後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「非常に面白い日記と面白くもない日記の違い」

2020年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム
インターネトの普及で自分の日記を毎日のように公開している方々が非常に多くなりました。私も毎日ネット上に公開しています。しかし他人が読んでも面白くも可笑しくもない日記が多いようです。私の日記も他人が読んで面白くも可笑しくもない日記であることは重々承知しています。
その一方、非常に多くの人が興味を持つ面白い日記もあります。
多くの人が興味を持ち真剣に読む日記とはどういうものでしょうか? それは多くの人の利害に関係した新しい事件や天災に関するものです。
多くの人は食べ物や男女間の関係に興味を持っています。人生にとってとても重要な話題です。しかしそんな話題は昔からあって新しくはありません。話題が新しいことも重要なのです。
多くの人が興味を持つものの一例を示します。それは昨日の大雪で1100台以上の車が立ち往生したということです。その現場の写真を示します。

1番目の写真は日没後も立ち往生の車が列を作っている光景です。関越道の新潟県南魚沼市の大和パーキングエリア付近で17日午後6時15分に撮った写真です。写真の出典は、https://www.yomiuri.co.jp/national/20201217-OYT1T50200/ です。

2番目の写真も関越道上り線大和ICでの渋滞の様子です。大雪のため、16日から立ち往生する車が相次いでいました。撮影は17日午後5時ごろです。
写真の出典は、https://www.niigata-nippo.co.jp/news/national/20201217587887.html です。

この様な車の苦難は日本上空に強い寒気が流れ込み、17日も日本海側や山沿いの広い範囲で断続的に雪が降り続いたためです。新潟県の関越道ではトラックなど約1100台が雪で立ち往生し、県は自衛隊に災害派遣を要請したのです。
新潟県の県警などによると関越道では16日夜から多数の車が立ち往生していました。17日午後5時には上りが塩沢石打インターチェンジ付近を先頭に15キロにわたり約750台、下りは湯沢IC付近から15キロで約350台が動けない状態が続いていました。

さて一方、何故私の書くものは面白くないのでしょうか? 多くの人が興味を持ってくれないのでしょうか?
理由は明白です。自分の楽しみだけを下手な文章で書いた日記だからです。他人にとってはつまらないのです。
写真を使ってその違いの説明をします。

3番目の写真は雪を戴いた南アルプスの主峰山稜の写真です。左から農鳥岳、間ノ岳、北岳と3つの峰が写っています。この写真は自分で撮ったので掲載したのです。
この写真にはかなりの人が興味を持つだろうと想像したのです。多くの人が故郷の雪を戴いた山並みを思い出して懐かしく思う人も多い筈です。そしてこの3つの峰に若い頃登った経験のある人々はその時の興奮を思い出して心が躍る筈です。しかしこれは私の思い込みに過ぎません。

4番目の写真は同じく雪を戴いた八ヶ岳の写真です。3番目の写真との違いは八ヶ岳は東京では有名な観光スポットだということです。ですから行ったことのない人も憬れている筈です。ですから4番目の写真は3番目の写真よりも広い社会性がある筈です。しかしこれも私の思い込みに過ぎません。自分で撮ったからという理由で掲載しても他人にとっては面白くも可笑しくも無いのが普通です。
さて最後に最悪の写真を示します。

5番目の写真は小川の水面の波模様と水の透明さを写した写真です。他人が見ても面白くないのですが、私と家内にとっては非常に大切な写真なのです。山林の中の小屋の庭の小川です。
この写真は家内が竹の熊手で落ち葉を取り除いたの後に撮った写真なのです。小川が綺麗になったので水面の波模様が見えるようになったのです。
このような説明をしないと何故面白い写真なのか分かりません。一目写真を見ただけでいろいろな感動を与える写真でなければいけないのです。説明の必要な写真は失敗作です。

