心を持っている民族なのです。
これが神道の良いところです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

諸葛孔明が種を播いたショカツサイの花

2019年04月12日 | 日記・エッセイ・コラム
現在から1800年も前の中国の後漢末期から三国時代にかけての時代です。
この時代に活躍した諸葛孔明があちこちに種を播いて育てたという伝承がある花大根のことをショカツサイと言います。
小金井の都立武蔵野公園の一角に毎年、ロマンチックは青紫色の花を咲かせています。
昨日その写真を撮って来たのでお送りします。









ショカツサイの原産地は中国です。中国では普通に見られ、日本では江戸時代に輸入されて栽培されたものが野生化し現在は日本の全土に広がっています。
ちょっとした草原に自生し青い花を咲かせている風景が天然の花のようです。私の大好きな花の一種です。
好きな理由はもう一つあり、この花は諸葛孔明が1800年も前に育てたからです。
この花を見ると諸葛孔明が賢い丞相として活躍した三国時代が想像出来るのです。
三国時代とは後漢の末期に興った魏・呉・蜀の三国が覇権を争った時代です。中国の戦国時代とも言います。
諸葛孔明は蜀国の丞相で劉備の忠臣でした。
早く父を失い,叔父に従って湖北省襄陽に割拠していた荆州長官の劉表のもとに寄寓し,晴耕雨読の生活を送っていました。
蜀の劉備は,諸葛孔明の賢い評判を聞き,207年(建安12)に孔明の庵を訪れ,3度目の会見でやっと諸葛孔明は蜀の丞相となることを受け入れたのです。これを三顧の礼と言って日本でも慣用句として現在も使われいます。
さて 諸葛孔明の宰相としての活躍は「三国志」という歴史書に正確に書いてあります。
「三国志」(歴史書)は200年代の終わり頃書かれたので正確な記録であると言われています。
一方「三国志演義」は明の時代に完成した娯楽小説です。「三国志」(歴史書)には無い面白い話が数多く混じっています。
日本ではこの「三国志演義」のほうが広く読まれています。
非常に長い娯楽小説なのでストーリを一言で書くことは難しいのです。
しかし簡単に言えば劉備と関羽と張飛という心正しい3人の豪傑が桃畑で義兄弟の誓いを結び活躍する話です。これが桃園の誓いと言われています。
この3人の他にもいろいろな豪傑が登場しますがその中で蜀の宰相の諸葛孔明が重要な役割をします。そして最後に「死せる孔明、生きる仲達を走らせる」という句を残すのです。
「三国志演義」の荒筋は、https://three-kingdoms.net/2809 をご覧下さい。
また「三国志」(歴史書)と「三国志演義」の関係は、https://ja.wikipedia.org/wiki/三国志 をご覧下さい。
また土井晩翠の詩、「星落秋風五丈原」という諸葛孔明の病を悲しむ詩もあります。
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%C5ڰ%E6%C8տ%E9%A1%D6%C0%B1%CD%EE%BD%A9%C9%F7%B8޾渶%A1%D7 をご覧下さい。

昨日ショカツサイの花の写真を撮りながらいろいろ思い出したことを調べ直して書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

新元号、令和にまつわる私の悲しみ

2019年04月10日 | 日記・エッセイ・コラム
今日の花の写真は三鷹市の花と緑の広場のポピ-畑の風景です。昨年の4月に撮った写真です。色の違う花々の種を播く場所を考えて播いた人の心を想像すると楽しくなります。
お楽しみ頂けたら嬉しいです。









さて今日私が書きたいことは日本人がオリジナリティを尊重しないことが悲しいということです。
令和の原典が中国で530年頃に出来た「文選」なのに、日本の万葉集だと発表した安倍政権と日本のマスコミのオリジナリティ無視の態度が日本文化の軽薄さを表しているようで悲しいのです。
私は静かに悲しむだけですがネット社会では怒っている人もいます。
また「文選」の令と万葉集の令の意味が少し違うからやはり出典は万葉集で良いと抗弁する人もいるのです。

これは日本の工業界が外国の製造技術を模倣し少しだけ変えて特許料を払わない手法と同じです。
国際的な特許に関する法律に違反はしていませんが「汚いやり方」なのです。
だから私は悲しいのです。

