後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

碧く輝く春の海を見ながら精神の老化を想う

2019年04月05日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日ひさしぶりに広い海を見ました。春の陽に輝いていました。
海岸近くに住んでいる方々にとっては珍しくない風景でしょう。
しかし内陸に住んでいる人々にとっては海は憧れです。「海は広いな、大きいな、、」という童謡を思い出して、瞼に碧く輝く海の風景を浮かべています。
昨日撮った春の陽に輝く鎌倉の海の風景写真をお送りいたします。









広い海の風景を眺めながら考えました。老人になると体が固くなります。同様に精神も柔軟性を失って固くなります。
体が固くなる老化現象は容易に自覚出来ます。山に登れなくなる。キャビン付きのヨットのメイン・セイルが上げられなくなる。身体機能が弱くなるのは明々白々です。
しかし精神の老化には気がつきません。
よく「体は老化したが。精神は老化していない!」という事を聞きます。多くの高齢者がよく言う台詞です。
若者は礼儀正しいので「そうですね」などと賛成してくれます。
しかし「精神は老化していない」は真っ赤な嘘です。
若い頃は精神が柔軟なので時代の変化に合わせて考え方を変えられるのです。
高齢者になるとこれが出来なくなり精神が時代遅れになるのです。
このように抽象的に書くと分かり難いので具体的に書きます。

(1)テレビによくある「グルメ番組」が楽しめないのが精神の老化なのです。
食材を上手に料理して美味しく食べることは重要な人間の文化なのです。人生を豊かにする文化なのです。
高齢者の多くは食糧難の経験があります。ですから十分な食べ物があればそれ以上望んではいけないと考えています。牢固と考えています。高級そうなレストランなどで「ウ~ン 美味しい!」と言っているのを軽蔑します。ラーメンや焼鳥に色々とこだわるのを嫌と感じます。
要するに「グルメ番組」を苦々しく思うのです。これこそ精神の老化の一つの実例です。

(2)さきの戦争の悲惨さをクドクドと話すのは精神の老化なのです。
さきの戦争はもう70年以上の前のことです。70歳以下の日本人にとっては生まれる以前の出来事です。
生れる前のことは遠い昔のことです。人間は無関心になりがちなのです。現在の若者は先の大戦のことは体験的には知りません。
日本がアメリカと戦ったことを知らない若者がいても驚いてはいけません。
さきの戦争の悲惨さをクドクドと話すと若者が嫌がります。そんな時代だと柔軟に受け入れるのが精神の柔軟性なのです。

(3)人間は25歳前後に結婚し、一生同じ会社で働くのが良いと考えるのは精神の老化なのです。
結婚するもしないのも個人の自由です。50歳位で結婚する人も増えました。他人がとやかく言うべきではないのです。
それから一生同じ会社で働くのが良いと考えるのは時代遅れも甚だしいのです。この考えは戦後からバブル経済の崩壊した1990年頃まで多くの日本人の考え方だったのです。
現在は転職の時代なのです。転職は悪くなくむしろ良いことだと考える人が多くなったのです。
早く結婚し一生同じ会社という考えは精神の老化なのです。

(4)職業に貴賎があり、人間は生まれによって運命が別れると考えるのは精神の老化なのです。
現在の若者は職業は平等に社会に貢献するので貴賎などある筈が無いと考えています。
職業に貴賎があるとは言語道断な老人の精神の老化現象なのです。
人間は生まれによって運命が別れるという考えは江戸時代までの封建社会の考えなのです。
これは議論の余地の無い精神の老化なのです。

(5)家庭の中で男尊女卑の考えがあったとしたらそれは精神の老化なのです。
この考えはバブル経済の崩壊した頃まで多くの日本人の心に残影としてあったのです。
当時のコマーシャルで「私作る人、僕食べる人」という言葉がありました。女は料理を作り、男は食べるだけで良いという意味です。これは昔の「男子厨房に入らず」という言葉を分かり易く言い換えたものです。
現在はこの考え方は全く消滅しました。何と言っても女性は子供を産めます。男は逆立ちしたってそれが出来ません。男尊女卑の考えは精神の老化現象なのです。

こういうことを書き続ければキリがありません。
昨日、鎌倉の広い海の風景を眺めながら考えたことをちょっと書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




