後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の日記、梅の花を眺め雑木林のたたずまいに胸打たれる」

2021年01月21日 | 日記
小金井公園で梅の花を眺め、遥かに雑木林を見やってそのたずまいに胸を打たれました。
今日も平和な老境の時間がゆっくり流れて行きます。
撮ってきた写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。









「バイデン大統領の外交政策と中国の覇権指向の脅威」

2021年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の将来は隣国の中国の世界の覇権指向の政策の影響を深く受けるざるを得ません。それは日米安保体制にある日本の大きな脅威になることは避けられない宿命です。
この中国の覇権指向の脅威をバイデン新大統領はどのように考えているのでしょうか?
わが国はじめ世界各国で早くも「バイデン・ドクトリン」なる外交安全保障政策の理念、具体策についての関心が高まっています。
そこで今日はバイデン大統領の外交政策と中国の工業技術の脅威を具体的に紹介したいと思います。

(1)バイデン大統領の外交政策。
以下は、https://wedge.ismedia.jp/articles/-/21952?page=2 からの抜粋です。
バイデン氏の発言および見解を考えると第46代米国大統領が推進するより具体的な外交・安全保障政策には、以下のように想定されます。
 1. トランプ政権が大きなダメージを与えた同盟諸国との関係修復・強化にただちに着手する。できるだけ早期に日欧主要国首脳との会談を行う。
 2.NATOおよびアジア太平洋における日本、韓国、オーストラリア同盟諸国については、引き続き防衛分担の増強を求めるが、これらの諸国に対するアメリカのコミットメントを(前政権のような)金銭的取引の対象としない。
 3.中国の存在を最重要視し、中国の世界経済に対する挑戦に対処していくため、価値観を共有する「世界の民主主義国間の連帯構築に早急に着手する。
 4.世界各国との通商においては、アメリカ国民の利益を守るため、相手国に対し「公平・公正なルール」の順守を求めていく。
 5.米軍事力の投入は目先の短期的目的のためではなく、長期的で戦略目的に合致したものでなければならない。「世界の警察官」となるのではなく、資源配分を厳格化する。
 6.北朝鮮核問題については、切迫した脅威であり、中国含め近隣関係諸国と緊密な連携の下に「非核化」実現に向けて協議していく。トランプ前大統領の時のような米朝首脳会談に安易に応じるつもりはなく、経済制裁強化を含め北朝鮮に対し厳しい姿勢で臨む。
・・・以下省略します。
以上のようにバイデン大統領は中国の脅威を最重要視していることは明らかです。
それでは中国の脅威とは何でしょう?
それはアメリカ攻撃を暗示した強大な軍事力と高度な工業技術に支えられた巨大な経済力です。幸い現在の時点でこの2分野では中国はアメリカよりも劣っています。しかし中国は成長しているのです。大きな脅威です。
そこで高度な工業技術の一例をご紹介したいと思います。

(2)中国の高度な工業技術の例
中国の工業技術の発展はめざましくコンピューター技術をはじめ全分野で世界の先端に立っています。しかし鉄鋼製錬技術や自動車製造技術は地味でマスコミであまり取り上げられていません。そこで今日はこの2分野についてご紹介いたします。

例えば鉄鋼製錬技術について見れば、2019年の中国の粗鋼生産量は長年連続で世界一なのです。
以下は、https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54931090Y0A120C2X93000 からの抜粋です。
世界鉄鋼協会が発表した2019年の世界粗鋼生産量は、前年比3.4%増の18億6990万トンと3年連続で過去最高だった。米中貿易戦争の長期化で世界の鋼材需要が鈍化する一方、中国は景気刺激策を背景に生産を拡大した。
中国の粗鋼生産量は8.3%増の9億9634万トン。4年連続で前年を上回り、過去最高を更新した。世界市場に占める中国の比率は約53%と前年(約51%)をさらに超えた。現状のペースで増産が続けば20年には世界で初めて生産量が10億トンを超える可能性がある。
一方、中国をのぞく主要国は米中貿易戦争の長期化の影響を受けている。日本は4.8%減の9928万トンと、10年ぶりに1億トンを割り込んだ。自動車など主力の製造業向けの需要が世界で低迷したためだ。国別では1位中国、2位インドに続き2年連続で世界3位だった

1番目の写真は中国の鉄鋼製錬工場の写真です。出典は、https://jp.123rf.com/photo_48693366_%E8%A3%BD%E9%89%84%E6%89%80%E3%81%AE%E7%82%89%E3%81%AE%E6%BA%B6%E8%9E%8D%E9%87%91%E5%B1%9E.html です。

2番目の写真は1番目の写真と同じです。
さて中国の地方都市の保定市の様子をご紹介します。北京から南へある河北省の州都で以前私自身が何度か行ったところです。

3番目の写真は保定市にある自動車製造会社の「長城汽車」の本社です。
写真の出典は、https://spc.jst.go.jp/hottopics/1710/r1710_chenx.html です。

