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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「昭和時代を考える(9)五・一五事件、二・二六事件、東條 英機」

2020年12月04日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和時代は1925年に始まり1989年、昭和64年に終わりました。昭和元年から昭和20年迄は暗い軍国主義の時代だったのです。
海軍将校による五・一五事件が起き、陸軍将校による二・二六事件が起き、やがて陸軍大将の東條 英機が総理大臣になり太平洋戦争を始めたのです。日本はアメリカ軍の徹底的な空襲により灰燼に帰しました。戦争犠牲者は310万人と言われています。
今日は連載の9番目として「昭和時代を考える(9)五・一五事件、二・二六事件、東條 英機」をお送り致します。
(1)五・一五事件
五・一五事件は、1932年(昭和7年)5月15日に日本で起きた反乱事件でした。武装した海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害しました。
大正時代に衆議院の第一党の党首が内閣総理大臣になるという「憲政の常道」が確立したことで当時の日本は議会制民主主義が根付き始めたのです。しかし1929年(昭和4年)の世界恐慌により企業倒産が相次いで社会不安が増していたいたのです。
海軍の戦艦数を制限する1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約に対し不満を持っていた海軍将校は若槻総理の襲撃を狙っていました。
立憲民政党(民政党)は選挙で大敗、若槻内閣は退陣し、総理大臣に犬養毅がなります。
この五・一五事件の計画立案・現場指揮をしたのは海軍中尉・古賀清志でした。古賀は昭和維新を唱える海軍青年将校たちを取りまとめるだけでなく、大川周明らから資金と拳銃を引き出させた。農本主義者・橘孝三郎を口説いて、主宰する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として組織させた。時期尚早と言う陸軍側の予備役少尉西田税を繰りかえし説得して、後藤映範ら11名の陸軍士官候補生も引き込んだのです。
昭和7年3月31日、古賀と中村義雄海軍中尉は土浦の下宿で落ち合い、第一次実行計画を策定した。計画は二転三転した後、5月13日、土浦の料亭・山水閣で最終の計画が決定した。具体的な計画としては、参加者を4組に分け、5月15日午後5時30分を期して行動を開始、そして総理大臣犬養毅を殺害しました。

1番目の写真は五・一五事件を伝える大阪朝日新聞です。

2番目の写真は総理大臣犬養毅のお葬式です。
首相官邸以外では次のような事件を起こしました。
内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行などがを襲撃しましたが死亡者はありませんでした。
第一組の一部は首相官邸を襲撃した後、警視庁に乱入して窓ガラスを割るなどし、その後日本銀行に向かい車の中から日本銀行に手榴弾を投げ、敷石等に損傷を与ます。
第二組の古賀清志海軍中尉以下5人はタクシーに乗って内大臣官邸に向かい、午後5時27分頃に到着、これを襲撃し、門前の警察官1名を負傷させたが、牧野伸顕内大臣は無事でした。その後、第二組は警視庁に乱入、ピストルを乱射して逃走します。これにより居合わせた警視庁書記1人と新聞記者1人が負傷します。
第三組の中村義雄海軍中尉以下4人はタクシーに乗って立憲政友会本部に向かい、午後5時30分ごろに到着、玄関に向かって手榴弾を投げます。
第四組の奥田秀夫(明治大学予科生で血盟団の残党)は、午後7時20分頃に三菱銀行前に到着、ここに手榴弾を投げ込み爆発させ、外壁等に損傷を与えます。
別働隊の農民決死隊7名は、午後7時ごろに東京府下の変電所6ヶ所を襲ったが、単に変電所内設備の一部を破壊しただけに止まり、停電はありませんでした。
血盟団員の川崎長光は西田税方に向かい面会し、隙を見て拳銃を発射、西田に瀕死の重傷を負わせたのです。
その他、この五・一五事件の詳細は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6 をご覧下さい。