上のように書くと面白い日記と面白くない日記の2種類しか無く、この2者には画然とした差があるように思えます。しかしこれは言い過ぎです。
毎日読む新聞記事にも面白い記事と面白くない記事があります。面白いか面白くないかは人それぞれです。
例えば毎日家内が熱心に読む記事の種類は私の読む記事とは違います。同じものもありますが家内はスポーツ記事と文芸記事を熱心に読みますが私は国際記事や国内の社会記事を丁寧に読みます。
ですから面白い記事と面白くない記事の違いを示す普遍的な指標は無いと結論出来るようです。
読む人の興味の持ち方、好奇心の有無、そして趣味の違いなどによって、ある人にとって面白くない記事も他の人にとっては面白い記事になるのです。
ですから私が面白くない日記をインターネットに公表しても、1人や2人は興味を持って読んでくれると信じています。
そういう訳で今日もつまらない日記を書いてしまいました。ご免なさい。
皆様はご自分の日記をどのようにお考えでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、冬日の小金井公園の写真を撮りに行く」

2020年12月17日 | 写真
今日は空気が澄んで高い蒼空が宇宙まで抜けています。こんな時は写真が鮮明に撮れます。
午後から冬日の小金井公園の写真を撮りに行きました。私がカメラを忘れたので家内がスマホで撮り私のコンピューターへ転送してくれました。便利な世の中になったものです。隔世の感です。
冬の日の公園の写真をお楽しみ下さい。







「曾遊の地の雪景色(1)北国の思い出、小樽と『蟹工船』」 

2020年12月15日 | 日記・エッセイ・コラム
曾遊の地とはかつて遊んだ土地という意味です。意味は単純ですがこの言い方は何故か文学の香りがします。
例えば岩手県の大船渡市には「石川啄木曾遊之地碑」というものがあり有名な観光名所になっています。
石川啄木は明治45年(1912年)に26歳の若さで死にました。啄木の妻節子、父一禎、友人の若山牧水に看取られました。肺結核でした。
石川啄木の死後、数々の作品が刊行され彼の文学作品の評価が非常に高まったのです。
次の詩は有名です。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣ぬれて
蟹とたはむる


この詩はとても長いのです。そしてこんなところもあります。

ダイナモの
重き唸りのここちよさよ
あはれこのごとく物を言はまし


ダイナモは「直流発電機」のことです。この詩の全文は、https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/816_15786.html にあります。

さて話はそれましたが今日から「曾遊の地の雪景色」と題する連載を始めたいと思います。
私があちこち旅をした土地の雪景色の写真をお送りしようという企画です。
方々へ旅行をしましたが寒がりやの私は雪の無い季節だけを選んで旅をしたのです。
そこでその曾遊の地の雪景色の写真を調べ、見つけて編集したのです。
第一回目は何度か訪れた小樽にしました。小樽は運河の町です。小林多喜二が「蟹工船」を書いた町です。暗く美しい町でした。
その雪景色の写真をお送りします。全ての写真の出典は、https://ovo.kyodo.co.jp/news/life/travel-news/a-1397278 です。











小樽では小林多喜二が行っていた寿司屋に行きました。多喜二の本が沢山積まれていました。そこで
「蟹工船」を思い出していました。
「蟹工船」の冒頭です。
「おい地獄さ行えぐんだで!」
 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、海を抱かかえ込んでいる函館の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。
巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹サイドをすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。

 赤い太鼓腹を巾広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南京虫むしのように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。
風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接に響いてきた。

 この蟹工船、博光丸のすぐ手前に、ペンキの剥はげた帆船が、へさきの牛の鼻穴のようなところから、錨の鎖を下していた、甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同じところを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。

続きは、https://www.aozora.gr.jp/cards/000156/files/1465_16805.html にあります。

小林多喜二は30歳の若さで死にました。秋田県の農家に 1903年に生まれ、北海道小樽で育ちました。「蟹工船」などの作品により、日本のプロレタリア文学運動を代表する作家となったのです。1933年、地下活動中に逮捕され、東京・築地署で拷問により殺されました。