4番目の写真は「長城汽車」で作った車の一例です。
「長城汽車」の本社は北京~開封高速を南西へ3時間程走って、保定南という高速道路の出口を出たら、5分足らずの所にあります。長城汽車は中国ナンバーワンのSUVメーカーです。
この会社は27年前、従業員が60人にも満たず、巨額負債を抱きぼろぼろの小さかった自動車修理工場でした。それが試行錯誤を繰り返し紆余曲折の道を歩み、現在では7万人の従業員を擁する、年間100万台の車を製造する大会社まで成長したのです。
このようなを「長城汽車」を支えたのが保定市にある河北大学の卒業生でした

5番目の写真は河北大学の一部です。写真の出典は、http://blog.livedoor.jp/jinying/archives/2719151.html です。
河北大学は現在河北省唯一の全国総合重点大学です。学部在校生は18951人 大学院生は3350人で、外国からの留学生も162人います。
そして河北大学は中国で最も古書を沢山保存している大学として中国古書保護大学に指定されているのです。

以上のようにバイデン大統領は外交政策の中で中国の脅威を強調しています。そこで中国の脅威を私は具体的に考え、その一例として地方都市の保定市の発展ぶりをご紹介しました。このような保定市の発展は中国全土で進行しているのです。中国の経済活動は間違いなく世界一になる勢いです。
アメリカの外交で中国を最重視しているのは当然です。この点ではトランプ前大統領もバイデン大統領も同じです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平穏をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、旧小金井村の光の春の風景写真を撮りに行った」

2021年01月20日 | 日記
私の住いんでいる所は昔、小金井村と言いました。今日は陽の光が明るく、春のようですが気温は大寒の真冬です。近所で旧小金井村の面影を探して光の春の風景写真を撮って来ました。写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









「ある修業僧へ送る梅の花の和歌と写真」

2021年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム
高野山で修業をし、お寺に属さないで托鉢しながら東日本大震災の被災地を支援しながら犠牲者へ読経していた修業僧がいました。高野山真言宗の僧侶の望月崇英さんです。
その修業僧がコロナで亡くなったという知らせを中村顕三さんという方から昨日頂きました。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
そして祈りながら万葉集の梅の花の歌5首と白梅の花の写真3枚をお送りいたします。花の歌5首は万葉集の梅の歌119首の中から選びました。(https://art-tags.net/manyo/flower/ume.html )

『梅を詠んだ歌、5首』

0818: 春されば まづ咲くやどの梅の花 独り見つつや 春日暮らさむ

0824: 梅の花散らまく惜しみ 我が園の竹の林に 鴬鳴くも

1840: 梅が枝に鳴きて移ろふ鴬の 羽白妙に沫雪ぞ降る

0832: 梅の花折りてかざせる諸人は 今日の間は楽しくあるべし

0846: 霞立つ長き春日をかざせれど いやなつかしき梅の花かも

そして白梅の花の写真3枚をお送りいたします。

1番目の写真は、https://www.pakutaso.com/20120319079post-1300.html からお借りしました。

2番目の写真は、http://www.i-nekko.jp/kurashi/2013-012514.html からお借りしました。

3番目の写真は、https://www.pakutaso.com/20120319079post-1300.html からお借りしました。

さて高野山真言宗の修行僧の望月崇英さんについては、私の2011年のブログ記事でご紹介いたした。その記事を以下に再録いたします。

『身元不明遺体の土葬に読経をする僧侶』(2011年06月13日 掲載、https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama )
高野山で修業をし、お寺に属さないで托鉢しながら東日本大震災
の被災地を支援している修業僧がいます。高野山真言宗僧侶の望月崇英さんです。
2011年4月上旬にはじめて行った被災地の東松島市での事です。身元不明の遺体を30体土葬にする場面に申して出て、読経をしたのです。そして一人一人を埋葬するとき丁寧にお経を唱え、引導を渡したそうです。もちろん身元不明ですから誰もお布施を出しません。
土葬には東松島市の環境課の相沢俊明さんが立ちあいました。相沢さんが言っています。「あの混乱の中でお一人ずつ丁寧に見送っていただき、ありがたかった。私たちも救われる気がしました」と。
修業僧の望月崇英さんは銀座で托鉢しながら、アルバイトをして、週末には被災地へ行ったのです。
被災地へ行くと、瓦礫で埋もれた民家の前や海岸に独り立って、お経を唱えます。心を込めて犠牲者の冥福を祈ります。誰も近づきません。遠くから家族を失った人々がソッと一緒に手を合わすだけです。

