後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「甲州街道の八王子のイチョウ並木の今日の黄葉」

2019年11月20日 | 写真
先程、撮って来た八王子のイチョウ並木の黄葉の写真をお送りいたします。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。
実は私の友人の小林 邦夫さんがFace Bookへ11月16日に同じ イチョウ並木の黄葉の写真を掲載なさっています。
その記事は、「第40回記念八王子いちょう祭り」です。
その記事によると大正天皇陵「多摩御陵」造営を記念して、昭和2年~4年にかけて八王子市甲州街道追分町交差点から高尾駅北口前までの約4kmにわたり、約770本のイチョウを植えたそうです。
小林 邦夫さんは礼儀正しいジェントルマンです。昔おたがいに現役の頃に大変お世話になった方です。
そのような友人とFBを通して毎日交流の出来る幸運に感謝しています。
小林 邦夫さんは地元の「八王子いちょう祭り」の写真を毎年このFBに掲載なさっています。それを真似て私も掲載しています。
毎年、八王子のイチョウ並木の黄葉を見るたびに小林 邦夫さんを思い出して感謝しています。









1191年創建の古刹、大悲願時の写真

2019年11月18日 | 写真
東京の西の郊外のあきる野市には茅葺の屋根の広徳寺があります。臨済宗建長寺派のお寺で室町時代の応安六年(1373年)に鎌倉建長寺の心源希徹禅師に請うて創建された古刹です。境内が1万2千坪もあり大木に囲まれた静かな別世界です。
このお寺は「写真で見る奇蹟のように残った茅葺屋根の古刹」という題で2019年10月28日にご紹介しまさいた。
ところがこのあきる野市には平安時代の末期に計画され1191年に創建された真言宗豊山派の大悲願寺があるのです。
昨日の午後に車を駆って写真を撮って来ました。その写真をお送り致します。

1番目の写真は大悲願寺の楼門です。1613年慶長18年に建てられた後、1669年寛文9年に再建されました。
現在の建物は1859年安政6年に再々建されたものです。
両脇に仁王像が安置され幕末期の絵師藤原善信、森田五水により、見事な天井絵が描かれています。東京都指定文化財です。

2番目の写真は1794年寛政6年建立の観音堂です。阿弥陀如来三尊像が安置されています。国指定重要文化財です。
三尊像はいずれも木彫寄木造漆塗、平安末期の特徴をしめしています。

3番目の写真は観音堂の拡大写真です。華麗な作りになっています。観音堂軒下の見事な彫刻は、https://4travel.jp/travelogue/10535290 をご覧下さい。

4番目の写真は本堂です。本堂には木彫り座像の大日如来を祀っています。
建築年は1695年元禄8年8月です。
木造伝阿弥陀如来及び脇侍(千手観世音菩薩・勢至菩薩)座像は平安末期作で、国指定の重要文化財です。

5番目の写真は庫裏の前の紅葉です。
兎に角いろいろな歴史のあるお寺です。
例えば1623年元和9年には仙台藩主伊達正宗が秋川の鮎魚に来た時大悲願寺に立ち寄り、この時庭に咲き乱れていた白萩を譲ってほしいと後に書簡を送ってきました。これが芝居で有名な「千代萩」の元祖との言われています。この手紙は白萩文書といわれ現在お寺に保管されています。
故事来歴の話が多い寺ですので一度是非訪問することをお薦め致します。

ローマ法王フランシスコさまは日本へ何しに来る?