今日は「曾遊の地の雪景色」という連載の第一回として「北国の思い出、小樽と『蟹工船』」をお送りいたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、師走なのに菜の花が咲いていました」

2020年12月14日 | 日記
今日はとても寒い上、厚い雲が覆っていて暗い冬の日でした。気分を良くしようと三鷹市の「花と緑の広場」へ写真を撮りに行きました。そうしたら寒い師走なのに菜の花が咲いていたのです。
菜の花は春の季語であり、私は春に咲くものと思い込んでいました。しかし温かい地方では12月から咲くようです。
先程、「花と緑の広場」で撮って来た写真をお送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。









「師走とお正月の花々の写真」

2020年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム
師走やお正月の季節の野山は寒すぎて花々がありません。それでも寒さにめげず屋外に咲いている花があります。師走のロウバイと水仙の花、そしてセンリョウ(仙蓼/千両)やマンリョウ(万両)があります。
年が明けるとマンサク、サンシュユ、紅梅白梅が咲きます。その上、栽培種の西洋サクラソウやパンジーやシクラメンが花屋の店先を華やかにします。

今日はこれら師走とお正月の花々の中から紅梅の花、ロウバイ、水仙、ヒイラギモクセイ、センリョウそして西洋サクラソウの写真をお送りいたします。

1番目の写真はロウバイの花です。写真の出典は、https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000407.000022856.html です。

2番目の写真は紅梅の花です。写真の出典は、https://www.kantoko.com/?p=1259 です。

3番目の写真は水仙の花です。写真の出典は、https://madamn.exblog.jp/iv/detail/?s=21210139&i=201312%2F21%2F30%2Fc0222430_13311273.jpg です。
スイセンの名所として全国にあります。あまりにも数が多いので、「全国 水仙の名所 一覧表」のURLのみを以下に示します。それは、http://hananomeisyo.sakura.ne.jp/suisen-meisyo.htm です。

4番目の写真はヒイラギモクセイです。写真の出典は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AE です。
ヒイラギ(柊・疼木)はモクセイ科の常緑樹です。葉の縁の刺に触るとヒリヒリと痛むことから、「ヒリヒリと痛む」という古語の動詞が名前になったそうです。

5番目の写真はセンリョウです。写真の出典は、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%A7%E3%82%A6 です。センリョウ(仙蓼/千両)は冬に赤い果実をつけ美しいので栽培され、特に名前がめでたいのでマンリョウ(万両)などとともに正月の縁起物とされています。

6番目の写真は西洋サクラソウの「湖畔の夢」という品種です。この新種の西洋サクラソウはオランダの新種の花の祭典、フロリアード2012へ出展し、金賞一席と特別賞を受賞したのです。「湖畔の夢」は石塚健壽さんがつくりました。

7番目の写真は温室の中に一面に咲いている西洋サクラソウです。隣町の小平市の石塚園芸の温室です。
この石塚園芸へは何度も行っているうちにご主人の石塚健壽さんとは親しくなりました。
彼はいろいろな意味で感動的な花の栽培家だったのです。精魂こめて交配し20種の西洋サクラソウの新種を作ったのです。
石塚健壽さんによるとこんなに沢山ある西洋サクラソウが1月になるとアッと言う間に売れてしまうそうです。

嗚呼。今年もクリスマスやお正月がやって来るのだなと、時の流れの速さに驚きます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「私の目をのぞき込んでいる野生の狐、鹿、猿の写真」

2020年12月12日 | 写真
甲斐駒麓の山林の中の小屋には野生の狐、鹿、猿が時々やって来ます。人間が珍しいのか私の目を暫くのぞき込んでから山林の中へ帰っていきます。そんな野生の狐、鹿、猿の写真をお送り致します。私が彼等?を見つけて家内が撮りました。