もう少し分かり易く書きます。
「文選」の中にある『歸田賦』は張衡によって後漢の順帝永和三年(紀元138年)に作られ漢詩です。
その冒頭を示します。

仲春令月,時和氣清・・・以下略。

一方、万葉集の「令和」の文字を引いたのは、万葉集巻五の梅花の歌の「序」と発表されています。この梅花の歌は32首あり、大伴旅人を中心とするグループが詠んだものです。漢字の音だけをあてて表記された「歌」と違い「序」は漢字を使った漢文体でした。その冒頭に次ぐ部分です。

初春令月 氣淑風和・・・以下略。

初春の良き月にして 氣良く風やわらぎ・・・以下略。

もう説明は不要でしょう。誰が見ても令和の出典は「文選」の中にある『歸田賦』なのです。

そして令和のオリジナルな提案者は中西進ではないかと今日の読売新聞に礒田道史が書いています。
中西進本人は発表しないことになっていますと言うだけです。
これこそ日本人がオリジナリティや独創性を無視することを明快に表してるのです。

日本人の科学部門のノーベル賞の受賞者は大部分欧米の大学で研究しているのも日本社会がオリジナリティや独創性を無視することに起因しているのです。
個人の独創性を無視することは個人を尊重しないことと同じです。
私は個人を尊重しない日本文化が悲しいいのです。

しかしその一方で新元号が令和と決まって嬉しく思います。
そして新しい令和の時代も平和で幸多い時代になるように祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

日本の天皇制が永遠に続く2つの理由

2019年04月09日 | 日記・エッセイ・コラム
それにしてもデジタル・カメラは実に便利な写真機です。昔のカメラではフィルムを写真機に入れ、慎重にシャッタースピードと絞りを決めて、それから小さなフィンダーを覗いて焦点を合わせて撮影したものです。
ところがデジカメでは全てを自動でしてくれます。メモリーチップを入れると200枚以上も続けて撮れるのです。
先週も鎌倉の円覚寺で300枚以上の写真を撮って来ました。その写真を今朝もまた見ていましたら、円覚寺の新緑のすがすがしい美しさに感動してしまいました。
先週はお寺の建物ばかりいを眺めていたので周囲の新緑の美しさに気がつかなかったのです。
そこでその新緑の美しさが写っている写真をお送りします。
じっと見ていると若葉の香りがにおって来るような気がします。









さて今日は「日本の天皇制が永遠に続く2つの理由」について書いてみたいと思います。去年から考えて来た内容です。
結論をはじめに書きす。次の2つの理由で日本の天皇制は永遠に続くと考えられるのです。
(1)天皇は国民を愛し、国民も天皇を愛しています。この愛は永遠です。
(2)権力者は天皇の権威を利用して権力を増大します。この政治家の天皇制利用は永遠です。

すこし悦明いたします。
皆様は天皇や皇后の国民への愛を強く感じたことはあるでしょうか?
私が感じた2つの場合を例として示します。
1)東日本大震災などの天災の被害者を見舞いに行った天皇と美智子さまが膝をついて被害者に話しかけている場面です。特にその折の美智子さまの表情が愛に満ちているのです。美智子さまの優しさが感じられます。
2) 南の島々へ戦死者の慰霊碑を訪ね拝む天皇の表情は深い悲しみに満ちています。悲しい感謝の気持ちが感じられるのです。沖縄に何度も行って戦没者の慰霊をして来たのです。
天皇の大きな愛が感じられます。

ついでに書きます。昔の昭和天皇の愛を感じたのは敗戦直後の天皇の全国巡行の時でした。私が生まれ育った仙台にもおいでになりました。小旗を振ってお迎えしました。
昭和天皇がマッカーサーを訪問して「自分はどうなっても構わぬ」とおっしゃったのです。
自分は戦犯として処刑されても国民の食糧難を救ってくれという意味を言外に意味していたのです。
マッカーサーは感動して日本の天皇制を廃絶しなかったのです。