2019年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム
ローマ法王フランシスコさまは今週の23日、土曜日に日本に来ます。
カトリック信者は人口の0.3%で44万人しか居ない日本へ遠路はるばる来るのは何故でしょう?日本へ何しに来るのでしょうか?
日本は世界3位の経済大国だから来るのでしょうか?バチカン国の財政を豊かにするために来るのでしょうか?
こんな考えはまったく間違っています。
フランシスコさまが日本へ来る目的は長崎への巡礼のためなのです。そして数少ない日本のカトリック信者のためにミサをするために来るのです。
フランシスコ様はローマ法王であり同時にザビエルの創始したイエズス会の会員でもあるのです。
1549年にザビエルが初めて日本へキリスト教を伝承し、長崎や山口で熱心に布教活動をしたのです。
その上に長崎にはカトリック史で有名な隠れキリシタンの250年の歴史があるのです。
ですから長崎への巡礼を第一にするのです。
そしてザビエルやイエズス会の神父たちの活躍を偲びつつ一般信者の為のミサを長崎県営野球場で行うのです。
日本に来る最も重要なことは長崎への巡礼にあるのです。
それで23日の夕方東京に着いて翌日の日曜日の朝早く長崎へ飛んで来るのです。
長崎ではまず日本二十六聖人殉教者像へ巡礼します。
大浦教会の長崎大司教館で昼食後に一般信者の為のミサを行うのです。
その後広島へ飛んで夜に広島平和記念公園で平和のための集いに出席し夜遅く東京に帰ってきます。

11月25日(月曜日)には東京でまず東日本大震災被災者との集いに出て犠牲者の冥福を祈ります。
天皇に敬意を表するため皇居を訪問します。
11月26日(火)は上智大学の教会でイエズス会員とのプライベートなミサをします。
それが終わってからイエズス会員と共に朝食をします。
それから病気や高齢のカトリックの神父を訪問し慰問します。
そして上智大学を訪問し教皇の講話をします。
それが終わると午前11時35分の飛行機でローマへ帰ります。

このようにローマ法王フランシスコさまは日本の長崎の巡礼のために来るのです。
これは1981年のローマ法王、ヨハネ・パウロ2世の長崎巡礼と全く同じなのです。
そのような訳で今日の挿し絵代わりの写真は長崎県の五島列島の教会の写真です。2015年に私が撮った写真です。
写真は「遥かな五島列島への旅(6)総集編、イエス様と神の愛」(2015年04月19日掲載)から取りました。
遥かな五島列島への旅では驚くべきことを沢山見ました。人の近づけないような急峻な山に囲まれた小さな浜に建っている美しい天主堂。見にくい場所に隠れるように作られたキリシタン墓地。 狭い五島列島に50ケ所も存在しているカトリック教会。五島出身の26聖人の一人、ヨハネ五島の磔の像。そして擦り凹んだ踏絵の真鍮のマリア像。どれもこれも江戸幕府の過酷なキリシタン弾圧を耐え、信仰を守ろうとした証(あかし)です。

ついでに以下の記事もご参照下さい。
「遥かな五島列島への旅(5)美しい天主堂を沢山建てた鉄川与助の偉業」2015年04月17日掲載
「遥かな五島列島への旅(1)訪れた5つの天主堂の写真」2015年04月13日掲載

どうぞフランスコさまを暖かくお迎え下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)






晩秋の山の華やかな紅葉の写真をお楽しみ下さい

2019年11月17日 | 写真
先日、甲斐駒岳の麓の山林の中で遊びました。紅葉が華やかでもありますが晩秋の淋しさが漂っています。木陰は寒いくらいです。家内が紅葉の風景画を写生する気持ちになって写真を撮って来ました。
こんな鮮やかな色彩の交響楽は神さましか作れないと思います。
神さまは人間を愛し、このように美しいものを贈って下さるのです。
甲斐駒岳の麓の山林の中で遊びながら神さまの愛を感じ暖かい気持ちになります。
写真をお楽しみ頂だければ嬉しく思います。
















それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

山林の中の小屋と八ヶ岳への小さな旅

2019年11月15日 | 日記
昨日の朝8時30分に家を出て甲斐駒岳の山林の中の小屋と八ヶ岳への小さな旅に行ってきました。昨夜は小淵沢リゾートのいつものホテル、スパティオに泊まりました。
山林の中の小屋では久しぶりに薪ストーブを焚きました。
昼食の後は甲斐駒岳の麓の紅葉の写真を撮りました。
そしてその後で八ヶ岳の絵本美術館と井戸尻縄文考古館に行きました。
今日は朝から日本一美しい村、長野県の原村に行き秋たけなわの農村風景を撮って来ました。
今回は2日ともに晴天でもみじした野山も鮮明に撮れました。
取り合えず紅葉の風景写真だけをお送りします。お楽しみ頂けたら感謝いたします。

1番目の写真は甲斐駒岳の麓の私の小屋へ上がる道の傍の黄葉です。

2番目の写真は小屋の回りの紅葉した葉の写真です。

3番目の写真は甲斐駒岳の麓の小さい山の紅葉です。

4番目の写真は泊まったホテルの前の紅葉した楓です。

5番目の写真は日本一美しい村、長野県の原村へ登って行く道から見た八ヶ岳です。原村は八ヶ岳の西側の山麓に広がっている村です。

6番目の写真は原村の八ヶ岳自然園の写真です。

7番目の写真は原村の道から見た北アルプスの山稜です。原村からは東に八ヶ岳と西に北アルプスの山稜がパノラマのように見える風景絶佳の村なのです。

富士スバルラインの紅葉の写真

2019年11月15日 | 写真
お早うございます。
今日は忙しいので写真だけをお送りいたします。10月31日の富士山五合目までに上がった時の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


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金子みすずの童謡詩と240頭の鯨の戒名と過去帳

2019年11月14日 | 日記・エッセイ・コラム
金子みすずは山口県の長門市の仙崎に住んでいました。26歳という若さで自殺した悲しい生涯でした。
まず作品4編をお読みください。
   「大漁」
朝焼け小焼けだ大漁だ
オオバいわしの大漁だ
浜は祭りのようだけど
海の中では何万の
いわしの弔いするだろう

「星とタンポポ」
青いお空のそこ深く
海の小石のそのように
夜がくるまで沈んでる
昼のお星は目に見えぬ
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ
散ってすがれたタンポポの
川原のすきにだぁまって
春のくるまで隠れてる
強いその根は目に見えぬ
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ

 「不思議」

わたしは不思議でたまらない
黒い雲から降る雨が
銀に光っていることが
わたしは不思議でたまらない
青いクワの葉食べている
蚕が白くなることが
わたしは不思議でたまらない
たれもいじらぬ夕顔が
一人でパラリと開くのが
わたしは不思議でたまらない
たれに聞いても笑ってて
あたりまえだということが

 「みんなをすきに」

私は好きになりたいな
何でもかんでもみいんな
ねぎもトマトもお魚も
のこらず好きになりたいな
うちのおかずはみいんな
かあさまがお作りになったもの
私は好きになりたいな
だれでもかれでもみいんな
お医者さんでもカラスでも
残らず好きになりたいな
世界のものはみいんな
神様がお作りになったもの

その他の詩は:http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/misuzu-top.html にあります。

さて金子みすずの作品には生きている魚や鳥に対する慈しみと憐れみをうたった美しい作品が多いのです。そして上にある「星とタンポポ」のような透徹した自然観が詩になっています。読んでいて心地よい詩となっています。
作品には、小さく弱い生き物への憐みの心が美しい命の響きになっています。私は金子みすずの作品のようなものが西洋にはあまり無いと思います。
私は以前からこの詩人は仏教の生類憐みの気持ちを豊かに持っている仏教徒と感じていました。彼女は決して仏教を宣伝しないのですが、立派な信者だと思っていました。
しかしその事は今まで人には言いませんでした。
しかしある時、BS朝日の「金子みすずの故郷の風景」という番組を見てやっぱりそうだったのかと思ったのです。