いろいろな支援の仕方があるという話です。それだけの話です。昨日の読売新聞35ページに載っていた話です。
そうして私は思い出します。昔、清朝の時代に北京では毎晩、赤子が街路に捨てられていたそうです。寒い冬には、朝まで凍った小さな遺体が幾つかあったそうです。当時、北京にいたイエズス会の神父たちが遺体を教会へ集め、お葬式をしてから埋葬していたそうです。不幸にして幼いまま死んだ子供達へ神様のいつくしみが豊かにあるように祈ったのです。神様が子供達を天にやさしく迎えてくれるように祈ったのです。清朝に仕えていたイエズス会のマッテオ・リッチ神父がローマ法王に送った書簡に書いてある話です。
上に書いた2つの話は何か似通っているような気がいたします。
つまらない話かも知れません。でも何か考えさせる話ではありませんか?
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以上の記事に対して、昨日、中村顕三さんという方が以下のようなコメントを下さったのです。
『望月崇英僧侶は、昨年末、知人との会食でコロナに感染し、昨日1月15日になくなりました。』(2021-01-19 20:24:37)

ご冥福を祈りながら、感動しました。たかがブログです。されどブログです。10年も前に発表した私の記事を中村顕三さんは覚えていたのです。85歳の私にとって大きな感動です。
このように毎日、何かに感動して老境の日々を送っています。皆様はどのように日々をお過ごしでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平穏をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「昔の友人の訃報で遥か故郷を想う」

2021年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム
昔仙台の中学校で親友だった杉下君の訃報を貰いました。享年84歳でした。野球とバレーボールの選手で明るい少年でした。当時、私は何度も彼の家に遊びに行きました。特に杉下君は世話好きでした。
彼は中学卒業以来、茫々60年ほど後の2012年と2013年の10月に中学校の同期生の親睦会を開催してくれたのです。東京から出席した私を彼は暖く心をこめて歓迎してくれたのです。2013年の同期会が彼と会ったのが最後になりました。
2012年の仙台市愛宕中学校の第二回生の同期会は秋保温泉でありました。私は卒業以来61年目に初めて出席しました。
61年目に再会した懐かしい友人たちが皆笑顔で迎えてくれたのです。
しかし2回生350人のうち76名以上もの人が旅立っていたのです。その中に一緒に遊んだ友だちが数人もいたのです。私は長い間、仙台を疎遠にしていたのです。
昔の友人の杉下君の訃報を貰っていろいろなことを思い出しました。
そこで今日は懐かしい我が故郷、仙台の思い出を書くことにしました。懐かしい故郷の片平丁、お霊屋下、鹿落坂、大年寺山、愛宕山などの写真もお送りいたします。2012年の同期会で仙台に行った時に撮った写真です。

さて仙台は伊達政宗が作った町です。青葉山に政宗の居城がありその北に市街が広がっています。そして政宗の霊廟は経ヶ峰という山にあり、その下の町を霊屋下(おたまやした)と言います。霊屋下から広瀬川を下ると愛宕山があり、その下の橋を愛宕橋といいます。
愛宕中学校の学区は霊屋下から愛宕橋までの広瀬川の南側の丘陵地帯だったのです。
経が峯も、愛宕山も大年寺山もそして八木山の一部も自然保護区のようです。何十年経っても昔のままの森林に覆われています。
そんな風景をタクシーに乗りながら撮った写真をお送りいたします。タクシーの上からですのですので出来たの悪い写真です。

1番目の写真の赤レンガの建物は私が1958年に卒業した東北大学の金属工学科の建物です。あれから茫々63年になります。この辺は片平丁と言います。

2番目の写真は金属材料研究所の前の道にある小さな三角形の公園です。戦争前から存在していた公園でヨーロッパ風の小さな公園です。それが現在でも存在していたのです。

3番目の写真はお霊屋橋(おたまやばし)です。
お霊屋橋は正宗の廟所への入り口なので白い石材で綺麗に出来ていて写真のように欄干の上には石燈籠があります。

4番目の写真はお霊屋橋の欄干です。右手に正宗の廟所がある経ヶ峰の森が見えます。欄干の間には広瀬川が見えます。そして経が峯の裾を左の方向へ登っている道が鹿落坂です。

5番目の写真は鹿落坂(ししおちざか)です。昔は車道が狭くて、左側に広い歩道がついていて人間が下の広瀬川の景色を見ながら登れたのです。
月夜の夜にカジカの鳴き声を聞きながら叔父さんに肩車をして貰って登ったことを鮮明に憶えています。昭和15年のある夏の夜でした。その叔父さんもとっくに亡くなりました。

6番目の写真は向山を歩き、愛宕橋に出て大年寺山を振り返って撮った写真です。
鉄塔はテレビ塔で、仙台の民間放送会社が使っています。NHKは八木山の方にテレビ塔があります。

7番目の写真は愛宕橋から見降ろした広瀬川です。この写真の場所には貸しボート屋があり随分何度も乗ったものでした。当時は生活排水をそのまま広瀬川へ流していたのでいつも腐ったような臭いがした広瀬川でした。現在は貸しボートの影も形もありません。時代の移り変わりにしばし感慨を覚えます。