「宗教は貧困問題にも戦争防止にも無力だ、しかし私が信じる理由」

2019年04月04日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は宗教に関する気楽な随筆を書いてみます。
宗教のことを取り上げると途端に宗教は貧困問題も解決できないし戦争も防止できないから存在価値が無いと言う方がいます。
その上、西洋人が南米を侵略し植民地にしたとき聖職者も軍隊と共同して原住民を無理やりキリスト教徒にしたからキリスト教は悪です。
西洋人が南米を侵略し植民地にし原住民を殺したのは間違いの無い歴史的事実です。
しかしそれでも私は宗教を信じています。
さて、ここで一般的な日本人は宗教にた対する2つの考え方を示します。
1、宗教は悪い結果をもたらすからこの世から放逐すべきだ。
2、注意して信じれば良い結果のほうが大になるから信じた方が良い。
注意して信じることとは以下のようなことです。
宗教は他人に強要してはいけません。宗教を理由に戦争をしてはいけません。
この二つを厳しく守っている限り、宗教を理解したり信じると数々の良い結果をもたらすのです。
私がカトリックになって体験的に感じている良いことです。列挙いたします。

(1)何と言っても嬉しいことは仏教の事が明快に理解出来るようになったことです。そして仏教を信じている日本人を誇りに思えるようになったことです。理由は簡単です。仏教もキリスト教もイスラム教もみな同じ宗教としての共通な考え方を持っているのです。
キリスト教を信じたおかげで玄奘三蔵法師や弘法大師に親近感を持ち、尊敬出来るようになったのです。嬉いことです。

(2)キリスト教国の欧米人の心の奥が判るようになりました。
欧米人は一見傲慢のように感じられる時があります。しかしキリスト教を知ると欧米人の心の裏も見えるようになります。すると同じ人間としての悩みや迷いを持っていることが分かります。その結果、彼らに親近感を持てるのです。
同じ様にしてフィリピンやブラジルやアルゼンチンなどの南米の国々に住んでいる人々に親近感を持てるのです。
そして仏教国のミャンマーやタイやベトナムの人々を友人のように感じるのです。親近感が持てるのです。そしてイスラム諸国の人々も敵に見えません。これは私自身を幸せにします。

(3)私共夫婦は50年ほど前に一緒に洗礼を受けました。毎週、日曜日には一緒にミサに行きます。これで夫婦喧嘩が少し減ります。
宗教が夫婦喧嘩の解消や予防にかなり役に立つのです。

(4)最後に一番重要なことを書きます。宗教を信じていると何時かは全世界が平和になると信じられるのです。そして永遠の命を得られると信じることが出来るのです。この希望のおかげで毎日が明るい気持で過ごせるのです。毎日が幸せになるのです。

ですから私は宗教は注意して信じれば良い結果のほうが大になるかと信じています。
宗教は貧困問題を解決出来ません。戦争も防止出来ません。しかし私は上の(1)~(4)ような理由で信じています。
しかし宗教を信じていない全ての人々も大切にし、尊敬もしています。それが宗教が良い結果をもたらすための絶対条件なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


今日の挿し絵代わりの写真は散りはじめた桜花と新緑のケヤキの写真です。こうして季節が新緑の候に変わっていくのです。









花々の写真を見ながら春の過ぎ行くを惜しむ

2019年04月03日 | 日記・エッセイ・コラム
東京の桜も峠を越して近郊の雑木林には浅緑の若葉が出はじめました。
如月に早咲きの梅の開花を喜んだのはつい昨日のように思います。
それからモクレンやコブシが咲き、春の日が足早に過ぎ去って行きました。
今朝はこの春に撮った花々の写真を見かえしながら過ぎ行く春を惜しみました。
そんな花々の写真をお送りいたします。

1番目の写真は今年はじめて見つけた珍しい黄梅という中国の花です。中国では春一番に咲く花なので「迎春花」(インチュンホア)と呼ばれ大切にされているそうです。

2番目の写真はユキヤナギです。ユキヤナギはあちこちに咲いていますがこれは如何にも咲き乱れるという風情です。国分寺市にある都立武蔵国分寺公園で撮りました。

3番目の写真は海棠の紅い花です。背景の緑の若葉とのコントラストが面白いと思い撮りました。

4番目の写真は小金井の金蔵院の枝垂れ桜です。曇り日だったので鮮明でありません。しかし金蔵院の枝垂れ桜は今年はじめて発見した桜です。山門に隠れて見えなかったのですが車を回して山門の内側に入れると見事な枝垂れ桜が一本あるのです。来年は晴天の日に撮ります。