(2)二・二六事件
二・二六事件は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて起こした日本のクーデター未遂事件です。
陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(陸軍幼年学校、旧制中学校から陸軍士官学校に進み任官した、20歳代の隊附の大尉、中尉、少尉達)は、かねてから「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が終息すると考えていました。彼らはこの考えのもと、1936年(昭和11年)2月26日未明に決起したのです。
決起将校らは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊等の部隊中の一部を指揮して、岡田啓介 内閣総理大臣、鈴木貫太郎 侍従長、斎藤實 内大臣、高橋是清 大蔵大臣、渡辺錠太郎 教育総監、牧野伸顕 前・内大臣を襲撃、首相官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。
そのうえで、彼らは陸軍首脳部を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えたが、天皇はこれを拒否。天皇の意を汲んだ陸軍と政府は彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。叛乱将校たちは下士官兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。しかし、事件の首謀者達は銃殺刑に処されます。
被害者は次の通りでした。
死亡
松尾伝蔵 (内閣嘱託、内閣総理大臣秘書官事務取扱・陸軍歩兵大佐)
高橋是清 (大蔵大臣)
斎藤 実 (内大臣)
渡辺錠太郎 (教育総監・陸軍大将)
警察官5名
重傷
鈴木貫太郎 (侍従長・海軍大将)
他警察官など負傷者数名

3番目の写真は叛乱軍の栗原安秀陸軍歩兵中尉(中央マント姿)と下士官・兵です。

4番目の写真は叛乱軍将兵です。左手前は丹生誠忠陸軍歩兵中尉です。

5番目の写真は内務省庁舎前で歩哨線を張る叛乱軍兵士です。
この二・二六事件の詳細は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6 をご覧下さい。

(3)東條 英機総理大臣の登場
東條 英機(1884年7月30日 - 1948年12月23日)は陸軍軍人、政治家、戦犯でした。階級は陸軍大将です。
軍人として陸軍次官、陸軍航空総監、陸軍大臣、参謀総長、政治家としては内閣総理大臣(第40代)、内務大臣、外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣を歴任しました。第二次世界大戦後に極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり、死刑判決を受けて処刑されました。
永田鉄山死後、統制派の第一人者として陸軍を主導し、現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任しました。(東條内閣、在任期間は1941年(昭和16年)10月18日 - 1944年(昭和19年)7月18日)。
在任中に太平洋戦争が開戦します。
権力強化を志向し複数の大臣を兼任し、1944年(昭和19年)2月からは慣例を破って陸軍大臣と参謀総長も兼任したのです。
日本降伏後に拳銃自殺を図りますが、連合国軍による治療により一命を取り留めたのです。
その後、連合国による東京裁判にて開戦の罪(A級)および殺人の罪(BC級)として起訴されます。1948年(昭和23年)に絞首刑の判決が言い渡され、1948年(昭和23年)巣鴨拘置所で死刑執行されました。享年65(満64歳)でした。
1941年(昭和16年)12月8日、日本はイギリスとの間で太平洋戦争に突入し、間もなくアメリカとの間にも戦いを開始します。マレー作戦と真珠湾攻撃を成功させた日本軍はその後連合国軍に対して勝利を重ね、アジア太平洋圏内でその作戦区域を拡大します。なお、開戦4日後の12月12日の閣議決定において、すでに戦闘中であった支那事変(日中戦争)も含めて、対連合国の戦争の呼称を「大東亜戦争」としたのです。

6番目の写真は1941年(昭和16年)10月18日、東條内閣の閣僚らと撮った写真です。岸信介も右端にいます。

7番目の写真は大東亜会議に参加した各国首脳です。左からバー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ナラーティップポンプラパン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボースです。
尚詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F をご覧下さい。

今日は五・一五事件、二・二六事件、東條 英機について説明しました。それにしても暗い時代でした。悪夢のような時代でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「楽しいクリスマスの風景写真」