2013年の同期会の時には仙台へ新幹線で行って仙台駅でおりました。そこから私は大町を通り抜けて、一番丁で右折し、三越のそばの同期会の会場まで歩いてみました。昔のことを思い出しながらゆっくり歩きました。
仙台での一番の繁華街の一番丁で昔あった店を探しながら行ったのです。しかし存続していたのはたった2軒です。メガネの相沢と井ケ田茶店だけです。あとは見知らぬ店々がえんえんと続いているのです。故郷も様変わりするのです。

皆様にも故郷はあるのと思います。そして故郷の思い出は財産です。とくに高齢者になってみると、「故郷の思い出」こそが大切な財産になるのです。

今日は昔の友人の訃報に接し故郷のことをいろいろ思い出しました。そして我が故郷、仙台の風景写真をいくつか掲載いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平穏をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「近所の散歩道の風景写真です」

2021年01月18日 | 写真
今日は昨日の暗い曇天が嘘のような晴天です。明るい陽射しに誘われて近所の散歩道の風景写真を撮りに行きました。自宅の周囲は家々が並んでいますが、200メートル位北へ行くと元禄9年、1696年に出来た小金井分水の築堤があり良い散歩道になっています。そのそばには稲穂神社もあります。小金井分水とは玉川上水から分水して小金井村の畑に水を送る水路のことです。今日撮って来た写真をお送りします。











「今日のカトリック聖イグナチオ教会のミサの写真」

2021年01月17日 | 写真
今日のカトリック聖イグナチオ教会のミサの写真を3枚お送りいたします。
ミサの司式は主任司祭の英隆一朗神父さまでしたが、助祭は古田匡史神父さまでした。
助祭の古田匡史神父さまはこの聖イグナチオ教会の信徒だったそうです。洗礼は昔風の縦長の教会で受けたと話しておられました。
ミサの終わりで主任司祭の英隆一朗神父さまが暖かい言葉で古田匡史神父さまを紹介しました。
2番目の写真が説教している助祭の古田匡史神父さまです。





「今日はカトリック聖イグナチオ教会の動画配信ミサにあずかります」

2021年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム
コロナが怖いので今週は教会のミサには出ません。その代わりカトリック聖イグナチオ教会の動画配信ミサにあずかります。
今日は年間第二主日で10時から始まるミサの動画配信ミサは、https://www.ignatius.gr.jp/news/streaming.html にあります。
司式は主任司祭の英隆一朗神父さまです。
今日教会に行かない方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

カトリック聖イグナチオ教会は上智大学の構内にありますが大学とは別組織でイエズス会が管理運営しています。
2008年(平成20年)での信徒数は13,966人、2009年(平成21年)には14,382人となり、信徒数では日本最大規模の教会です。
この教会はステンドグラスが美しいのです。そこでその写真を示します。
写真の出典は、https://woman.chintai/article/odekake/1251_ignatius/ です。

1番目の写真は礼拝堂の上部にあるステンドグラスです。

2番目の写真は礼拝堂の内部です。

3番目の写真は聖イグナチオ教会の丸い外観です。四ツ谷駅の階段を上がって行くとすぐ目につきます。上智大学の正門の脇にあります。

英隆一朗神父さまはカトリック・イエズス会の司祭です。1960年神戸生まれで1993年司祭に叙階されました。現在、聖イグナチオ教会(カトリック東京大司教区・麹町教会)の主任司祭です。
私は以前に聖イグナチオ教会によく行った時期がありました。当時の礼拝堂は木造で昔風の縦長の教会でした。懐かしいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「韓国理解のために(7)韓国は1919年の上海の亡命政府から始まる」

2021年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム
1910年(明治43年)に韓国併合条約が現在のソウル市で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、日本は韓国を併合しました。
しかし1945年の敗戦により日本は朝鮮併合をを解消します。
日本人は隣の大韓民国は1945年の日本の敗戦によって生まれた新しい国だと誤解しています。
しかし韓国人は日本の朝鮮併合に反対して、上海に1919年に作った大韓民国臨時政府が現在の大韓民国のはじまりだという教育を受けています。
その事は現在の韓国の憲法の冒頭に書いてあるのです。
・・・悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と・・・以下省略。
ここに出て来る3・1運動とは韓国人なら誰でも知っている1919年の朝鮮独立運動のことです。
これは冷厳な事実です。

