後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の武蔵野のケヤキの黄葉」

2019年11月06日 | 写真
今日は和服を着て出かける家内を車で送り、その足で清瀬市の金山緑地に行きました。
午後の陽射しが黄葉したケヤキを輝かせています。
しばらく椅子に座って晴天の秋の日が流れ行くのを惜しみました。それにしても老境は暇です。
武蔵野のケヤキの黄葉の写真をお楽しみ頂ければ嬉しいです。









ダムの事前放流をしないのは人命軽視の思想

2019年11月06日 | 日記
この秋も幾つかの台風が来ました。大雨も伴って来ました。
するとダムの水が満杯になってから仕方なく放流します。ダムの下流では洪水の危険があります。洪水が起きれば家も人も流され死ぬのです。
台風や大雨は天気予報で何日も前から分かっています。ですから前もってダムの水を流して水位を下げておけば台風や大雨が来てもダムは満杯になりません。急に放流する必要もありません。下流の洪水で人が流される危険もありません。
これは小学生でも分かる理屈です。
ダムが満杯になってから放流して下流で人間が死んでもかまわないというのは人命軽視の思想です。封建時代の昔から日本に根強くあった人命軽視の思想なのです。
皆様は何故ダムの事前放流をしないのかご存知でしょうか?

今日はダムの事前放流をしない理由を説明します。
そうしてその理由がまかり通る日本の人命軽視の思想にささやかな警鐘を鳴らしたいと思います。
さて事前放流をしない理由は明快です。
ダムに溜まった水は農協に代表される農民の貴重な財産です。大きな電力会社の水力発電の為の貴重な財産です。大都会の水道局が使う貴重な水源です。
ですから農協、電力会社、都市の水道局などの同意を得なければ勝手にダムの水を放流することが出来ません。放流はこれら大きな団体の貴重な財産を勝手に減らすことなのです。
そしてダムが満杯になってから急に放流して人が死んでもかまわないのです。
日本民族に根強くある人命軽視の思想です。下流で死ぬ人は公共の犠牲になるのだから仕方が無いという考え方です。

さて上のように書くといささか正確ではありません。
日本には大きなダムが500以上あるそうです。そのうち10%位のダムは管理者の自由な判断で台風が来る前に事前に放流しているそうです。
この前の大雨を伴った台風の時、相模川の城山ダムは満杯になったら放流すると発表し下流の住民に恐怖感を与えました。結局満杯にならず放流はありませんでしたが怖かったです。
しかしその隣の宮ケ瀬ダムは事前放流をしていたそうです。何の騒ぎも起きませんでした。

このような問題が起きマスコミも騒ぎ出したので感受性のある政治家が動き出したようです。
農協、電力会社、都市の水道局などの同意が無くても管理者の自由な判断で事前放流出来る法律を作るそうです。
法律を作るにはまだ2,3年はかかるでしょうが良い方向に動き出したようです。
もっと恐ろしいこと最後に書きます。
ダムは国土交通省の指導で大きな土木建設社が設計し建設します。
そのダムには事前放流の為の排水口が付いてないのが多いようです。
どういう事か説明すると排水口がダムの下のほうについていないのです。
排水口は幾つかあるのでしょうが大部分はダムの上の方についているそうです。
この設計では大雨の場合ダムがすぐに満杯になり緊急放流しなければなりません。
この構造のダムは国土交通省の役人にも人命軽視の思想があることを意味しています。

「人の命は地球より重い」と言いますが何故か空々しい言葉に感じます。
日本の人命軽視の思想にささやかな警鐘になることを祈っています。

今日の挿し絵代わりの写真は11月を彩る花や葉です。写真は順にパンジーなど、ハボタン、エリカ、 ポインセチ、サザンカです。
写真の出典は、http://hananokotoba.com/natsu/ です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)