彼女の住んでいた山口県の仙崎湾の港町は日本海に面していて、江戸時代から明治初年まで、毎年多くの抹香鯨が回遊して来ました。その鯨を毎年数十頭も捕って藩の財政を豊かにしていたのです。
その仙崎港にある向岸寺に「鯨の過去帳」があることをBS朝日の番組が報じていました。江戸時代末期に捕った鯨240頭の亡くなった日月と戒名が書いてある鯨の過去帳なのです。これには驚きました。鯨をお寺さんが供養しているのです。人間の生活を支えてくれたことに感謝しているのです。
このような文化の色濃くある仙崎港に住んでいた金子みすずが人間のために殺される生き物へ慈しみの心を持っても不思議ではありません。
そうです。仏教の心を無意識のうちに童謡詩にしていたのです。

同じ様に感じている方がいました。http://mandalaya.com/misuzu.html をご覧ください。
その方は高野山真言宗の阿闍梨の小林宗峰師です。(http://mandalaya.com/index.html )
小林宗峰師は金子みすずを「悟った人」と彼女の生を見抜いているのです。
私は嬉しくなりました。この世で一見、不幸そうだった彼女はお釈迦様の知恵を感じて生きていたのです。無意識に感じて心が満たされていたに違いありません。
それが仙崎港の伝統文化だったのでしょう。
ここで私は宮沢賢治の仏教を考えています。彼は意識的に仏教を信じ、他人へも信仰を勧めました。
賢治の作品やみすずの作品が我々の心に響くのは我々も仏教徒だからかもしれません。やはり日本は仏教国なのです。それは日本人の運命のようなものです。
私はカトリックですが仏教の影響を深く受けています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘

1番目の写真は仙崎湾の風景です。

2番目の写真は240頭の鯨の戒名と過去帳のある向岸寺です。

3番目の写真は向岸寺にある鯨の位牌です。
===参考資料================================
金子みすずの生涯:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E3%81%BF%E3%81%99%E3%82%9E
山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)出身。郡立大津高等女学校(現・山口県立大津緑洋高等学校)卒業。父・庄之助は、妻(みすゞの母)の妹の嫁ぎ先である下関の書店・上山文英堂の清国営口支店長だったが、1906年(明治39年)2月10日、みすゞが3歳のときに清国で不慮の死をとげる。劇団若草の創始者である上山雅輔(本名:上山正祐)は彼女の実弟であるが、幼くして母の妹(みすゞにとっては叔母)の嫁ぎ先である上山家に養子に出されている。叔母の死後、雅輔の養父・上山松蔵とみすゞの母が再婚したため、みすゞも下関に移り住む。同時に、みすゞと雅輔は実の姉弟でありつつ、義理の姉弟の関係となる。
1926年(大正15年)、叔父松蔵の経営する上山文英堂の番頭格の男性・宮本啓喜と結婚し、娘を1人もうける。しかし、夫は正祐との不仲から、次第に叔父に冷遇されるようになり、女性問題を原因に上山文英堂を追われることとなる。みすゞは夫に従ったものの、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、後ろめたさからかみすゞに詩の投稿、詩人仲間との文通を禁じた。さらにみすゞに淋病を感染させるなどした事から1933年(昭和5年)2月に正式な離婚が決まった(手続き上は成立していない)。みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一度は受け入れたが、すぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求。夫への抵抗心から同年3月10日、みすゞは、娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を遺し服毒自殺、26年の短い生涯を閉じた。

733年創建の深大寺の紅葉

2019年11月12日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日の午後に天台宗別格本山の深大寺の紅葉の写真を撮りに行きました。残念ながらまだ早過ぎて紅葉してません。昨日とった本堂と2012年11月29日に撮った紅葉の写真をお送りします。