このように天皇、皇后と国民の間は愛の絆で結びつけられているのです。この絆は永遠です。

(2)権力者は天皇の権威を利用して権力を増大します。この政治家や官僚の天皇制利用は永遠です。
 これは天皇制が出来た飛鳥時代から連綿として続いてきたことですから詳細な説明は不要です。
2つだけ実例を上げます。
1)明治維新の時、薩長土肥は天皇の錦の御旗で江戸幕府軍を駆逐したのです。
日本で反乱を成功させるためには天皇の命令で反乱を進めることが必要なのです。
昭和11年に起きた2・26事件では反乱を起こした青年将校達は天皇が支持してくれると信じて行動を起こしたのです。それは大間違いでした。昭和天皇が怒ってしまわれたのです。青年将校達は逮捕され軍事裁判で死刑判決を受けたのは皆様ご存知の通りです。

2)現在の安倍総理はじめすべての大臣は天皇陛下の依頼で政治家と仕事をしています。これを昔は勅任と言いました。安倍総理も大臣たちも皇居に参上して勅任式のような任命式に参列し、天皇から職務を依頼されます。
以前は国家公務員の上級職は勅任官でした。すなわちお役人は天皇陛下の部下という形なのです。
これで安倍総理も大臣たちも官僚も権威が増大し国民を従わせやすくするのです。

この天皇の権威を利用して自分の権力を増大することは政治家や官僚にとっては甘い誘惑です。
誘惑に弱いのは人間の本性です。
ですから政治家や官僚の天皇制利用は永遠なのです。

それにしても天皇、皇后と国民の間の愛は格調の高い美しい日本の文化です。
しかし政治家や官僚の天皇制利用は俗悪な恥べき日本の文化です。
前者だけが見える人は天皇制よ永遠なれと願います。後者だけが見える人は天皇制を廃絶しろと言います。
私は俗悪なことには目をつぶり見ないようにしています。
ですから今日の記事の題が、「日本の天皇制が永遠に続く2つの理由」となっているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

高齢者は風景写真は見るが文章は読まない

2019年04月08日 | 日記・エッセイ・コラム
趣味はいろいろ楽しみましたが高齢になり体力の無くなった現在は風景写真を撮ることと文章を書くことだけになってしまいました。そうしてネット上のこの欄に掲載しています。
すると日本人はもとより外国の方々からもコメントを頂きます。私の写真と文章を通して多くの人々と交流が出来るのです。それが楽しいのです。
ところでコメントを下さる方は圧倒的に高齢者のようです。
そのコメントの内容や反応を見ると高齢者は風景写真は好きですが下手な文章は読まないようです。
私自身も晩期高齢者なので他の方々の風景写真は見て楽しみますが文章は読まない傾向があります。
そのことは充分理解していますが文章を書くのも私の趣味です。ですから風景写真と駄文を組み合わせてこの欄に掲載しています。
どちらを見るかは読者の方々の自由です。あれこれ考えて撮った写真ですのでご覧頂けると嬉しいのです。
文章のほうは自分の興味で少し調べたことを簡略に書いたものです。
そんな訳で今日もまず山と海と新緑の風景写真を3枚示します。

1番目の写真は先週鎌倉へ行ったとき撮った青い海の写真です。よく見ると沖に釣り船のような船が写っています。風景写真には単に自然だけでなく人間のいとなみを少し加えて撮るようにしています。自然の美しさがより強く感じるようにしたつもりです。

2番目の写真は山梨県の甲斐駒岳を釜無川にかかっている橋の手前から撮った写真です。左の山並みは鳳凰三山へ続く山稜です。自動車道路を手前に入れ山の雄大さを示そうという意図です。

3番目の写真は鎌倉の八幡さまの裏山の新緑を撮った写真です。手前に大鳥居の半分を入れその赤色と新緑の浅い緑のコントラストを撮ったつもりです。
今日の風景写真はこの3枚だけです。

以下には先週訪れた円覚寺と臨済宗について数日調べたことをご紹介したいと思います。
円覚寺は鎌倉幕府8代執権の北条時宗によって弘安5年(1282年)に建てられました。
初代の住職は中国人の和尚、無学祖元でした。

4番目の写真は私が好きな坐禅堂です。元禄12年(1699年)建立で茅葺き屋根の建物です。仏殿が再建されるまでは、この堂が仏殿を兼ねていたそうです。

5番目の写真は非公開の国宝の舎利殿です。この写真は自分で撮ったものではなくネット情報からお借りしたものです。
神奈川県唯一の国宝建造物です。室町時代中期の建築と推定されています。禅宗様建築を代表するものとして評価は高いそうです。