南米移民にまつわる悲しい思い出と氷川丸物語

2019年11月04日 | 日記・エッセイ・コラム
中学、高校時代に水元君という友人がいました。伊達政宗の霊廟のある山の下の霊屋下という名前の町に住んでいました。父は戦死して母と二人で暮らしていました。
色白の優しい中学生でした。何度も彼の家に遊びに行きましたが母は働いていて会ったことはありません。水元君のそばに居ると平和な気分になるのです。
中学を卒業すると仙台の繁華街にある相沢眼鏡店で働き始めました。私は高校生になりましたが水元君に会う為に相沢眼鏡店へ何度も遊びに行きました。
優しい彼を他の店員も大切にしていたらしく私が遊びに行ってもそれとなく歓迎してくれたのです。
ある時何時ものように店に遊びに行った私にへ水元君は母と一緒に南米へ移民することにしたと告げたのです。平静な話しぶりに決心の固さが分かりました。彼は悲しそうにもう会えないが元気でねと言います。
翌月、相沢眼鏡店に行ったら水元君の姿はありませんでした。他の店員が南米へ行ってしまったと言います。私の少年の頃の悲しい思い出です。
あれから70年ちかくたちましたが私は水元君と相沢眼鏡店を忘れません。

そんな思い出があったので私は折に触れて南米移民のことや水元君が乗って行った船のことを調べてきました。
そこで移民船として使われたアルゼンチナ丸と氷川丸をご紹介したいと思います。3番目以下の写真は私が撮ったものです。

1番目の写真はアルゼンチナ丸の1962年の勇姿です。パナマ運河の向こうの南米沖で撮った写真です。水元君の乗って行った船の名前は知りませんがこの船だったかもしれません。アメリカ留学の時お世話になった黒田さんはアルゼンチナ丸に乗ってアメリカに来たそうです。移民と一緒だったので窓もない船倉の大部屋だったそうです。
写真の出典は、http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1571 です。

2番目の写真は南米への移民を乗せて横浜港を出航する氷川丸です。沢山の見送り人が移民する人に今生の別れをしている光景です。水元君もこうして横浜港を出たのでしょうか。

3番目の写真は現在横浜港に係留し公開されている氷川丸です。この船も戦後、南米への移民船として使用されました。そして移民と一緒にアメリカへの留学生も運んだのです。

4番目の写真は氷川丸の船尾です。氷川丸の2等に乗ると船内の行動範囲が制限されていて、その上、部屋も蚕棚の8人部屋です。丸窓が一つついているだけです。私も何度もこの蚕棚の客室を見学しましたがバスもシャワーもついていません。共同のシャワールームがあるだけでした。

5番目の写真は氷川丸の一等船客用のラウンジです。一等に乗った船客は豪華なダイニングで食事をしました。
氷川丸には喜劇王。チャップリンも乗船しました。また昭和12年9月発航の第47次航海ではイギリス国王ジョージ7世の戴冠式に天皇陛下の名代として出席された秩父宮夫妻が御乗船になりした。
氷川丸は華やかな物語を持っています。しかしもっと多くの物語は割愛します。
この日本郵船の氷川丸は昭和5年にシアトル航路用に建造された貨客船です。当時の最新鋭大型ディーゼル機関を搭載します。
一等客室にアールデコ様式の内装が施され太平洋戦争前には約1万人が乗船しました。  
その後の戦争で政府徴用船、海軍特設病院船となり、終戦までに3回も触雷しましたが沈没を免れたのです。
戦後も引き続き病院船のまま復員輸送に従事し、昭和22年に復元工事で貨客船に戻り昭和26年8月からはシアトル・ニューヨークおよび欧州航路定期船に就航しました。 昭和28年には内装をアメリカンスタイルに改装しシアトル航路に復帰、フルブライト留学制度での渡航者約2,500人を含む乗客、約1万6,000人を輸送しました。
昭和35年、船齢30年に達しシアトル、バンクーバーから神戸に寄港した後に現在の係留地横浜への回航を最後に引退しました。太平洋横断254回、船客数は2万5千余名だったそうです。

今日は南米に移民してしまった親友との悲しい思い出と移民船としても活躍した氷川丸の物語を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)