門前蕎麦で有名な調布市の深大寺は東京都では浅草寺につぐ古いお寺で、733年に満功上人によって創建されました。武蔵国の国分寺は760年代始め頃に完成していますので、それより20年も古いお寺です。
このお寺には三つの重要なお堂があります。「深沙大王堂」と「元三大師堂」と阿弥陀如来が本尊の本堂です。
深大寺を創建した満功上人は玄奘三蔵法師の弟子がはじめた法相宗を学び、法師を深く尊敬していました。三蔵法師がインドへ旅した途中、西域の大河、流砂河を渡るときその河の砂の中に住む水神の深沙大王に助けられました。その経緯から満功上人はお寺の名前を深大寺として、650年には深沙大王の像を安置しました。現在は「深沙大王堂」に祀ってあります。
その後、750年頃、このお寺は天台宗に変わります。その関係で、991年には天台座主、元三慈恵大師の像を本尊にし、以後、江戸、明治、現在に至るまで元三大師堂は人々の信仰を集めています。
ですから元三大師堂は深大寺で非常に大切なお堂でした。
現在の深大寺の本堂は元三大師堂の右側にあります。それは江戸時代からあったものを大正時代に建てかえたものです。
深大寺の寺領は現在の神代植物公園も含めて広大であったといいます。多数の小作人を擁し、寺領の畑には蕎麦を栽培して来ました。江戸時代は代代の将軍へソバを献上し、元三大師堂への参拝客相手のソバ屋が多数あったと伝えられています。現在も参道にはソバ屋が並んでいます。

さてもう少し詳しい歴史を加えておきます。
深大寺の歴史の中で重要なことを、https://www.jindaiji.or.jp/about/ から示します。

(1)天台の法流を汲み、東国第一の台密道場へ
平安時代、清和天皇の貞観年中(八六〇年頃)、武蔵の国司蔵宗が反乱を起こし、この降伏を祈念するために、修験の達者である比叡山の恵亮和尚が勅命をうけ東国に下りました。特に恵亮和尚は深大寺を道場に定めて、逆賊降伏の密教修法を行ない、その平定の功により清和天皇は、近隣七ヶ村を深大寺に寄せられ、寺を恵亮和尚に賜りました。

(2)比叡山より「元三大師自刻像」を迎える
正暦二年(九九一年)第十八代天台座主、慈恵大師すなわち元三大師の自刻像が、大師の高弟である慈忍和尚、恵心僧都両師の意を受けた寛印により遥か叡岳より深大寺に遷座されました。

(3)「元三大師信仰」大いに振るう
徳川期、深大寺の元三大師出開帳が明和二年(一七六五)七月と文化十三年(一八一六)六月の二回、両国の回向院(えこういん)で執行されています。江戸時代まで元三大師堂へ参拝するのが重要だったのです。

(4)銅造釈迦如来像(白鳳仏)の鑑定と国宝指定
像高 83.9㎝のこの釈迦如来像は明治42年(1909)に飛鳥時代7世紀~8世紀初と鑑定されました。そして大正2年に国宝指定となったのです。寺院伝来の仏像としては都内寺院唯一で東日本最古の国宝仏なのです。

写真に自分が撮った「元三大師堂」と「深沙大王堂」の写真を示します。



関東地方に比叡山の慈恵大師すなわち元三大師の信仰があるのは珍しいのです。
深大寺はその意味で特別な古刹なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「今日のカトリック小金井教会のミサと七五三の祝い」

2019年11月10日 | 日記
今日は何時ものミサの終りの方で七五三のお祝いがありました。
毎年、10人以上の子供達が祭壇の前に並ぶのに今年は4人だけでした。和服の子供もいなくて寂しく感じました。
でも七五三の千歳アメを神父さまから貰って子供は嬉しそうでした。今日の写真をお送りします。