今日は1919年韓国に韓国の臨時政府が出来た経緯をご紹介いたします。

1919年の「三・一独立運動」は拡大する一方でした。朝鮮半島の各地で、そして外国でも亡命政府の樹立の計画が進められました。
特に上海には多くの朝鮮人独立運動家が集結していました。彼らは臨時議政院を設立し李承晩を首班とする閣僚を選出したのです。そして臨時憲章を制定し、1919年4月に大韓民国臨時政府の樹立を宣言したのです。
この李承晩こそ終戦後の韓国の大統領になった人物なのです。
それはさておき同じころ、京城(ソウル)とシベリアでも臨時政府が樹立されました。しかしそれらは上海の臨時政府に統合されたのです。
1919年9月に統合された臨時政府は国務総理に李東輝を選出し、1920年に李東輝が臨時政府を去ると李東寧と申圭と盧伯麟が国務総理代理を引き受けます。
この国務総理代理体制は1922年9月まで続き、その後、李承晩により提案された大統領制に改編されたのです。そして1925年には朴殷植を大統領に選出しました。
この上海の臨時政府を朝鮮国内の連通府と交通局が秘かに支援していました。海外の居留民団組職も支援していました。
その上、江原道と忠清道の一部には大韓独立愛国団があり中部以南には大韓民国青年外交団が独立運動を秘かにしていました。
この時期にはソウルの大韓民国愛国婦人会や平壌の大韓愛国婦人会や大韓赤十字会も上海の大韓民国臨時政府と関係を持ち活動していたのです。
(上記は、http://ja.wikipedia.org/wiki/大韓民国臨時政府 より抜粋、転載しました。)

この三・一運動は1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起こった運動です。独立万歳運動や万歳事件とも呼ばれています。現在の韓国では3月1日を三一節として祝日に指定しています。
日本では朝鮮併合は彼等の希望でなされたものだという主張が多くなされています。しかし上海の臨時政府のことを詳しく知ると、日本人は大きな誤解をしていることが分ります。

日本人が上海の臨時政府のことを無視し、韓国人が重大視しているのです。この大きな違いが日韓関係を難しくしているのです。そのことの善悪を私は論じません。今日はただ上海に韓国の臨時政府が出来た経緯を書いただけです。

今日の挿し絵代わりの写真は「日本統治時代の朝鮮」です。https://y294maself.blog.fc2.com/blog-entry-343.html からお借りいたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は京城市(現在のソウル市)の京城・南大門通り一丁目です。

2番目の写真は京城市(現在のソウル市)の京城鐘路の百貨店・和信です。

3番目の写真は,京城市(現在のソウル市)の京城本町一丁目、郵便局横です。

4番目の写真は京城市(現在のソウル市)の京城本町一丁目入口の郵便局前です。

5番目の写真は,京城市(現在のソウル市)の旧市街の寸描風景です。
===参考資料====================================
大韓民国臨時政府大統領の一覧

1 李承晩 1919年4月10日 - 1925年3月 1925年に弾劾
2 朴殷植 1925年 1925年に病死
3 李相龍 1925年 - 1926年
4 李東寧 1926年
5 洪震 1926年8月-12月
6 金九 1926年12月 - 1927年3月
7 金九 1927年3月 - 1927年8月
8 李東寧 1927年8月 - 1930年
9 李東寧 1930年 - 1933年
10 梁起鐸 1933年 - 1935年
11 李東寧 1935年 - 1939年
12 李東寧 1939年 - 1940年3月 1940年に病死
13 金九 1940年3月 - 1940年9月
14 金九 1940年9月 - 1944年4月
15 金九 1944年4月 - 1947年3月3日
16 李承晩 1947年3月3日 - 1947年9月
17 李承晩 1947年9月 - 1948年8月15日

「韓国理解のために(6)卓越した磁器焼成と美しい白磁」

2021年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様は柿右衛門が磁器に赤絵の焼き付けに成功したことを学校の教科書で習ったことを憶えていると思います。それは1646年のことでした。
それ以前、秀吉の朝鮮出兵まで日本では、磁器の焼成ができず土器を焼いた須恵器という器しか出来なかったのです。それが連行されて来た朝鮮の陶工たちによって初めて磁器が焼成されたのです。それは革命的な技術革新でした。
この新しい技術には2つの絶対条件が要求されます。
(1)磁器になる岩石成分を多く含有する磁石(じせきと言い、じしゃくとは違う)を発見する技術。
(2)焼成する炉の熱効率を上げて1000度以上の温度が出る構造の焼成炉を作る技術。
この二つの技術が日本には無かったのです。

それはさておき日本で現在でも尊重されている朝鮮の李朝白磁の歴史を見てみましょう。
李朝の陶磁器は、初期には粉青沙器が主流でしたが、17世紀以後は白磁に変わりました。
中国の元、明の白磁の影響を受けたものですが、17世紀には色が青味がかり李朝末期には濁った白色に変わったのです。
李朝では、磁器の製造は官窯でである工匠が行っていました。
1752年に広州に分院の官窯が作られ生産の中心になっていましたが、1883年に分院が民営化され官窯の歴史は終わったのです。
コバルト顔料で下絵付した青花も作られましたが、コバルト顔料が不足したため、鉄絵具で下絵付する鉄砂や銅絵具で下絵付する辰砂(赤茶色)も作られたのです。
しかし李朝白磁の95%以上は他の色による装飾がない純白磁であり、江戸時代に日本で作られていたような華やかな色絵磁器は李氏朝鮮には存在していません。
さて李朝の白磁は素朴で暖かみがあります。その上、上品な感じがします。見る人の心をなごやかにするのです。私も好きです。現在の日本人も尊重していますので、その写真を示します。写真の出典は、http://www.nakamaga.com/newpage11.html  です。