5番目の写真はレンギョウです。レンギョウはあちこちの家の庭先に咲いていますが写真を撮ると家が背景に入ります。この写真のように桜を背景にしたものはすこし探し回って撮ることが出来ました。都立武蔵国分寺公園で撮りました。

さて昨日は令和という新しい元号の発表がありました。
そして間もなく終わる平成は平和な時代だったと新聞に出ています。
令和も平和な時代になるように皆が祈っています。
マスコミは日本が平和な良い国だと自讃しています。
日本全体がかつて大きな戦争があったことを忘れたようです。
しかし祈りというものは唯漫然と神に祈っては不十分な気がします。
かつての大きな戦争の犠牲者を思い起こし、その犠牲者と残された家族の悲しみに心を寄せることが大切だと思います。
そこで忘れてはいけないかつての戦争によるアジア、太平洋各国の犠牲者数を改めてお送りします。出典は、https://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-11-04/faq12_01.html です。

まず1963年の厚生省発表の日本人の議性者数を記します。
・・・1945年8月15日までの15年にわたる戦争は日本人の軍人軍属などの戦死230万人、民間人の国外での死亡30万人、国内での空襲等による死者50万人以上、合計310万人以上の犠牲をもたらしました。
  日本が起こした戦争は、アジア大陸と太平洋各国に2000万人以上の死者をふくむ惨害をもたらしました。
この数は、各国の政府公表あるいは公的発表にもとづくものです。
 中国1000万人以上。ただし中国国務院によると2000万人との報告もあるのです。
べトナム200万人、インドネシア400万人(サンフランシスコ講和会議での同国代表発言)、フィリピン111万1938人(対日賠償要求)、インド150万人(べンガル飢餓死者のみの推計、政府任命飢餓調査委員会)、ニュージーランド1万1625人(政府公表)、オーストラリア2万3365人(同)、そのほか泰緬(たいめん)鉄道建設に投入された労働者の各国死者7万4025人(英国調査)など。
ミャンマーやシンガポール、朝鮮などをのぞいても、これら諸国の公的発表の死者数だけでも1872万から2872万人を数えます。
さらに日本の支配のもとにおかれた朝鮮では、36万4186人が軍人・軍属として戦場にかりたてられ、死亡・行方不明者15万人(推定)、強制連行などによる死者・行方不明者をふくめ20万をこえる人びとが犠牲となりました。・・・

令和という新しい時代の始まりにあたり上記の無数の犠牲者と残された家族の悲しみに心を寄せることが大切だと思います。その上で平和を祈れば神様は必ずや祈りを聞き入れてくれます。平和の祈りは悲しみや苦しみがともなうものだと私は考えています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

新元号、令和を異常に騒ぐマスコミと安倍総理

2019年04月02日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、今日の日本のマスコミの新元号の騒ぎは異常です。安倍総理はわざわざ記者会見して新元号は自分の手柄と言わんばかりに解説してくれました。
この騒ぎを世界的な視点で考えると異常としか言えません。少し静かにして貰いたいのです。
新元号の令和の出典と意味だけ報道してくれれば充分なのです。
そして元号の由来は中国の紀元前2世紀の前漢の武帝がつけた「建元」にあると説明すれば良いのです。
元号はある期間、ベトナムや朝鮮の封建時代に使われた歴史がありますが、現在は日本だけに残ったものです。
その元号は日本の天皇制と結びつき国民に親しまれています。
それだけの報道だけで良いのです。

元号も大切ですが、暦年の勘定の仕方が国々によって異なることを知っておくことも非常に重要です。
イスラム教国ではイスラム歴がありキリスト教国には西暦というキリスト歴があり仏教国には仏歴が使われています。
日本では第二次大戦中には神武天皇歴が使わ皇紀2600年の大掛かりな祝典がありました。私もその歌を憶えています。
しかし日本は仏教国ですから仏歴を使うのが自然ではないでしょうか?
皆様はキリスト歴の西暦を使うことに違和感や反発を感じないでしょうか?