間もなく来日するフランシスコ法王は気さくで優しい方

2019年11月10日 | 日記・エッセイ・コラム
日本のカトリックの一般信者の多くはイタリー語が話せませんし、ローマに住んでいた人も少ないのです。しかし間もなく来日するフランシスコ法王は気さくで優しい方であることは皆がよく知っています。遠方に住んでいる優しいお祖父さんのように親しく思っています。
現在のフランシスコ法王はとくに貧しい信者からは親しみをもって慕われています。
貧富の差が激しい南米から初めてローマ法王になって、いつも貧困階級に寄り添っている様子が従来のローマ法王とは非常に違うのです。
フランシスコ法王の気持ちを想像すると、その人間的な考えに親しみを覚えます。法王との距離感が無くなります。
その法王が以下の日程で日本を訪問します。是非暖かいお気持ちで日本にお迎え下さい。

===3泊4日の日本訪問中のフランシスコ法王の日程の詳細=====
23日(土) バンコク-東京
午後5時40分 羽田空港到着


24日(日) 東京-長崎-広島-東京
9時20分 長崎空港到着

日本二十六聖人殉教者への表敬(西坂公園)
昼食(長崎大司教館)
ミサ(長崎県営野球場) 教皇の説教

同5時45分 広島空港到着
平和のための集い(広島平和記念公園) 
午後10時10分 羽田空港到着

25日(月) 東京
東日本大震災被災者との集い
天皇と会見(皇居)

ミサ(東京ドーム) 教皇の説教
首相と会談(官邸)


26日(火) 東京-ローマ
イエズス会員とのプライベートなミサ(上智大学チャペル)
病気・高齢の司祭を訪問(同)

午前11時35分 航空機でローマ(フィウミチーノ空港)へ
====================

写真は2014年6月に安倍総理がバチカンを訪問しフランシスコ法王と歓談した時の写真す。 欧州訪問中の安倍晋三首相は6月6日、ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王とバチカンの法王宮殿で約20分間会談しました。

法王さまのご訪問が待ち遠しいものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、風邪の予防注射をし、バラの写真を撮りに行く」

2019年11月08日 | 日記
今日は忙しい日でした。朝に「残照の霞ヶ浦と孤独」と題する記事を掲載しました。その後で近所の小さな病院に行きインフルエンザの予防注射をして貰いました。これでこの冬風邪をひかないのです。血圧を下げる薬も貰います。老人健診の予約もしました。
昼食はガストに行きカキフライランチを食べました。美味です。
午後はいつものスーパーに行き夕食の材料を買いました。
家に帰って食料品を冷蔵庫にしまい暫し休憩です。
休憩後は調布市にある京王フローラル・ガーデンに行き秋バラの写真を撮りました。
バラの写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。









残照の霞ヶ浦と孤独

2019年11月08日 | 写真
私は孤独な生活を恐れています。そのくせ孤独に憧れています。
過去に独り遊びの趣味としてヨットを25年間続けていました。クルーザーヨットを霞ヶ浦に浮かべ独りで帆走するのです。エンジンの音のしない静かな水の上で、空と波だけでを眺めて孤独な時を過ごすのです。
回りを見ると、独りで帆走している人々が意外に多いのに気が付きます。

1番目の写真は時々、霞ヶ浦で出会ったヨットです。いつも独りで帆走しています。すれ違うとき手を振ると、ゆっくりと手を振ってくれます。
孤高という言葉がありますが、すれ違うたびに「孤高な風景だ」と感じ入ります。
彼も孤独が好きなのでしょう。いつも独りです。そのような人々に随分会いました。
時々はつい時を忘れて夕暮れまで帆走してしまいます。時々は家内が付き合ってくれます。

2番目の写真は夕暮れに土浦港に帰る私のヨットです。
そんな夕暮れに見る帆引き漁の漁船の白い帆が美しいものです。白い帆が残照に輝いている光景は感動的なのです。そんな風景の写真をネットからお借りしてお送りします。

