日本に古事記や日本書紀,萬葉集があったように百済、新羅、高句麗の三国にも同じような文学作品や歴史書があったのです。そして百済、新羅、高句麗の以前から「郷歌」という漢詩に相当するような詩歌が連綿とあったと言われています。
朝鮮の古典文学や書物の歴史については近畿大学の山田 恭子氏が体系的に良く整理した詳細な研究報告書を発表しています。彼女は韓国国立ソウル大学校人文大学院国語国文学科の古典文学専攻博士課程修了していて朝鮮の文字や文書の専門家です。
そこで今日は山田 恭子氏の下記の学術書を簡略化してご紹介したいと思います。
「文学からの接近:古典文学史:―― 時代区分とジャンルを中心に」、山田 恭子、http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/nomahideki/edu_04_004_yamada_se4l.pdf
この研究論文ではまず韓国古典文学史を考える上で重要な時代区分やジャンルについて言及し、韓国古典文学の全体像を把握することを目的としています。
そして時代区分を以下のように6つの時代に別けています。
口碑文学,漢文学,国文文学(ハングル文字)の研究結果から,古代前期、後期、中世前期、後期,近世,近代の6 期に分けて考察しています。
口碑文学は5世紀になって漢字や漢文学が入ってくるまでの口承文学です。この口承文学は後に「帝釈本解」へと発展します。
そして古代後期とは,建国神話の出現,漢字伝来と漢文学の成立,郷歌の形成に至るまでの時代をさすそうです。
郷歌とは,新羅の三国統一期である6 世紀頃から高麗中期である13 世紀まで存在した文学形式を意味します。しかし広義の郷歌とは紀元前からあった形式で中国漢詩に対する当時の朝鮮の歌謡を広くさす呼称でした。
そして百済、新羅、高句麗の三国時代には.『三国史記』や『三国遺事』が書かれたのです。
それはさておき、中世文学の時代は、漢文学の時代です。科挙制度の前身ともいえる新羅の読書出身科が788 年に,本格的な科挙試験は958 年に実施されたことも漢文学の隆盛とつながったのです。しかし漢文学は訓民正音を用いた国文文学とも共存しました。
最初は漢字を利用した吏読 を通じて,次には朝鮮語を直接表記できる訓民正音との併用されたのです。私が想像しているのはこの訓民正音は日本の万葉仮名に相当するものと思います。
中世前期は郷歌と漢文学,特に漢詩が盛行したのです。
そして1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、「訓民正音」を正式に公布し、公文書にも使用するようになったのです。それが現在のハングルです。
朝鮮では日本と同様に教養のある人は現在でも漢字の読み書きが出来るのです。
以上のように朝鮮の文学は日本と同様にいろいろな分野があり、内容も豊かなのです。それが何故伝わって来なかったかを簡単に書いておきます。
原因はいろいろあるでしょうが、一番大きな原因は中国文化があまりにも輝かしかったからです。朝鮮文化は中国文化の亜流とみなしたのです。ですから大和朝廷は遣隋使や遣唐使を派遣して本家本元の中國文化を導入してきたのです。
その目的は中国の政治組織や制度、そして輝く文化を導入して大和政権の権威を上げ、政権基盤を盤石にするためだったのです。この伝統は朝鮮民族の輝かしい文化の客観的な評価を妨げたのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
今日の挿絵代わりの写真は大韓民国の歴史的村落:河回と良洞の写真です。
出典は、https://worldheritagesite.xyz/yangdong/ です。
===参考資料:=========================================
最後に韓国人なら誰でも知っている小説の「春香伝」と「帝釈本解」のあらすじをご紹介します。
(1)「帝釈本解」の内容
裕福な家に1 人の娘がいて,大切に扱われていた.ある日両親は娘を置いて出かけなければならない用事ができ,娘は一人家で留守番をしていた.
そのとき道僧が尋ねてきて布施米を請うた.娘は米を袋に入れるが,穴が開いていてなかなか米がたまらなかった.こうしているうちに夜遅くなり,僧は娘の家に一晩泊まることになった.道僧が帰った後,娘がはらんだことを知った両親は激怒し,娘を家から追放する。
娘は僧を訪ねて行き,そのまま住みつき3 人の息子を生んだ.道僧はそれが自分の息子であることを確認するために試練を課し,双方の血が再結合したことで父子関係を認めた.