「美しい白鳥一家と仲良くなった不思議な体験」

2020年12月12日 | 日記・エッセイ・コラム
冬になると遥々シベリアのアムール河の河口付近から飛んで来る白鳥は美しい姿の大きな鳥です。
今日はこの美しい白鳥の4羽の一家と仲良くなった不思議な体験を書いてみたいと思います。
その前に白鳥の美しい姿の写真をお楽しみ下さい。

1番目の写真は霞ヶ浦の広々した湖岸に遊ぶ白鳥達です。 

2番目の写真は湖岸に遊ぶ白鳥達と沖を泳ぐ群れです。撮影場所は茨城県霞が浦の西岸にある国民宿舎「水郷」の西の湖岸で、2009年03月7日に撮りました。

3番目の写真は猪苗代湖の白鳥です。写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/y58122001/50010408.html です。

4番目の写真も猪苗代湖の白鳥です。写真の出典は、https://www.tif.ne.jp/jp/photo/photo_disp.php?id=16812 です。

5番目の写真は屈斜路湖の白鳥です。出典のは、和田義男、フォトギャラリー「北海道冬の旅」、http://wadaphoto.jp/japan/hk5.htm です。

さて仲良くなった4羽の一家は夏になってもシベリアに帰らないで霞ヶ浦に棲みついていたのです。
当時私は土浦港にヨットを係留していました。その係留していた岸壁から湖沿いに600mほど歩いた芝生のところに2007年の春から白鳥4羽が棲みついていたのです。

6番目の写真は2羽の親の白鳥の写真です。子供2羽は秋から巣立って沖に遊びに行って姿が見えません。2007年の晩秋に撮った夫婦の白鳥です。
岸辺の草を食べていました。この写真に草原の向こうに黒っぽい堤防のようなものが写っていますが、そこは浮島になっています。夫婦の白鳥は夜になると寝る浮島です。野犬や野良猫の行けない安全なねぐらです。
白鳥の夫婦は離婚なしで一生そいとげるそうです。成程、2羽の大きな白鳥の夫婦が何時も仲よく緑の芝生をしきりに食べていました。人間に慣れていて、傍に行っても平気です。何度も白鳥の夫婦の傍により話しかけて遊んでいました。この白鳥一家とはは2007年12月から2013年と末まで6年間仲良くしていました。
私どもが沖でセイリングを楽しんで係留する岸壁に帰ってくると4羽の白鳥がお帰りと言って迎えてくれます。

7番目の写真はそんな4羽の白鳥をヨットの上から見た写真です。
好奇心が強くて船の傍に寄ってきて何か話しかけてきます。残念ながら白鳥語は理解出来ないので、何を言っているのかは分りません。
ある時ヨットに泊まりました。そうしたらその夜にこの4羽の白鳥が遊びに来ました。

8番目の写真はその時の写真です。家内が手を伸ばしてパンを食べさせています。
キャビンの中で作った夕食を食べた後で、後ろの甲板で夜景を楽しんでいたら来たのです。いろいろ話しかけると分かったように首を振ります。それでつい話し込んで1時間以上も一緒に居ました。
さて上で「4羽の白鳥一家」としきりに書きましたが、それは夏と秋に間だけで晩秋から初冬になると親鳥だけの2羽になってしまうのです。
子供の2羽は毎年親を離れてシベリアのアムール河の河口付近に飛んで行ってしまうのです。夫婦の白鳥だけが残って毎年2羽ずつ子供を育ていたのです。
私は2011年、75歳の時ヨットを止めました。霞ヶ浦へも行かなくなりました。しかしあの4羽の白鳥一家が気がかりで2013年11月に車で霞ヶ浦に行きました。白鳥一家が巣にしていた浮島の傍に行ったのです。
そしたら同じ草原に4羽の白鳥一家が居たのです。4羽の白鳥一家に近づくとただ小首をかしげてくれるだけです。それが久しぶりに会った私への挨拶なのでしょう。
あの白鳥の夫婦に最後に会ったのは2013年です。もう7年の月日が流れました。その後も子供を育てて元気にしていると思っています。それにしても美しい白鳥一家と仲良くなったのは不思議な体験でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「イギリスの田舎の家々の写真です」