1番目の写真は李朝初期の白磁壺です。

2番目は李朝初期の白磁皿です。

3番目は初期の白磁徳利です。

4番目は李朝中期の貝文大徳利です。

5番目は李朝後期の大白磁徳利です。

さて朝鮮から連行されて来た陶工達はどのようにして上の新しい技術を伝えたのでしょうか?
この問題を詳細に研究して発表している専門家がいます。彼は東京都の東京都の清瀬市郷土博物館の学芸員の内田祐治さんです。以下は彼の2008年6月発表の研究論文、http://www.museum-kiyose.jp/image/im/imari.pdf からの抜粋です。
佐賀県の一帯には、古来より須恵器からつづく窯が点在していました。その景観が一変する契機となったのが、次の秀吉による朝鮮半島への出兵でした。  
  ・文禄の役(1592 ~ 94)
  ・慶長の役(1597 ~ 98)
 この文禄・慶長の出兵により、数多くの朝鮮人が連行され、わが国へ渡って来たのです。そのなかに陶工達がいました。
 もともと朝鮮半島での戦は恩賞としての領地を与えられぬ戦です。
そこで朝鮮陶工を帰化させることにり諸藩へ新たな窯業を興させ、それをもって恩賞に代えることにしたのです。それが秀吉の政策でした。
 彼らは付き従った諸藩へ帰化し、各々の領主の庇護を受けて陶器の焼造をはじめたのです。それらは後に、唐津焼、上野焼、高取焼、薩摩焼、萩焼と呼ばれる窯業地帯を形成させていったのです。     
なかでも多数の朝鮮陶工をともない、後の唐津焼きの礎を築いたのが北九州の鍋島藩、平戸藩、唐津藩でした。
その陶工らは、松浦、佐賀、多久、武雄、平戸、諫早に陶土をみいだし、それぞれの窯を築いたのです。
やがて有田西部の乱橋に移住した李参平は、有田川上流の泉山の地で磁器原料となる磁石を発見します。
李参平は上白川の天狗谷に窯を築き、磁器の試作を完成させました。これこそが我が国で初めて磁器が焼成された新しい技術革新でした。
そして正保三年(1646)、酒井田柿右衛門が赤絵に成功したのです。
国産赤絵の成功を契機に、藩は一方で磁器製法の秘術を守り抜くために有田皿山へ番所を設け商人の直取引を禁じ、他方で海上輸送の焼物の集積港である伊万里津へ買い付けの場を定め販売の制度を確立しました。
美しい絵模様のついた磁器はやがていろいろな藩で焼成されるようになり藩財政を潤したのです。そして江戸時代の外国貿易の主要な輸出品になっていったのです。その詳細は是非、清瀬市郷土博物館の学芸員の内田祐治さんの研究論文をご覧ください。

現在、日本の陶磁器生産技術は世界でも一流です。生産される陶磁器の品質は非常に高く評価されています。
この原因は上記のように李氏朝鮮からの技術者の導入にあったのです。李氏朝鮮のお陰だったのです。それは輝かしい朝鮮文化の一つでした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料============
李 参平(り さんぺい、生年不詳 - 明暦元年8月11日(1655年9月10日))は、 朝鮮出身の陶工で、有田焼(伊万里焼)の生みの親として知られている。日本名は金ヶ江 三兵衛(かながえ さんべえ)。現在も直系の子孫が作陶活動などを行い、14代まで続いている。
現在の14代の陶芸家のホームページは下記をご覧くださ。
http://toso-lesanpei.com/owner/index.html
・・・ 十四代金ヶ江三兵衛の挨拶・・・・
草創期の有田焼から感じる陶工たちの想いと技術を蘇らせ、李参平の子孫として日々精進しております。
そして、その作陶活動から韓日文化交流の架け橋のひとつになりたいと思います。 ・・・以下省略

「今日の日記、梅の花の写真を撮りに行く」

2021年01月14日 | 日記
今日も快晴で最高気温が15℃と春のような日和です。小金井公園に梅の花の写真を撮りに行きました。咲いている木は少なく5本位です。残りの数十本の梅の木はまだまだ蕾が固く締っています。やはり2月にならないと満開にならないようです。
今日写した写真をお送り致します。





「とりとめもない冬晴れの午後の日記」

2021年01月14日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は気持ちの良い快晴でした。車を駆って神奈川県の相模湖と宮ケ瀬湖の二つの湖の写真を撮って来ました。その写真をお送り致します。始めの3枚は相模湖の風景で後の4枚は宮ケ瀬湖です。