2020年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム
師走になると日々が足早に流れ行きます。すぐにクリスマスもやって来ます。教会では4週間待降節のミサがあります。24日には家庭では子供たちと楽しいクリスマスパーティをします。そしてサンタからプレゼントを毎年貰ったり、大きなケーキと美味しいチキンを食べたりします。あるいは家族一緒で外食をしてご馳走を食べたりします。この季節は心楽しい季節です。
そこで今日はクリスマスツリーのある美しい風景写真をお送りいたします。
どうぞ皆様、楽しいクリスマスシーズンをお過ごし下さい。

1番目の写真はクリスマスシーズンなので、きらびやかにライトアップされた大浦天主堂です。写真の出典は、https://www.sankei.com/photo/photojournal/news/161222/jnl1612220001-n1.html です。

2番目の写真は五島列島の中通島にある桐教会です。カラン、カランと鐘の音が響き、清らかな歌声が聖堂を包み込んでいます。写真の出典は、https://www.sankei.com/photo/photojournal/news/161222/jnl1612220001-n1.html です。

3番目の写真は北海道美瑛町の星空とクリスマスツリーのモミの木の写真です。写真の出典は、http://starwalker.jugem.jp/?eid=1006 です。

4番目の写真はスウェーデンのクリスマスの風景です。
15世紀に建てられた教会のある「ルレオのガンメルスタードの教会街」(世界遺産)のクリスマスの風景です。写真の出典は、https://hokuo-guide.com/christmas-in-sweden です。

5番目の写真はフランスのパリです。パリの通りでは木に設置された青いイルミネーションがずっと続いています。写真の出典は、http://www.moshtravel.com/christmas-around-the-world/ です。

そしてクリスマスが近づいて来たので聖歌のYouTubeもお送りします。カトリックの教会で毎週、日曜日に歌っている聖歌も混じっています。URLをクリックしてお楽しみ下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=5Zw33qcJ12Y&list=PLKFzvc3KMkE03vHmFzeDTR22dCevw9yaV

https://www.youtube.com/watch?v=wzCCUZRoo2Y&list=PLKFzvc3KMkE03vHmFzeDTR22dCevw9yaV&index=2

https://www.youtube.com/watch?v=9MDGOjzjj3k&index=3&list=PLKFzvc3KMkE03vHmFzeDTR22dCevw9yaV

https://www.youtube.com/watch?v=m8JP7fSwljo

https://www.youtube.com/watch?v=7IYCfI6FRmU

日本にも各地に美しいイルミネーションが華やかに輝いています。このクリスマスの季節は心が浮き浮きします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「律令国家、武蔵国 の晩秋の風景写真を撮りに行く」

2020年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム
現在、皆様が住んでいる所は1300年前の律令国家の何という国だったでしょうか?
そして1300年前のその地方の風景を想像されたことがあるでしょうか? 私は時々そんなことを考えています。
現在、私が住んでいる小金井市は律令国家の武蔵国のほぼ真ん中にあります。武蔵国は今の東京都の西半分と神奈川県の東半分と埼玉県の大部分で、首府は現在の府中市にありました。近くには武蔵国の国分寺と国分尼寺もありました。
1300年前のこの地方の風景を想像してみます。近辺は武蔵野の原野が広がり、その中に広葉樹の林が散在していました。原野の所々には農民が切り開いた畑がありました。武蔵野の原野は水稲栽培にはむいていないので畑作が主なものだったのです。
そんな風景を探すと現在の所沢市の郊外の畑作地帯にあります。そこで、昨日行ってその風景を撮って来ました。
畑の向こうに晩秋の広葉樹の林が見える写真を5枚お送りします。