2020年12月11日 | 写真



1番目の写真と2番目の写真の出典は、「・・・長く住むことでどんどん味が出てくるイギリスの家」、
https://beat0909.com/wakuwakublog/lifestyle/kachi/ です。

3番目の写真は「ボートンオンザウォーター」という村です。大きな浅い川には水鳥が住み、その景観の美しさからコッツウォルズのベニスと呼ばれているのだそうです。

「日本にあるイギリスの古い教会の写真を撮りに行く」

2020年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は八王子にあるイギリスの古い教会の写真を撮りに行って来ました。甲州街道で八王子へ入ると浅川の橋の手前右手の丘の上に立つ石造りの教会です。ビクトリア女王が7つの海を支配していた頃の1867年にランカシア地方に建られました。ランカシャー地方のバロフォード町にあった「ハイヤーフォードメソジスト教会」です。
その古い教会を解体し1996年に日本に移築したのです。移築したのは八王子ホテルニューグランドです。
昨日撮ってきた「ハイヤーフォードメソジスト教会」の写真を3枚お送りいたします。





最後の3番目の写真は「ハイヤーフォードメソジスト教会」を甲州街道の浅川の橋の上から撮った写真です。手前に橋のらんかんが写っています。古い教会の左が八王子ホテルニューグランドです。教会を結婚式場として使っています。
個人的な意見ですが古い教会を結婚式場として使っていることに違和感を覚えます。結婚式は現役の教会へ行って挙げるほうが良いのです。ホテルと教会は分けておいた方が良いと思います。

それはそれとしてこの古いメソジスト教会を見る度に福島の山の中にある霧のブリティッシュ・ヒルズの風景を思い出します。11年前の2009年05月18日の霧の深いブリティッシュ・ヒルズを撮った写真を4枚お送りいたします。







ブリティッシュ・ヒルズはとにかく遠いです。東京から車で200Km位、福島県の白河市から奥羽山脈の奥深くに忽然と建物群が現れます。
中世のイギリスの時代別の建物が10棟ほどが霧にかすんでいます。本格的な時代考証にもとづいて建てられ、内部の家具調度もイギリスから運びこみました。従業員もイギリス人が混じっています。
とにかく本物のイギリスが有るのです。神田外語学院の経営母体の佐野学園の初代と2代目の理事長が25年間にわたって構想を温め、イギリスの歴史を研究しました。その成果にもとづいて1995年に完成しました。
ブリティッシュヒルズには5棟の木造の家もありました。特にお土産を売っている家は高さの違う4層の部屋が、巧みに組んだ木の階段でつながっています。内部の梁や屋根裏の木組みの精巧さが素晴らしいのです。
それから赤レンガで作った領主の館もありました。そこには領主が常時住んで居て、執事や執事長を使って、領内の人々から税金を徴収していました。
領主の館の外見は威圧的で決して建築美を感じさせません。華麗な装飾も有りません。しかし一歩内部に入ると豪華です。このような封建時代が中世から産業革命まで牢固として続いたのです。
ブリティッシュヒルズの領主の館(Manor House)は200円の入場料で内部を見学できます。家具調度は17、18世紀のもの、図書館の数多くの本は皮表紙で金の装飾が施されたものが多く、出版年代は1800年から1900年の間のものです。これも全て当時の領主の家の図書室にあったものだそうです。数冊の本を開いて目次を見ながらゆっくりすると当時に帰ったようで不思議な思いをします。(詳しくは、http://www.british-hills.co.jp に御座います)