今日の日記、牛肉の大和煮を作り、高尾の紅葉を見に行く

2019年11月04日 | 日記
午前中に牛肉の大和煮を作りました。
昔、缶詰になった牛肉の大和煮という大変美味しいものがありました。最近スーパーで探しましたが皆無です。時代遅れのものは消えて行く運命なのでしょう。
一念発起して牛肉と竹の子を1時間かけてじっくり煮込みました。砂糖と日本酒と醤油と味醂を慎重に少しずつ加え味を調整しました。
成功です。昔通りの味に仕上がりました。横で家内がチキンカレーを作っていました。
午前は夫婦ともに料理で時間を過ごしました。
午後からは裏高尾の紅葉を見に行きました。
何時も行く桂林は落葉してしまって甘い香りの落ち葉が美しい模様を作っています。
他の樹々はこれから紅葉です。また来ることにして山の新鮮な空気を胸一杯に吸って来ました。
先程撮って来た裏高尾の紅葉の写真をお送りいたします。









箱根ガラスの森美術館と箱根ラリック美術館

2019年11月03日 | 日記・エッセイ・コラム
ヨーロッパ文化と言えば、キリスト教、油絵、クラシック音楽、などを思いつきます。
しかし身近な日用品を美しく飾った工芸技術もヨーロパ文化のもう一つの側面です。
特に彩色した飾りガラスの装身具や窓ガラスもヨーロッパの伝統文化です。
そのような工芸技術にもとづいたヨーロパ文化を展示してある2つの美術館をご紹介したいと思います。
この二つとは箱根の仙石原にある箱根ガラスの森美術館と箱根ラリック美術館です。
箱根ガラスの森美術館はヴェネチアのガラス工芸の美を集めた美術館です。なにか世紀末の退廃への道行きを暗示するような展示物が丁寧に蒐集されてあります。
箱根ガラスの森美術館には如何にも昔のヨーロッパを思い出させるような建物も並んでいてロマンチックは雰囲気です。
それではガラスの森美術館の4枚の写真をお送りいたしまあす。







この4枚目の写真はヴェネチアのガラス工芸の装身具やワイングラスの日用品の展示館です。ガラスへ美しい模様を刻み込んだりしてあります。また色の違うガラスを組み合わせて融合したりガラス細工の職人技を展示してあります。ヨーロッパ文化の奥深さが分かります。

一方ルネ・ラリック美術館はガラス装飾の天才とも言うべきラリック個人の作品が蒐集展示してあります。
展示物は女性の装身具や香水瓶、おしろい入れから自動車や列車の飾りまで実に多岐にわたります。
先端にガラス飾りをつけた昔のフォード車の写真と飾りガラスの壁のついたオリエント急行の写真を合計3枚お送りいたします。写真の乗用車のラジエーターの止水栓の上を飾ったカーマスコットが半透明のガラスの飾り物でラリックの作品です。





このオリエント急行の車両ではコーヒーや紅茶、ケーキを楽しみながら寛げます。
1929年製の車両でパリとニースの間を1990年まで走っていた車両です。毎月1回はトルコのイスタンブールまで行っていたそうです。
この一輌だけを輸入して船で運んで来たのです。何故、苦労して運んで来たのでしょうか?
その理由はサロンカーの壁ガラスやランプとその傘などの内装品がラリックの美しい作品だからです。

ご存知の方も多いと思いますが箱根に行ったら是非、仙石原の箱根ガラスの森美術館と箱根ラリック美術館を訪れて下さい。
ヨーロパ文化の優れた工芸技術に感動すると思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)
===ルネ・ラリックの紹介===================
ルネ・ラリックは1860年にフランスで生まれ、1945年に死んだ天才的なガラス細工の職人でした。装身具、香水瓶からオリエント急行の壁飾りガラスまで実に多種多様のガラス細工を生涯にわたって作りました。箱根ラリック美術館には彼の一生の工芸品を数多く蒐集して展示してあります。その全てを見て回ると、精緻な細工と美しさに感動します。そして19世紀末のヨーロッパ文化の爛熟と退廃的な雰囲気が身近に感じられるのです。ガレー、ドームのアールヌーボウに共通する感覚です。そして彼の後半の作品はアール・デコなのです。