そこで今日はキリスト歴を一切使わないで仏歴だけを使っているタイの実情をご紹介したいと思います。
タイはチャクリー王朝の王国で熱心な仏教国です。
この王朝は西暦1782年(タイ仏暦2325年)に成立したのです。現在の王様は初代から数えて10代目のラーマ10世です。
この王国ではお釈迦様が入滅した翌年の西暦の紀元前543年を仏滅紀元元年としています。この仏歴を日常生活に使っているのです。
ちなみに私は1936年生まれですから、これに543年を加えた仏歴の2479年に生まれたことになります。
現在のタイの人々はこの仏歴が身についていて西洋の西暦へ換算するのが難しい人々が多いそうです。
タイにおいては、男子はすべて出家するのが社会的に望ましいと考えられているのです。
出家の目的はお釈迦さまの教えを修行を通してより深く理解するためです。
出家の期間はいろいろですが、大体3ケ月くらいと言われています。ですからタイの社会では出家は成人への通過儀礼と考えられます。
タイの仏教はお釈迦様の教えどうり忠実にその教えを守っているのです。
タイのお寺のご本尊様はお釈迦様なのです。
これがタイの実情です。従って仏歴を使うのが当然なのです。

最後にタイの首都、バンコックの住宅街での忘れられない体験を書かせて下さい。
それは1993年の頃でした。バンコックに数日滞在した時のことです。朝にホテルの窓から見ていると、幅広い河の向こうから沢山の通勤者が船でやって来るのです。
好奇心にかられて、その日の夕方私は舟に乗り河向うの住宅街に行ったのです。
そこは樹木に囲まれた家々が並んでいる住宅街だったのです。決して金持ちではなく、家には塀がありません。道から部屋の中まで見通せるのです。仏壇があって灯明の炎が揺れています。子供が庭で遊んでいて可愛い声が聞こえます。家の裏の方から夕食の準備の包丁の音が聞こえます。
何やら金木犀の花のような良い香りが風に乗ってきます。外国人の私がズカズカと歩き回っているのに全く警戒しないのです。全ての人を信頼しているのです。
嗚呼、なんと平和なのだろうと感動しました。仏教国だなあと感動したのです。

こんな体験があるのでタイが仏歴を使うことに敬意を感じています。西暦だけが暦年の勘定の方法でないことを知って心が豊かになります。
昨日、今日の日本のマスコミの新元号の騒ぎで思い出したことを書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


今日の挿し絵代わりの写真は順に、ポピーの花、スイセンの花、桃の花、パンジー、ストック、ビオラ等の花壇、そして花々の植え込みの5枚の写真です。










小金井の桜の歴史と川崎平右衛門ものがたり

2019年04月01日 | 日記・エッセイ・コラム
小金井桜は江戸時代の1737年(元文2年)、江戸幕府の下命で川崎平右衛門が植えたものが始まりです。
植えられた場所は小金井村の小金井橋を中心に玉川上水の両岸6㌔だったのです。山桜約2000本を植えたそうです。その後、山桜は何度も植え替えられ、現在はソメイヨシノに変わっています。
玉川上水に沿って現在は五日市街道という自動車道路があり、そこを車で走ると玉川上水の両岸に咲いている桜を車窓から楽しむことが出来ます。
しかしその場所は自動車の排気ガスでとてもゆっくり花見の宴など出来る場所ではありません。そこで上水の小金井橋の北側の都立小金井公園に桜を沢山植えて現在はそこを小金井桜の名所と言っています。
その写真を下の1番目と2番目に示します。私が撮った写真です。



さて幕命によって植えられたものなので、江戸幕府は江戸の武士や町人が桜見物に行くように奨励します。
当時の江戸の人は新宿から甲州街道や五日街道を一日歩いて小金井村の桜を見物しました。
そして帰りは小金井街道を南に歩き府中に出て甲州街道の府中宿に泊まった人も多かったようです。
府中宿には酒を出す料理屋や立派な旅籠が沢山あったのです。小金井村には桜はありましたが他には何も無かったのです。
府中に泊まると、翌日は多摩川を舟で下って江戸への入り口の六郷橋で下船します。そこから品川を通って江戸に帰ったのです。勿論、船に乗らずに府中から甲州街道を歩いて新宿に帰る人もいました。