3番目の写真は帆引き漁の漁船を後ろから撮った写真です。背景に筑波山がうっすらと写っています。

4番目の写真は夕日に向かってゆっくり網を引きながら動いている3隻の帆引き漁の漁船です。

5番目の写真はもう薄暗くなった湖上の2隻の漁船を横から撮った写真です。夕日はすでに沈んでしまい残照だけが空を染めています。
霞ヶ浦の帆引き漁はシラウオ、ワカサギ、小ブナ、ハゼ、小エビなどの佃煮用の魚を取っているのです。それは零細な漁業です。零細なだけに漁夫の心が静かになります。
白帆と霞ヶ浦の美を静かに楽しみながらささやかな漁をしているのです。こんな風景を見る度に私の心が静まります。体も透明になっていくような感じになります。

帆を上げて音も無く湖上を滑っていく体験が忘れられません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

今日の日記、旧石器時代から人の住んでいた野川の写真を撮る

2019年11月07日 | 日記
多摩川の支流に「野川」という小さな川があります。
水源は国分寺市にあり小金井市を西から東へ流れ下り調布市で多摩川に合流しています。
小さな川ですが立川崖線の延長の国分寺の高台の下からの豊富な湧き水が流れています。
生活に必要な水が四季を通うして涸れることなく流れています。ですから旧石器時代の大昔から野川の畔には人が住んでいました。この一帯は都立武蔵野公園として保存してあります。
今日の午後にこの野川の畔の風景の写真を撮ってきました。
5枚の写真を示しますが2番目の写真の小川が「野川」です。









この野川の流域に旧石器時代から人が住んでいたことは昭和61年から63年の詳細な発掘調査で判明したのです。
日本の旧石器時代とは約3万年前から1万年前までです。
野川の畔から発掘された旧石器時代の遺物は次の通うりです。

旧石器時代の主な遺構
石器集中40
礫群66

主な遺物
石器1136(ナイフ形石器、槍先形尖頭器、角錐状石器、剥片、石核、石器原石など)

特記事項
旧石器・立川ローム層中心に7枚の文化層を確認。IV層中部及びIV層下部文化層が中心。
上記の出典は、https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002087175-00 です。

また低湿地に堆積した泥炭層の中から氷河期の寒冷気候を示すカラマツ・トウヒ・チョウセンゴヨウ等の針葉樹や花粉の化石が多数発見されています。当時の小金井は寒冷地だったのです。
そして縄文時代(約二千三百~一万年前)では、草創期・早期・後期の遺構や遺物が出土しています。他にも古代(平安時代)・中世・近世の遺物も発見されており、野川のほとりには人が絶えることなく住んでいたことが証明されているのです

そんなことを考えさせる今日の午後でした。

「宇宙と宗教と人生の達人」

2019年11月07日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は少し気宇壮大な話を書いてみようと思います。
今日の「宇宙と宗教と人生の達人」という題目の記事では宇宙の実態を語り、その片隅の地球という星の上で生まれた宗教というものを概観しようと思います。そしてその地球に住む人の人生を考えます。よく言われる「人生の達人」という言葉の意味も明らかにしたいと思います。話題が大きいので3つの部分に分けて箇条書きにします。想像力を働かせてお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。

(1)現在分かっている宇宙の実態
宇宙が誕生してから現在までどれだけの時が経ったのでしょうか。
2003年、NASAの宇宙探査機WMAPによる計算したものによると、約137億年と言われています。この値は、他の放射年代測定を根拠に計算された110–200億年や大雑把な推定値130–150億年とも矛盾していないそうです。
2013年3月21日、欧州宇宙機関(ESA)は宇宙の誕生時期がこれまでの通説より1億年古い、約138億年前であると発表したそうです。今後も観測精度の向上による宇宙の誕生時期の詳細が判明されると考えられています。
そして一方、我々の住む地球は46億年前に出来たのです。
宇宙の半径は460億光年で、天の川銀河系の半径は5万光年で、隣のアンドロメダ銀河までは250万光年も離れています。
そして宇宙には地球から観測可能な範囲(光が届く範囲)に、少なくとも1700億個の銀河が存在すると考えられています。
それでは宇宙の写真を見てみましょう。