さて臨済宗ですがこの宗派を少し調べるといわゆる「鎌倉仏教」が理解出来ると思い調べました。
臨済宗は、中国の禅宗五家の1つで、日本仏教においては臨済宗や曹洞宗などの禅宗の1つで代表的な鎌倉仏教の1つです。
この臨済宗は、宋時代の中国に渡り学んだ栄西(1141年 - 1215年)らによって日本に伝えられ、様々な流派が成立したのです。
ぞの宗派の数は実に多くその一部を示すと以下のようになります。
建仁寺派、東福寺派、建長寺派、円覚寺派、南禅寺派、国泰寺派、大徳寺派、向嶽寺派、妙心寺派、天龍寺派、永源寺派、方広寺派、相国寺派、佛通寺派、興聖寺派など。
そして歴史書には次のようなことが書いてあります。
・・・同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、鎌倉幕府、室町幕府という時の武家政権との結び付きが強かったの臨済宗です。
そして京都五山、鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められているのです。・・・
私は歴史書を読む時には何時も疑問を持って読むことにしています。
そこで隣町の小平市にある臨済宗の円覚寺派のお寺の小川寺と平安院に行きました。

6番目の写真は小川寺(しょうせんじ)の山門です。臨済宗円覚寺派の寺院です。 この寺は、名主の小川九郎兵衛が江戸時代の暦2年(1656年)頃に小川村の農民のために建てました。

7番目の写真は臨済宗円覚寺派の平安院の山門です。先週撮りました。この寺は小川寺6世の住職の省宗碩要禅師により作られました。江戸時代の元文4年(1739)の創建で、これも小川村の農民を檀家にした農村のお寺でした。
この小川寺と平安院のありかたを見ると、臨済宗は確かに鎌倉幕府時の武家政権との結び付きが強かったのが特徴でしたがその後は曹洞宗と同じように農民のための宗派になったことが明白に理解出来ます。
このように歴史書の記述をより正確に理解するために地方史を現地に行って調べるのも私の趣味なのです。
話がくどくなりましたので止めます。
皆様がお付き合いなさっているお寺の宗派とその歴史を調べると面白いと思います。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日のカトリック小金井教会のミサの風景です

2019年04月07日 | 写真
良い季節になりました。教会の外には海棠の花や遅咲きの枝垂れ桜が満開になっていました。
そんな花の写真とミサの写真をお送りします。









なお今日の新約聖書の朗読はヨハネによる福音、8・1~11でした。
興味深い内容なので以下に示しておきます。

第8章 の冒頭の部分です。
イエスはオリブ山に行かれた。 朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。

すると、(イエスを憎んでいる)律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。

彼らがそう言ったのは、イエスをためして、(ローマ総督へ)訴える口実を得るためであった。
(ローマの支配下のユダヤではローマ総督以外罪人を死刑にしてはいけなかったのです)

しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。

彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。

そこでイエスは身を起して女に言われた、
「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
女は言った、「主よ、だれもございません」。
イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
・・・・・・・・
新約聖書の文章は誰でも分かるように書いてあります。その上描写が具体的なのです。
気楽に読めます。まだ読んでいない方は一度通読されるのも良いと存じます。



鎌倉、円覚寺の新緑、櫻花、石楠花の写真をお楽しみ下さい

2019年04月07日 | 日記・エッセイ・コラム
先週訪れた円覚寺は鎌倉の山の中です。まだ寒いらしくて桜が鮮やかに咲き誇っていました。桜の花が新緑と競うように咲いている光景はすがすがしいものです。
樹陰にはもう石楠花が静かに咲いています。
鎌倉、円覚寺の春の花々の写真をお楽しみください。









円覚寺は臨済宗円覚寺派の大本山で鎌倉五山第二位の大きなお寺です。
開基は鎌倉幕府8代執権の北条時宗で開山は中国から来てくれた無学祖元です。
寺は弘安4年(1281年)から建立が始められ、翌弘安5年(1282年)に無学祖元を開山(初代住持)に迎えて開堂供養が行われました。
当時、鎌倉には中国から来た僧侶が数人いたのです。