さて律令国家の制定は大化の改新(645年)に始まり、その確定は大宝律令(701年)で完成したと考えられています。この律令国家は最近では、「令制国」と書くのが普通です。
この令制国の名前は明治維新までの約1200年の間、日本の地方、地方の名前となっていたのです。
全国の律令国家の地図は、https://sekainorekisi.com/download/%E5%9B%BD%E7%9C%8C%E5%AF%BE%E7%85%A7%E8%A1%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9B%B3/ に掲載してあります。
現在の日本地図は明治維新の廃藩置県のよる新しい1都1道、2府、43県に分かれた地図になっています。

しかし江戸時代以前の歴史を少しでも考える場合には律令国の名前と場所を考える必要があるのです。それだけではありません。現在の日本の地方文化の中にも生きた言葉としてよく使われているのです。
皆様は阿波踊りや讃岐ウドンという言葉をご存知でしょう。美濃紙や越後米、丹波栗なども。出羽三山という山々や飛騨山脈もあります。伊予ミカンや伊賀忍者という名前もあります。武蔵野や相模原などの地名もあります。古来の江戸掘り方法に上総(かずさ)掘りというものもあります。
このように律令国家の名前とそれぞれの地方の特徴は現在の日本でも大変重要なのです。

皆様が現在住んでいらっしゃる場所は律令国家の名前で言うと何という所なのでしょうか?
その首都の国府や役所(国衙)は何処にあるのでしょうか? その国府や国衙(こくが)跡をご覧になったことがありますでしょうか?
そんなことを考えていると、自分が「いにしえの世界」に帰って遊んでいるような気分になります。

私の住んでいる場所をもう少し詳しくご紹介したいと思います。
ここは武蔵国です。奈良や京都から東山道(中山道)を東に歩き、現在の埼玉県で脇道の武蔵路に曲がり、南下した所の現在の東京都府中市に武蔵国の国府と国衙があったのです。府中市の国衙は現在の大國魂神社の境内に隣接した東側です。
大國魂神社は古墳時代から南関東地方の重要な神社だったのです。府中市には大熊神社古墳もあり古代から重要な集落だったのです。その理由で大和朝廷がここに国府を置き、国衙を建てたのです。そして国分寺や国分尼寺も作ったのです。江戸時代も甲州街道の重要な宿場として繁栄していた所だったのです。
ところが明治時代に鉄道の中央線が府中を通らなかったので往時の隆盛ぶりが消えたのです。
少し長くなったので今日はここで止めます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=================================
令制国一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A4%E5%88%B6%E5%9B%BD%E4%B8%80%E8%A6%A7

「全国の律令国家の地図」

明治初期の令制国の配置
令制国一覧(りょうせいこくいちらん)は、7世紀後半からの日本国内の地方行政区分、国(令制国)の一覧である。
令制国の改廃は、奈良時代までと明治時代になされ、その間の平安時代から江戸時代には長期にわたって変更がなかった。

この一覧では、五畿七道に従って配列し、廃止・消滅したものや一時的に存在した諸国はその中に字下げして付ける。この一覧が、すべての国を列挙するためのもので、多くの改廃を記していないことに注意されたい。それらの詳細は、各国の項目に記す。
日本全体を総称する際には、「日本六十余州」などと表現することもあった。

五畿

畿内
1、山城国 やましろ(山州、城州、雍州)
2、大和国 やまと(和州)
3、河内国 かわち/かはち(河州)
4、和泉国 いずみ/いづみ(泉州)
5、摂津国 せっつ(摂州)

七道

1、東海道

伊賀国 いが(伊州)
伊勢国 いせ(勢州)
志摩国 しま(志州) - 8世紀初めまでに伊勢国より分立。
尾張国 おわり/をはり(尾州)
三河国 みかわ/みかは(三州、参州)
遠江国 とおとうみ/とほたふみ(遠州)
駿河国 するが(駿州)
伊豆国 いず/いづ(豆州) - 680年に駿河国より分立。
甲斐国 かい/かひ(甲州)
相模国 さがみ(相州)
武蔵国 むさし(武州) - 771年、東山道から東海道に所属変更。
安房国 あわ/あは(房州、安州) - 718年に上総国より分立。741年に上総国に併合されるも757年再分立。
上総国 かずさ/かづさ(総州)
下総国 しもうさ/しもふさ(総州)
常陸国 ひたち(常州)