1番目の写真は130億年前(ビッグバンから4億–8億年後)と推定されている宇宙の画像と説明されています。
現在までに撮影された中で最も深い宇宙の画像です。
写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99 です。

誕生後4–5億年の銀河が、1万個以上も映し出されており、通常の渦巻銀河や楕円銀河に混じるようにして奇妙な形の銀河も多数映し出されており、宇宙初期の混沌の中で銀河同士が影響しあっていた状態が映っていると解釈されています。
このWikipedea「宇宙」に出ている宇宙の写真を説明文の高解像度画像を選択し、最後に + 印の虫眼鏡ポインタンをクリックすると画像が特大写真になり、ひとつひとつの銀河をはっきりと見ることができるのです。その二つの例を下の写真で示します。

2番目の写真は1番目の写真のある部分を拡大した銀河の一つです。

3番目の写真も1番目の写真のある部分を拡大した銀河の一つです。
このような宇宙写真の特大図のあちこちを眺めて見ますと、いろいろな銀河系が千差万別の色合いで渦をまいたり、平面上を回っているように見えたりして興味がつきません。

(2)地球という星の上で生まれた宗教
宗教というものを概観してみます。
この138億年の歴史を持つ広大な宇宙の本当に片隅の惑星に生まれた無宗教者、仏教徒、キリスト教徒の考えを簡略に書いてみます。
1)無宗教者
現在の人類につながる新人が生まれたのは約20万円前です。
神は人間が考えた空想のものですから宇宙の全ては単なる物理現象と化学現象です。
宇宙のすべての星や惑星は人間の科学の進歩で理解が詳細になるだけです。
人間の死は宇宙の中の小さな、極く小さな生物現象に過ぎないのです。
2)仏教信者
お釈迦様はこの世の全てのものは必ず変化する。そして変化こそが物質の本質なのですと教えてくれました。
宇宙の中で星が生まれ、惑星が生まれ、お互いに衝突し、やがて消滅して行くのもお釈迦様の教え通りなのです。
ですからお釈迦様の教えは真理なのです。私はお釈迦様が全ての知恵の本質と信じています。その知恵を少しでも自分のものになるようにと毎日、お経を唱えています。
人間の死も宇宙の中の極く小さな変化の一つだけです。悲しむほどのことではありません。
3)キリスト教信者
ただ独りの神様が136億年以上前から存在していて全宇宙を作ったのです。
半径460億光年というとてつもなく大きな宇宙の隅から隅まで作ったのです。
20万年前に人間を作りました。そして2000年前にイエス様をこの世に送ってくれたのです。
神は人間をも愛しています。その愛はイエス様を通うして、より一層強く人間へ働き掛けているのです。
人間の死はこの世から神様の足元に呼び集めてくれた結果起きるのです。
そして最後の審判の時、全ての人間は復活して生き返るのです。

さて皆様は上に書いた3つのうち、どれがお好きでしょうか?どれを信じているのでしょうか?
その答えは他人へ言う必要など一切ありません。時々、自問自答してみれば良いだけの話です。
ところが答えは明確でないのが普通です。上の3つとも好きな人も多いのです。その上、神道や道教のような民族宗教も好きな人も多いのです。

(3)人生の達人とはどのような人のことでしょうか?

上に書いた宗教に対して狂信的ならない人が人生の達人なのかもしれません。
達人は狂信しません。達人は宗教を軽蔑しません。達人は人を非難しません。達人は全ての他人を許します。そして悠々と日々を過ごしているのです。
そういう達人も世の中には沢山います。全ての職業分野に年齢に関係なく少しずついます。その存在だけで職場を穏やかいます。
女性にも「人生の達人」が沢山います。家庭を自然に穏やかにします。穏やかな子供が育ちます。

私は絶対に「人生の達人」になれません。憧れるだけです。しかし時々はその真似事をして良い気分になっています。長続きしないのが残念です。

今日は宇宙の実態を語り、宗教というものを概観し、「人生の達人」という人のことを書きました。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)