無学祖元(1226年 - 1286年)は浙江省寧波市に生まれ鎌倉建長寺で亡くなりました。
1279年に日本の鎌倉幕府執権の北条時宗の招きに応じて来日したのです。
彼は日本に帰化して無学派(仏光派)の祖となったのです。
建長寺と円覚寺の住職を兼任し、日本の臨済宗に影響を与えました。その指導法は懇切で多くの鎌倉武士の参禅を得たそうです。
そして臨済宗は1168年に日本から中国に留学した栄西によって導入されたのです。
このように日本の佛教は中国から学んだものが多かったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


木々は光を浴びて新緑の美しい季節

2019年04月06日 | 日記・エッセイ・コラム
木々は光を浴びて新緑の美しい季節になりました。
その写真を撮ろうと思い埼玉県の所沢の農村地帯に行きました。そこは広い畑の北側に雑木林が北風を防ぐように植えてあります。クヌギやコナラやカシやエゴノキやシデやヤナギ、そしてケヤキなどが自然林のように混在しているのです。
私はその雑木林が好きで春夏秋冬のすべての季節に訪れます。何十年もその風景は変わりませんが樹々が次第に大きくなって来ました。
昨日訪れたら新緑が春の陽を浴びて輝いていました。そんな写真をお送りします。









陽を浴びて輝く雑木林を見ると森 有正が1972年に出した「木々は光を浴びて」という随筆を思い出します。
題目につられて1975年に購入して何度も読み返しています。しかし森 有正はこの随筆集に哲学的思索の結果を書いているのです。分かる部分もありますが理解出来ない部分もある難解な本です。

陽を浴びて輝く雑木林を見るともう一つの本を思い出します。辻邦生が1976年に筑摩書房から出した「秋の朝 光のなかで」という短編小説です。これは一行一行全て分かります。短い詩的な美しい小説です。
霧の美しい朝、港の喫茶店でコーヒーを飲んでいる私の前に逃げてきた男が現れるのです。この男との会話を短い小説にしたのが「秋の朝 光のなかで」です。
「秋の朝・・・」と季節は合いませんが以下にその荒筋をお送りします。

・・・ぼくは画家を目指していたが、今は港で荷揚げ作業をしている。
霧の深い朝ぼくは港の傍にある店の前のテーブルで熱いミルクとトーストを摂っていた。
霧の中から灰色の服を着た中年の男が現れ、ぼくに「煙草、ありますか?」と問いかける。
ぼくはミルクとトーストもすすめた。
優しい眼をしたその男は「私は運がありません」そして「走ることが嫌いです」と話し出します。
霧が晴れはじめ、空がばら色になり赤赤と朝日が照らし港は美しい風景になります。

男は「綺麗ですね、霧が朝日に染まるのは」と言いながら「私は、やっと幸運にめぐまれました」と独り言のように話すのです。
「空にむかって地面が開いているのが好きです。」・・・「囲いはいやですね。壁は罪悪の象徴です」・・・「外の地面には緑の木、緑の草がありますね」。

ぼくは朝の光が僕らの坐っているところまで届いているのを見た。「お逃げなさい。あなたは囲いのなかに戻っちゃいけませんよ」。
「いや。私は戻りませんとも。私ははね、この囲いのない地面で、もう十分なんですよ」
その時、警察自動車が三方から囲むように近づいて来ます。
「ミルクとトースト、すばらしくおいしかったですよ。隠れるのはもういやなんです」
・・・「私は永遠を信じています。私は朝の光のなかで永遠を味わったんです」
囚人服の男は港にむけて走りつづけた。生涯でただ一度の疾走を彼は試みていた。永遠に囲いのない国へーー

「停まれ」「停まらぬと撃つぞ」ぼくはもう何も見られなかった。
「神さま、おゆるし下さい」ぼくはつぶやいた。
港のほうでは工場のサイレンがながながと尾をひいて鳴り渡っていた。
逃げた男はピストルで撃たれて不運な生涯を終えたでしょうか。それとも弾が外れて又監獄に戻ったのでしょうか。海へ逃れたのでしょうか。それは読者の想像に任せています。
木々が光を浴びて新緑の美しい雑木林の風景を見ながら辻邦生の「秋の朝 光のなかで」を思い出していました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)