2、東山道

近江国 おうみ/あふみ(江州・近州)
美濃国 みの(濃州)
飛騨国 ひだ(飛州)
信濃国 しなの(信州)
諏方国 すわ/すは - 721年に信濃国より分立。731年に再統合。
上野国 こうずけ/かうづけ(上州)
下野国 しもつけ(野州)
陸奥国 みちのおく/みちのく/むつ(奥州/陸州) - 陸奥国は7世紀に常陸国より分立。
石背国 いわせ/いはせ - 718年に陸奥国より分立。数年後に再統合。
石城国 いわき/いはき - 718年に陸奥国より分立。数年後に再統合。
出羽国 でわ/では(羽州;山形県、秋田県の一部) - 712年(和銅5年)に越後国出羽郡を割いて出羽国を建てる。
陸奥国 (1869-) りくおう/むつ - 陸前・陸中等を分割後の部分。
陸前国 りくぜん - 1869年に陸奥国より分立。
陸中国 りくちゅう/りくちゆう - 1869年に陸奥国より分立。
岩代国 いわしろ/いはしろ(岩州) - 1869年に陸奥国より分立。
磐城国 いわき/いはき(磐州) - 1869年に陸奥国より分立。
羽前国 うぜん - 1869年に出羽国より分立、現山形県に相当。
羽後国 うご - 1869年に出羽国より分立、現秋田県に相当。

3、北陸道

若狭国 わかさ(若州)
越前国 えちぜん/ゑちぜん(越州)
加賀国 かが(加州) - 823年に越前国より分立。
能登国 のと(能州) - 718年に越前国より分立。741年に越中国に併合されるも、757年に再分立。
越中国 えっちゅう/ゑつちゆう(越州)
越後国 えちご/ゑちご(越州)
佐渡国 さど(佐州、渡州) - 743年に越後国に併合されるも、752年に再分立。

4、山陰道

丹波国 たんば(丹州)
丹後国 たんご(丹州) - 713年に丹波国より分立。
但馬国 たじま/たぢま(但州)
因幡国 いなば(因州)
伯耆国 ほうき/はうき(伯州)
出雲国 いずも/いづも(雲州)
石見国 いわみ/いはみ(石州)
隠岐国 おき(隠州)

5、山陽道

播磨国 はりま(播州)
美作国 みまさか(作州) - 713年に備前国より分立。
備前国 びぜん(備州)
備中国 びっちゅう/びつちゆう(備州)
備後国 びんご(備州)
安芸国 あき(芸州)
周防国 すおう/すはう(防州、周州)
長門国 ながと(長州)

6、南海道

紀伊国 きい(紀州)
淡路国 あわじ/あはぢ(淡州)
阿波国 あわ/あは(阿州)
讃岐国 さぬき(讃州)
伊予国 いよ(予州)
土佐国 とさ(土州)

7、西海道

筑前国 ちくぜん(筑州)
筑後国 ちくご(筑州)
豊前国 ぶぜん(豊州)
豊後国 ぶんご(豊州)
肥前国 ひぜん(肥州)
値嘉島 ちか - 876年に肥前国より分立。数年後に再編入。 現在の長崎県平戸島及び江島、平島を除く五島列島及び附属島嶼。
肥後国 ひご(肥州)
日向国 ひゅうが/ひうが(日州、向州)
大隅国 おおすみ/おほすみ(隅州) - 713年に日向国より分立。
多禰国 たね - 702年に日向国より分立。824年に大隅国に併合。
薩摩国 さつま(薩州) - 702年に日向国より分立。
壱岐国 いき(壱州) - 古代は「壱岐嶋」[1][2]。
対馬国 つしま(対州) - 古代は「対馬嶋」または「対馬国」