ルネ・ラリックのガラス細工は優れた工芸品で、それと対照的な物は、箱根彫刻の森にあるヘンリー・ムーア、ザッキン、ブールデル、などなどの彫刻の芸術作品です。
工芸品は美しく作った実用品です。彫刻は実用品ではありません。実用上は何の役にも立たない無駄な存在です。しかし人間に何故か感動を与える存在なのです。

「富士山のカラマツの紅葉をお楽しみ下さい」

2019年11月03日 | 写真
今朝、「ローマ法王、タイで仏教僧と会い日本で天皇、安倍総理と会う」という記事を掲載しました。
しかし考えてみると宗教に関心の無い方々にとっては面白くも可笑しくもない記事でした。

読んだ方々が皆楽しい気分になるように心がけて努力しています。
そこで皆が楽しめるように富士山のカラマツの紅葉の写真をお送りいたします。先週五合目で撮った写真です。お楽しみ頂けたら嬉しいです。









ローマ法王、タイで仏教僧と会い日本で天皇、安倍総理と会う

2019年11月03日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はもう11月の3日で文化の日です。朝夕は寒くなり季節がどんどん移って行きます。
今月の21日にはフランシスコ法王がタイに着き日本には23日に着きます。
バンコクではタイ政府首相府で、歓迎式典。首相府内で、教皇は首相との会見、同国各界代表や駐在外交団との集いを行われます。そして仏教の最高指導者を訪問されます。

日本の訪問は11月23日~26日の3泊4日です。
(1)長崎、広島訪問と長崎でのミサ
フランシスコ教皇は23日夕に羽田空港に到着し、24日朝に長崎へ向かい、爆心地公園で「核兵器に関するメッセージ」を伝えた後、西坂公園(同市西坂町)の日本二十六聖人記念碑を訪問なさいます。
その後、長崎県営野球場(ビッグNスタジアム、同市松山町)でミサを行います。
同日夕には広島へ移動し、平和記念公園で「平和のための集い」を行い、同日夜に東京に戻ります。

(2)東京での日程、ミサと天皇と安倍総理と会う
25日は東京で開かれる「東日本大震災被災者との集い」に参加した後、天皇と会見します。
東京カテドラル聖マリア大聖堂で開かれる「青年との集い」に参加し、東京ドームでミサを行います。
ミサ後首相官邸で安倍晋三首相と会談し、「要人および外交団らとの集い」に参加されます。

26日はイエズス会員とのプライベートなミサを行い、病気や高齢の司祭を訪問。最後に上智大学を訪れ、同日正午前に羽田空港からローマへの帰途に着くのです。
フランシスコ法王は南米出身で現在でもイエズス会士なのです。日本のイエズス会の本部は上智大学構内にあります。

この様に過密なスケジュールですが3泊4日の来日中に教皇はプライベートなものも含め3回のミサを行い講話5回とメッセージ2回、説教2回を伝える予定です。
フランシスコ教皇の日本訪問が成功するようにお祈りいたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