それはさておき、八王子の古いイギリスの教会を見る度に霧のブリテッシュ・ヒルズの風景を思い出します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「真冬の師走に咲く伊豆と淡路島の水仙郷の写真」

2020年12月10日 | 写真
庭に師走になると毎年咲く水仙の花があります。11年前にはるばる伊豆半島の爪木崎から買って来た水仙です。庭に咲く水仙を見ると伊豆半島の日本スイセンの群生地の風景が目の前に浮かんで来ます。
爪木崎は十数年前から何度も通った懐かしい曾遊の地です。
爪木崎(ツメキサキ)の海岸には昔から冬でも自然のスイセンが花を咲かせていたそうです。日本スイセンの花弁は一重で中の盃が黄色です。都会の花屋さんでは球根を売っていないスイセンです。それが海岸の丘一面に咲いているのです。観る人も少ない岬に、毎年香り高く咲きつづけています。
2009年の12月15日にその原種の球根を10個買って来ました。それ以来11年間、毎年12月になると花を咲かせています。売り場の回りを見まわすと隣の畑に菜の花も満開でした。
そこで今日は爪木崎の海岸で撮って来た日本スイセンの写真を4枚と、傍に咲いていた菜の花の写真をお送りします。









さて日本には三大水仙郷というものがあるそうです。淡路島の灘黒岩水仙郷、伊豆半島突端の爪木崎水仙郷、福井県の越前海岸水仙郷と言われています。
そこで今日は淡路島の灘黒岩水仙郷の写真を3枚ご紹介いたします。
出典は、http://wadaphoto.jp/sakura/suisen3.htm です。





師走に咲く水仙の群生地の風景をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「東京の郊外の紅葉は今頃美しくなる」

2020年12月08日 | 写真
北海道の紅葉は10月初め頃に美しくなるそうです。しかし東京の郊外の紅葉は二か月遅れで今頃が見頃となります。昨日は小春日和でしたので大きな雑木林が広がっている八王子市の小宮公園に行き紅葉の写真を撮ってきました。東京の郊外の紅葉をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。









小宮公園は八王子市の大谷町と暁町にまたがった丘陵にある自然が豊かな都立公園です。
ここに示した写真の背後が丘陵地帯で広大な雑木林になっています。雑木林には鳥や野生動物が棲んでいる自然のままの場所です。
雑木林には林道があり紅葉した樹々の間の散策が楽しめます。

小宮公園への公共交通は次の通りです。
京王八王子駅・JR八王子駅北口からバイパス経由宇津木台行き、警察署前経由中野団地行きバスで「八王子郵便局」下車、徒歩約10分です。
車で行く場合は中央高速の八王子インターから国道16号を市内方面へ行きます。大横交差点を左折し、数百メートル行って浅川大橋交差点を左折します。左折するとすぐに右折して公園へ登る道があります。
公園の上と下に無料駐車場があります。下の駐車場は分かりやすい場所にあります。初めての方は下の駐車場に車を停め雑木林が紅葉した樹々の間の散策道路を登ったほうが良いのです。上にある公園事務所と駐車場へはとても迷いやすい細い道を登ります。
都内から1時間位で行けますので一度紅葉の頃にお出かけ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「オーストラリア原産のユーカりの巨木の写真を撮って来た」