昨日は快晴ながら寒い日でした。特に湖畔は冷い風が吹いていました。家内はお気に入りの「虹の吊り橋」を走って往復していました。帰りに何時も寄る山のパン屋でいろいろなパンを買いました。
昨日の日記です。書いてみて何も内容の無いことに驚きます。日記は他人に見せるものではないから内容が無くても良いと言う人がいます。
しかしインターネット上に公開する以上は少しは内容があった方が良いに決まっています。
そこで「湖畔の詩」を検索したら山梨県のある湖畔に住んでいた詩人の作品を見つけました。その名前は野澤一です。彼の記念碑にある詩を次に示します。

『ああ、されど湖のみは いつもながらの風光に かげうららかに
桃の枝は育ち 栗鼡はないて 小鳥はあのたのしいさわがしい 唱をうたい
山は立ち 水はほとばしりいでて とこしえに しびれの湖と たたえられてあれよ』

そして「山深い湖畔に独居し、優しい詩を詠んだ『日本のソロー』を訪ねる」(https://www.pen-online.jp/creator/culture/lake-shibire/1 )という記事に次のようなことが書いてあります。
・・・ソローは、19世紀のアメリカ人作家。出身地であるマサチューセッツ州のウォールデン湖畔に小屋を建て約2年間自給自足で暮らした人物で、その生活を記録した著書『森の生活 ウォールデン』はよく知られている。・・・

さて『ウォールデン 森の生活』はヘンリー・ソローによる著作で、1854年にティックナー・アンド・フィールズ社から出版されました。彼がウォールデン湖のほとりで1845年から2年2ヶ月に渡って小屋で送った自給自足の生活を描いた回想録です。
作者の死後に評価が高まりアメリカノンフィクション文学の最高傑作の一つと称されるようになります。

近年、日本でも沢山訳本が出ています。
佐渡谷重信訳『森の生活 ウォールデン』 講談社学術文庫 1991年
飯田実訳『森の生活 ウォールデン』(上下)、岩波文庫、1995年 / ワイド版、2001年
酒本雅之訳『ウォールデン』 ちくま学芸文庫、2000年
今泉吉晴訳『ウォールデン 森の生活』 小学館、2004年 / 小学館文庫(上下)、2016年
真崎義博訳『森の生活』 宝島社、1995年、新版2005年 / 宝島社文庫、1998年、新版2002年

上記で詩を紹介した野澤一もソローの本に感銘し山梨県のある湖畔に独り住んだのです。

このように静かな湖が好きな人が古今東西たくさん居るのです。
昨日は相模湖と宮ケ瀬湖の湖畔でとりとめも無くそんなことを考えていました。

とりとめもなく内容も無い日記を書いてしまいました。

それはそれとして今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「韓国理解のために(5)韓国の美少女、おたあジュリアの話」

2021年01月13日 | 日記・エッセイ・コラム
この連載記事では今まで朝鮮の歴史や宗教や文学という固い話が続きました。そこで今日は少し趣くを変え、韓国の美少女、おたあジュリアの話を紹介したいと思います。
おたあジュリアは日本へ拉致されて連行されて来ました。秀吉の朝鮮出兵の時、小西行長に連れて来られたのです。そしてキリスト教の信仰を捨てなかったので伊豆七島の神津島へ流されたのです。その島で彼女は貧しい人々を助け、島の人に非常に大きな感銘を与えたのです。
私は2006年に神津島へ旅をして「おたあジュリア」が今でも島の人々に大切にされ尊敬されていることを知りました。

1番目の写真は神津島の写真です。写真の出典は、http://runo345.btblog.jp/ です。

2番目の写真は2006年に私が撮った神津島の荒波です。神津島は太平洋の波頭に浮かぶ小さな孤島なのです。

おたあジュリアが日本へ連行されて来た後にキリシタン弾圧が次第に厳しくなっていました。
その頃、キリシタンとして捕まったおたあジュリアはむごい拷問にあいます。しかし絶対に棄教しなかったのです。
ジュリアは磔の刑を免れて神津島への遠島の刑を言い渡されます。
流された神津島では、ジュリアは罪人にも拘わらず貧しい人々の世話をして島民に愛されます。島民に尊敬され、親切にかくまわれます。
その時代にはキリシタンへ親切にしたり、尊敬した人々はキリシタンと同罪の罰を受けます。
ですから神津島の島民はジュリアを尊敬している事を絶対に秘密にしていました。それは島の人だけの恐怖の秘密だったのです。
時代は明治維新になり、明治、大正となりましたがジュリアを尊敬しているということは大声で話すことではなかったのです。