===3泊4日の日本訪問中のフランシスコ法王の日程の詳細=====
23日(土) バンコク-東京
午前9時30分 タイ・バンコクから航空機で東京へ
午後5時40分 羽田空港到着
歓迎式(羽田空港)
司教との集い(ローマ教皇庁大使館) 教皇の講話
24日(日) 東京-長崎-広島-東京
午前7時 航空機で長崎へ
同9時20分 長崎空港到着
核兵器に関するメッセージ(長崎爆心地公園) 教皇のメッセージ
日本二十六聖人殉教者への表敬(西坂公園) 教皇のあいさつ「お告げの祈り」
昼食(長崎大司教館)
ミサ(長崎県営野球場) 教皇の説教
午後4時35分 航空機で広島へ
同5時45分 広島空港到着
平和のための集い(広島平和記念公園) 教皇のメッセージ
同8時25分 航空機で東京へ
同10時10分 羽田空港到着
25日(月) 東京
東日本大震災被災者との集い(ベルサール半蔵門) 教皇の講話
天皇と会見(皇居)
青年との集い(東京カテドラル聖マリア大聖堂) 教皇の講話
教皇随行団と共に昼食(ローマ教皇庁大使館)
ミサ(東京ドーム) 教皇の説教
首相と会談(官邸)
要人および外交団らとの集い(官邸) 教皇の講話
26日(火) 東京-ローマ
イエズス会員とのプライベートなミサ(上智大学クルトゥルハイム・チャペル)
イエズス会員と共に朝食(イエズス会SJハウス)
病気・高齢の司祭を訪問(同)
上智大学訪問(同大) 教皇の講話
別れの式(羽田空港)
午前11時35分 航空機でローマ(フィウミチーノ空港)へ
午後5時15分 ローマ(フィウミチーノ空港)到着



「今日の日記、回る寿司を食べてスーパーで買い物をしました」

2019年11月02日 | 日記
今日は秋晴れの快晴でした。
朝に「霊峰富士山の幻想的な風景」という写真記事をブログに掲載しました。
11時30分に銚子丸という店に行き回る寿司を食べました。魚が銚子港直送なので美味でした。
昼食後イトーヨーカ堂の地下にあるスーパーに行き食料品を買いました。
1時頃帰宅して、また庭木の枝を剪定し切った枝を更に短く切って袋に詰めました。
快晴の青空の下で家内とそんな作業をするのが楽しいのです。1時間30分も庭作業を楽しみました。
その後は富士山で撮って来た写真の色の調整をしたりトリミングをしました。
特に河口湖は西の岸辺迄行くと人が居なくなり静かな高原の湖になります。そんな写真をトリミングをし山奥の湖のような雰囲気の写真にしました。
こうして悠々たる老境の日が又一日流れ行きます。
河口湖の西の岸辺の写真をお送りいたします。





「霊峰富士山の幻想的な風景」

2019年11月02日 | 日記
富士山は神の山として人々が崇めてきました。
一昨日みた五合目からの風景は幻想的でした。神々しい美しさです。
非日常的な景観です。そんな幻想的な写真をお送りいたします。

1番目の写真は標高2400メートルの五合目の駐車場から見上げた富士山です。何故か神々しく感じます。

2番目の写真は頂上から流れ下る稜線の写真です。手前の私の車がとても小さく見えます。

3番目の写真は富士山の北側に広がる雲海です。雲海の下には河口湖、西湖、精進湖、本栖湖がありさらに甲府盆地があります。不思議な光景です。

4番目の写真は雲海に浮かぶ南アルプスの主峰連山です。農取岳、間ノ岳、北岳などは既に雪に覆われています。

5番目の写真は遥か遠方に浮かんでいる八ヶ岳です。

さてこの富士山への信仰について簡略に書いておきます。
富士山への信仰は縄文時代から始まったと言われています。縄文時代から江戸時代の宝永の大爆発まで何度も噴火していたのが富士山です。
ですから昔の富士山信仰は火を噴く恐ろしい山の神を鎮める祈りでした。
しかし現在は平穏な美しい形の山に対する祈りになっています。
それは神社に家内安全を祈る神道の信仰と同じです。ただ富士山の場合はその山体が信仰の対象になっているのです。
富士山の8合目から頂上までの全てが富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)になっているのです。そして富士山本宮山宮浅間神社は、社殿を持たない形式の神社であり、富士信仰の祭祀形態を持つ神社として大変めずらしい信仰形態になっているのです。

このように縄文時代から連綿と続く富士信仰と美しい富士山の風景が一体になって世界文化遺産として認定されているのです。
「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」は文化遺産です。
これは富士山にまつわる信仰や宗教と、芸術活動に対して認定されたものです。
従って富士山や富士五湖や幾つかの浅間神社がそれぞれ単独で認定された訳ではありません。
しかし観光客を集めるためもあって、「世界遺産の忍野八海」を見に行こうとか「世界遺産の北口富士浅間神社」をお参りに行こうという表現がよく使われています。
しかしこの表現は、文化という二文字が省略されているので、しばしば誤解を招くことになります。