2020年12月07日 | 写真
八王子市の小宮公園に行きました。オーストラリア原産のユーカリの巨木が3本生えています。
写真を撮って来ました。





https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AA から転載します。
オーストラリア南東部や南西部、タスマニア島におもに分布する。世界各地で移植・栽培されている。ユーカリには500種類もあり、変種も含めると800から1000もの種類になる。成長がとても早く、材木として注目される。70メートルを超える高さになるものから、5メートル程で枝分かれする種類もある。コアラの食物としてよく知られている。
オーストラリア先住民(アボリジニ)は傷を癒すのに葉を利用した。葉から取れる精油は殺菌作用や抗炎症作用、鎮痛・鎮静作用があるとされ、医薬品やアロマテラピーなどに用いられる。また、健康茶等としても利用される。
ユーカリは、根を非常に深くまで伸ばし地下水を吸い上げる力が強いので、成長が早い。インド北部のパンジャーブ地方の砂漠化した地域の緑化に使われて、成功した。旱魃に苦しんでいた地方が5年程で甦った例がある。また東南アジアでは熱帯林を伐採した跡の緑化樹として用いられている。
日本でも鑑賞用などとして栽培・出荷する農家が増えている。ユーカリの近くに植えた他の農作物で鳥獣の食害が減る効果もあり、ユーカリが放つ独特の香りが作用している可能性もあ。ユーカリは用土の乾燥を好む品種が多く、日本で良く見かける品種のほとんどが湿地帯に生息する湿潤を好む品種である。

「分かったようで分からない密教の説明」

2020年12月06日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教の話を書きます。日本の密教とインドの密教の説明文を転写します。
私は自分で読んでみて分かったような気分になりましたが、さっぱり分からないのです。
皆様は如何でしょうか?これは当然で密教を言葉で説明することは不可能なのです。
それを理解するためには密教を信じ、その修行を何年も実践することが必要なのです。
ある宗教を理解するためにには2つのことが必要なのです。1、その宗教を信じる。2、その宗派の決める修行を何年か実践する。
それはそうですが、以下の密教の説明をご覧下さい。

(1)日本の密教、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E6%95%99
密教とは、秘密の教えを意味し、一般的には、大乗仏教の中の秘密教を指し、秘密仏教の略称とも言われる。金剛乗、あるいは金剛一乗教、金剛乗教ともいう。

「かつての日本では、密教といえば空海を開祖とする真言宗のいわゆる東密や、密教を導入した天台宗での台密を指したが、インドやチベットにおける同種の仏教思想の存在が認知・紹介されるに伴い、現代ではそれらも合わせて密教と総称するようになっている。今日の仏教学は一般に密教を「後期大乗」に含めるが、後期大乗と密教とを区別しようとする立場もある。江戸後期の日本で確立した分類である雑密・純密をそれぞれ大まかにインド密教の前期・中期に対応させることが多い。・・・」

日本の密教
「日本で密教が公の場において初めて紹介されたのは、唐から帰国した伝教大師最澄によるものであった。当時の皇族や貴族は、最澄が本格的に修学した天台教学よりも、むしろ現世利益も重視する密教、あるいは来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する浄土教(念仏)に関心を寄せた。しかし、天台教学が主であった最澄は密教を本格的に修学していたわけではなかった。」

よって、本格的に日本で紹介されることになるのは、唐における密教の拠点であった青龍寺において密教を本格的に修学した空海(弘法大師)が806年に日本に帰国してからであるとされる。 あるいは、空海に後れをとるまいと唐に留学し密教を学んだ円行、円仁(慈覚大師)、恵運、円珍(智証大師)、宗叡らの活躍も挙げられることがある。・・・」

密教の宗派
「日本の伝統的な宗派としては、空海が唐の青龍寺恵果に受法して請来し、真言密教として体系付けた真言宗(即身成仏と鎮護国家を二大テーゼとしている)と、最澄によって創始され、円仁、円珍、安然らによって完成された日本天台宗の継承する密教が日本密教に分類される。真言宗が密教専修であるのに対し、天台宗は天台・密教・戒律・禅の四宗相承である点が異なっている。真言宗の密教は東密と呼ばれ、日本天台宗の密教は台密とも呼ばれる。東密とは「東寺(教王護国寺)の密教」、台密は「天台宗の密教」の意味である。この体系的に請来されて完成された東密、台密を純密(じゅんみつ)というのに対し、純密以前に断片的に請来され信仰された奈良時代に見る密教を雑密(ぞうみつ)という。」