話は変わりますが、2006年に私は満70歳になったので仕事を一切止めました。
そして伊豆七島の神津島へ東京から高速水中翼船で4時間、遥か外洋に浮かぶ小さな火山島へ小さな旅をしました。山ばかりで平地が少ない小さな島でした。島では民宿に投宿しました。
そして燗酒を傾けつつ、宿の主人から島の昔話を聞いたのです。
彼は低い声で話し出しました。
「朝鮮風の石碑が岬に有りますよ。おたあジュリアの墓です」 と。
しばし沈黙の後、彼は話し出します。
「小西行長が朝鮮征伐のとき連れ帰った娘です。キリシタンだったのでここへ流された女です。当時の島の貧しい人々を助け勇気づけたので女神のように思っている人が多いです」 ・・・・
「おたあ、は立派な女です。元気に島の人々の面倒を良くみたのです。困った人の相談に乗り、悲しむ人々を慰めました。おたあは本当に優しく賢い女だったのです」 ・・・・
「おたあ、に島の人々は感銘を受け、彼女の島での生活を温かく助けたのです。しかしキリシタンを助ければ幕府から重い処罰を受けます」 ・・・・
「ですから神津島の人々はこのおたあジュリアのことは絶対に秘密にしたのです」・・・「秘密は明治、大正になっても固く守られたのです」・・・
「島の人々は今でも、おたあのことを尊敬しています。まあ、つまらない話かもしれませんが」・・・

現地へ行ってみないとローカルな歴史は分からないものです。神津島とおたあジュリアの歴史は島の民宿に泊ったので知ることが出来たのです。
神津島への旅の後すぐにおたあジュリアのことを調べてみました。
おたあ、は3歳の時、日本へ連れて来られ、アウグスチノ小西行長の養女となり、洗礼を受け、ジュリアという名を授かりました。関が原の合戦の後、小西は石田三成とともに三条河原で斬首されます。
そしておたあは家康の側室の侍女となります。しかし信仰を持っていたので家康の言いなりになりません。
そんなおたあは桃山、江戸、駿河と移され、禁教令と共に神津島へ流刑になったのです。
それは慶長17年、1612年のことでした。小西行長の友人の石田三成一族も神津島へ隠れ住み、ジュリアを助けたという話もあります。
現在は、毎年、神津島おたあジュリア顕彰会などの主催で「ジュリア祭り」があります。カトリック東京大司教区と韓国のカトリック教会が共同でおたあジュリアの慰霊祭も同時に行っているのです。

3番目の写真はおたあジュリアの絵です。
ジュリアの姿絵は、https://www.asahi.com/articles/photo/AS20190515000709.html から転載しました。

4番目の写真は神津島にある記念塔で彼女のお墓と想定されています。

5番目の写真は韓国の切頭島へ神津島から引っ越したジュリアのお墓です。1972年日韓の友情によって移設されました。

毎年、5月になるとジュリア祭りが現在でも開催れています。2019年にも5月8日にで第50回目のジュリア祭りが開催されました。おたあジュリアは慶長2年(1597年)に日本へ連行されたとすると、神津島へ来た時はまだ18歳の若さでした。

今日は孤島、神津島とおたあジュリアの話をご紹介いたしました。

それはそれとして今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「韓国の海印寺に泊まった体験記」

2021年01月12日 | インポート
韓国には全国各地に外国人も泊まれるお寺があります。泊まる目的によって体験型、休息型、そして修行型と分れています。
以下は体験型宿泊の体験記です。原典は、https://www.tabisen.com/country/asia/korea/post-4667.html です。
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今回泊まったはお寺は世界文化遺産である八万大蔵経が保管されている慶尚南道・陜川郡の海印寺です。
海印寺の宿泊体験は午後4時半から始まります。まず和尚様から礼儀作法を学び、その後実際に礼拝をします。それが終わると、数珠つくり体験があります。これは紐に108個ある数珠を通す作業なのですが、意外に難しく神経を集中させながら行います!その後就寝。
次の日は朝3時に起床です。朝早くまだあたりは真っ暗ですが、3時15分には礼拝へ向かいます。和尚様が大きな太鼓をたたいていらっしゃるところも見学できます。その後、昨日作った数珠で数えながらの108拝です。1拝1拝思いをこめてするので、あっという間に終わってしまいます。
108拝後は、和尚様の案内で広い海印寺を見学します。実際に八万大蔵経を見ることはできませんが、宿泊を体験した場合は所蔵されている場所まで近づくことができます!
11時には終了ですが、日常生活と違った時間を過ごすことで、終了後すっきりとした気持ちになれます。
この宿泊体験の写真をを3枚示します。





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なお韓国の48のお寺の巡礼と宿泊は三進トラベルサービスという会社が企画、運営しています。詳しくは、https://www.sanshin-travel.com/specialsite/templestay/ts_kyeong.html をご覧ください。

何故48ケ所ですか?
阿弥陀仏が法蔵菩薩として修行していたとき、それに先立って立てた願である四十八願にちなんでいます。これら48の願は、すべて衆生の悲しみ苦しみをすべて観察した上で立てられたものであり、その解決が示してあります。
また、釈迦(ゴータマ・シッダッタ)が旧暦の4月8日に生まれたという伝承に基づき、釈迦の誕生を祝う行事である灌仏会(かんぶつえ)も4月8日に行われるなど、48という数字は仏教においては深い意味をもちます。
そんなことを想いながら四十八寺を回り、功徳を施してみてはいかがでしょうか?