さて、2013年に認定された「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」には、それを証明する構成資産が全部で25箇所もあるのです。この25の構成資産の全部を一まとめにして世界文化遺産に認定されたのです。
すなわち富士山、富士五湖、忍野八海、北口富士浅間神社などが世界文化遺産に認定された理由はそれにまつわる文化が貴重だったからなのです。
そして富士山にまつわる宗教活動と芸術活動が国際的に非常に貴重だと認められ2013年に世界文化遺産に認定されました。

芸術活動とは具体的に何を意味するのでしょうか?
今から約1,200年前、奈良時代にはすでに富士山を題材にした歌が、日本最古の歌集である「万葉集」に詠まれています。
また、富士山は、『竹取物語』や『伊勢物語』などの古典作品をはじめ、俳句や漢詩、夏目漱石や太宰治の文学作品にも取り上げられてきました。
絵画の世界では、平安時代から富士山は絵画に描かれるようになります。現存する最古の絵画は、『聖徳太子絵伝』です。
そして江戸時代になると、富士登山が「富士講」等を通じて庶民に爆発的に人気となると、富士山も多くの絵師に描かれるようになりました。葛飾北斎の『冨嶽三十六景』や歌川広重の『不二三十六景』、『東海道五拾三次』など、様々な場所から見た富士山が浮世絵に描かれています。浮世絵が海外に輸出されるようになると、ゴッホやモネなど、西洋の芸術家にも大きな衝撃を与えました。

一昨日、五合目まで上がって幻想的な風景を見ると世界文化遺産に認定されたのが納得します。
確かに日本が世界に誇れる文化遺産なのです。

それはそれとして今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘

「今日の日記、庭木の枝を切り、小金井公園へ行きました」

2019年11月01日 | 写真
朝に「富士山、昨日の黄葉の写真です」と題する記事をブログに掲載しました。
その後通用玄関の脇のアジサイと槿の枝を切りサッパリしました。
午後は「明日に向かって撃て」というアメリカ映画をテレビで見ました。家内が有名な映画だと言うので2時間見ましたが駄作でした。家内も出来の悪い映画だと言ってました。ラストシーンは印象的でしたが。
その後小金井公園に行きのんびりしました。
公園から帰ってからもう一度庭の雑草の整理をしました。
このように書くと広い庭のようですが30坪ほどの小さな庭なのです。しかし6月、7月、8月と庭木は伸び放題だったのです。
家内は雑草だけは夏の間よく取っていました。孤軍奮闘で庭の維持管理をしていたのです。
そんな訳で今度は私が頑張ったのです。

午後の陽射しの射す平和な公園の風景写真をお楽しみ下さい。





富士山、昨日の黄葉の写真です

2019年11月01日 | 写真
昨日は河口湖から富士スバルラインの五合目まで登りながら紅葉の写真を撮って来ました。
河口湖の標高は833mで五合目は2300mです。
登りはじめは緑豊かな雑木林や松林です。しかし2合目、3合目と上るに従って見事に黄葉した広葉樹林帯に変わって行きます。
4合目になると広葉樹は絶えてカラマツなどの針葉樹になります。
カラマツの黄葉も美しいものですが今日は広葉樹林帯の黄葉の風景写真をお送りします。
お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。











昨日の富士山の天気は不思議でした。河口湖は厚い雲に覆われた晩秋の寒い日でした。
しかしスバルラインを3合目まで登ると突然厚い雲の上に出て快晴になりました。高い空には筆で薄く描いたような白い雲が広がっています。
写真を撮るのを休んで地上の黄葉と底の抜けたような天空の薄い雲を眺めて悠久の時を感じました。

皆様のお住まいの所の今年の紅葉や黄葉はいかがでしょうか。

それはそれとして今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