日本の密教は、空海、最澄以前から存在した霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の「神仏習合」の主体ともなった。各地の寺院・権現に伝わる山岳曼荼羅には両方の要素や浄土信仰の影響が認められる。

1番目の写真は熊野で修行中の山伏です。日本の密教は霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の「神仏習合」の主体ともなる。

(2)インドの密教、https://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/08.html
ブッダは呪術をはじめとするバラモンの宗教儀礼を否定し、初期の仏教教団も基本的に、その態度を引き継いだ。しかし、四世紀以降、グプタ王朝に保護されたバラモン教の勢力が、土着の習俗や儀礼を包摂しつつ伸張すると、その影響を受けて儀礼や祭式が大乗経典の中に流入するようになった。火を燃やして祈祷をする護摩(ホーマ)もそのうちの一つである。

2番目の写真はインド大乗仏教と密教の展開を示す図です。
 仏教の中に流入したバラモン教的要素、土着習俗的要素に仏教的な意味を付加し、大乗仏教の中に体系的に位置づけたのが、七世紀頃に登場した『大日経』『金剛頂経』などである。これらの経典は、宗教儀礼や呪法などを仏教教理と関連づけて説明し、その目的を現世利益から成仏へと転換し、バラモン教やヒンドゥー教の神々を、仏(大日如来、大毘盧遮那仏)を中心とする世界に組み入れていった。こうして形成された大乗仏教の一つの形態を、密教(秘密の教え)と呼ぶ。密教の実践は、神秘的な体験に基盤を置いており、正確に理解されるのは困難である。そのため、師匠は、念入りに弟子の状態を見極め、受け継ぐべき境地に達した弟子に、秘密裏に教えの心髄を伝授するのである。

曼荼羅を用いた修行
 初期の大乗仏教の出家者・在家信者は、ブッダの修行中の姿である菩薩に自らを重ね合わせ、輪廻を繰り返して六波羅蜜などを実践し、ブッダになることを目指していた。それに対して、密教では完成されたブッダに自らを重ね合わせることによって、修行の時間を短縮し、究極的には即身成仏、つまり現在世においてブッダになることを目指すようになった。

 具体的には手で印契(特定の手の型や動き)を結び、口に真言(真理を表す秘密の言葉)を唱え、精神集中を行うという三密の修行がなされた。これは、ブッダと同じ姿勢で、同じ言葉を発し、同じ心をもつことを意味する。

3番目の写真は古代インドのバラモン教の神々です。それが転じて仏教の守護神となった。ネパール、カトマンズ東方の世界遺産、バクタプールで。写真 田村 仁
 行者は精神集中の際に曼荼羅を観想する。曼荼羅とは、仏、菩薩、明王などの諸尊が集う仏の世界を表したもので、いくつかのタイプがあるが、『大日経』による胎蔵界曼荼羅と『金剛頂経』による金剛界曼荼羅が有名である。また、曼荼羅は実際に図像として描かれ、種々の儀礼に用いられる。インドでは、清浄な泥土で壇を築き、表層に白土を塗り、諸尊を描き、一連の修法が終わると破壊するのが通例であった。

 しかし、仏教がインド以外の地に伝播する中で、布や紙などに描く形式のものが一般的になった。

 八世紀後半以降、後期密教の段階に入ると、「タントラ」と呼ばれる経典が現れるようになった。それらは、密教の実践・教理の極端化をすすめ、しばしば性的要素を含む実践法をも説いた。女性が「般若(智慧)」、男性が「方便(慈悲に基づく救済手段)」を象徴し、男女が合一した状態が「悟り」を象徴すると考えたのである。

 こうした後期密教の教えは、東アジアには本格的に伝えられなかったが、チベット仏教の形成には大きな影響を与えている。(文・鈴木健太◎東京大学大学院博士課程)

以上では分かったようで分からない密教の説明をお送りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)