このように小金井桜は江戸の人々の遊覧の名所になっていたので、現在の観光案内書のようなものも売られていました。
当然、浮世絵師も小金井桜の絵を描き、版元が盛んに売っていたそうです。

3番目の写真は広重の小金井橋夕照という浮世です。

4番目の写真も同じく広重の玉川上水と桜を描いた浮世絵です。
さて何故、江戸から20Kmも離れた小金井村に桜を植えたのでしょうか?
それはその頃、幕府の下命で、川崎平右衛門が小金井村から北西の武蔵野を広範に切り開いていたからです。
幕府は新田開発の善政を宣伝するために江戸の武士や町人を小金井村の桜見物に行くことを奨励したのです。

こうして小金井の桜は江戸時代から関東随一の桜の名所として知られるようになったのです。
嘉永年間には田無村名主・下田半兵衛によって大規模な補植が行われました。
そして明治16年(1883年) には明治天皇が訪れ、その記念樹である 「行幸松」が玉川上水沿いの海岸寺の山門前にあります。明治天皇の桜見物で小金井桜がまた一躍有名になりました。
そして桜の研究者として知られる三好学博士は小金井桜を調べ、36品種と亜種3品種による山桜やソメイヨシノの一大集植地として報告したのです。その結果「天然品種の植物群落」と評価され、大正13年(1924)に国の名勝に指定されたのです。

このように小金井桜の生みの親は川崎平右衛門です。
そこで彼の物語をもう少し詳しくご紹介したいと思います。
川崎平右衛門は現在の東京都府中市にあった押立村の名主の家の長男として、元禄7年(1694年)生まれ明和4年(1767年)に亡くなりました。川崎 定孝とも言います。
江戸時代の農村開発で活躍し、抜擢され江戸幕府の勘定吟味役となった人物です。
全国の各地で農村開発に大きな功績を残した二宮尊徳は全国的に有名で、小学校に銅像もあるので皆様もよくご存知のことと思います。
川崎平右衛門はそれほど有名ではありませんが、武蔵野地方で新田を広く開発し農村の繫栄をもたらした人物として関東ではよく知られた人物です。

5番目の写真は府中市郷土の森博物館公園にある平右衛門の銅像です。

彼が現在でも尊敬されている理由は、私財を投じて武蔵野新田の窮民の救済を行ったことです。
そして押立村を含む多摩川の40キロに渡る治水工事を幕命で担当し、凶作時の農民を救済します。さらに生活を安定させる井戸掘り公共事業を普及させたのです。
私財を投じて六所宮(大國魂神社)の随神門修理などを行い、幕府内でもその人格が尊敬されていたのです。
その結果、平右衛門は宝暦4年(1754年)に美濃国の代官となります。そこでも新田開発や治水に貢献しました。更に明和4年(1767年)に勘定吟味役に昇進し、石見国の銀山の奉行を兼役します。そして同年6月6日に逝去します。享年74。故郷の押立村にある龍光寺(竜光寺)に葬られました。

農村の実情を熟知した平右衛門の打ち出した政策は、農民たちに深く感謝されていました。
文化年中に武蔵野新田82ヵ村の農民が榎戸新田(国分寺市北町)に謝恩塔を建立し、美濃国にも彼の遺業を称える石碑(岐阜県本巣郡穂積町牛牧の興福寺)や神社(野田新田、川崎神社)が残されているのがその証です。
現在、花見客で賑わっている小金井公園の中にある「江戸東京たてもの園」では『川崎平右衛門展』が2017年2月7日から 2017年5月7日まで開催されました。この展示会を見ると、江戸時代の彼の農政や活動を詳細に記録した文書が実に多数展示してありました。

日本の歴史を振り返ると天皇や幕府の権力者のことが詳しく書いた本が多いのですが、川崎平右衛門のような農村振興に尽力した人の記録が無いのが残念です。地味な仕事に情熱を注ぎ一生を捧げた人のことを学校でもっと熱心に教えるべきではないでしょうか?
二宮尊徳の銅像を飾るだけでなく、「彼は何をした人物なのか?」を丁寧に教えるべきではないでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)