このような内容は,超現実的方法によって父母の承諾もなしに妊娠し追い出される点や,息子と父親との出会いと親子関係の確認が行われる点で,李圭報(1169-1241)の『東国李相国集』などに共通しています。
(2)春香伝とは、そしてその粗筋
春香伝は李氏朝鮮時代の説話で、妓生の娘と貴族の両班の息子の身分を越えた恋愛を描いた物語です。
18世紀頃、民族音楽的語り物であるパンソリ、すなはち「春香歌」の演目「春香歌」として広まるとともに、小説化も行われました。韓国では現在も人気のある作品であり、映画化も何度か行われています。
あらすじは次のようなものです。
南原府使の息子の李夢龍と、妓生(キーセン)である月梅の娘の成春香は、広寒楼で出会い、愛を育みます。しかし、父の南原府使としての任期が終わり、李夢龍は都に帰ることになります。夢龍と春香は再会を誓い合って別れます。
新たに南原府に赴任した卞府使は、成春香の美貌を聞きつけて我が物としようとすます。
しかし成春香は李夢龍への貞節を守って従いません。激怒した卞府使は成春香を拷問し投獄します。
都に帰った李夢龍は科挙に合格して官吏となり南原に再び行きます。そして成夢龍は卞府使の悪事を暴いて彼を罰し成春香を救出し、二人は末永く幸せに暮らしたという話です。韓国人なら誰でも知っている話です。
その他、「沈清伝」や「薔花紅蓮伝」なども検索すると内容が出て来ます。
「沈清伝」;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E6%B8%85%E4%BC%9D
「薔花紅蓮伝」;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%94%E8%8A%B1%E7%B4%85%E8%93%AE%E4%BC%9D
韓国にも高尚な古典文学だけでなく、こんな男女の愛のものがたりもあるのです。それは高尚な万葉集の他に井原西鶴の人情話があるのと同じことです。
朝鮮の古典文学や書物の歴史については近畿大学の山田 恭子氏が体系的に良く整理した詳細な研究報告書を発表しています。彼女は韓国国立ソウル大学校人文大学院国語国文学科の古典文学専攻博士課程修了していて朝鮮の文字や文書の専門家です。
そこで今日は山田 恭子氏の下記の学術書を簡略化してご紹介したいと思います。
「文学からの接近:古典文学史:―― 時代区分とジャンルを中心に」、山田 恭子、http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/nomahideki/edu_04_004_yamada_se4l.pdf
この研究論文ではまず韓国古典文学史を考える上で重要な時代区分やジャンルについて言及し、韓国古典文学の全体像を把握することを目的としています。
そして時代区分を以下のように6つの時代に別けています。
口碑文学,漢文学,国文文学(ハングル文字)の研究結果から,古代前期、後期、中世前期、後期,近世,近代の6 期に分けて考察しています。
口碑文学は5世紀になって漢字や漢文学が入ってくるまでの口承文学です。この口承文学は後に「帝釈本解」へと発展します。
そして古代後期とは,建国神話の出現,漢字伝来と漢文学の成立,郷歌の形成に至るまでの時代をさすそうです。
郷歌とは,新羅の三国統一期である6 世紀頃から高麗中期である13 世紀まで存在した文学形式を意味します。しかし広義の郷歌とは紀元前からあった形式で中国漢詩に対する当時の朝鮮の歌謡を広くさす呼称でした。
そして百済、新羅、高句麗の三国時代には.『三国史記』や『三国遺事』が書かれたのです。
それはさておき、中世文学の時代は、漢文学の時代です。科挙制度の前身ともいえる新羅の読書出身科が788 年に,本格的な科挙試験は958 年に実施されたことも漢文学の隆盛とつながったのです。しかし漢文学は訓民正音を用いた国文文学とも共存しました。
最初は漢字を利用した吏読 を通じて,次には朝鮮語を直接表記できる訓民正音との併用されたのです。私が想像しているのはこの訓民正音は日本の万葉仮名に相当するものと思います。
中世前期は郷歌と漢文学,特に漢詩が盛行したのです。
そして1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、「訓民正音」を正式に公布し、公文書にも使用するようになったのです。それが現在のハングルです。
朝鮮では日本と同様に教養のある人は現在でも漢字の読み書きが出来るのです。
以上のように朝鮮の文学は日本と同様にいろいろな分野があり、内容も豊かなのです。それが何故伝わって来なかったかを簡単に書いておきます。
原因はいろいろあるでしょうが、一番大きな原因は中国文化があまりにも輝かしかったからです。朝鮮文化は中国文化の亜流とみなしたのです。ですから大和朝廷は遣隋使や遣唐使を派遣して本家本元の中國文化を導入してきたのです。
その目的は中国の政治組織や制度、そして輝く文化を導入して大和政権の権威を上げ、政権基盤を盤石にするためだったのです。この伝統は朝鮮民族の輝かしい文化の客観的な評価を妨げたのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
今日の挿絵代わりの写真は大韓民国の歴史的村落:河回と良洞の写真です。
出典は、https://worldheritagesite.xyz/yangdong/ です。
===参考資料:=========================================
最後に韓国人なら誰でも知っている小説の「春香伝」と「帝釈本解」のあらすじをご紹介します。
(1)「帝釈本解」の内容
裕福な家に1 人の娘がいて,大切に扱われていた.ある日両親は娘を置いて出かけなければならない用事ができ,娘は一人家で留守番をしていた.
そのとき道僧が尋ねてきて布施米を請うた.娘は米を袋に入れるが,穴が開いていてなかなか米がたまらなかった.こうしているうちに夜遅くなり,僧は娘の家に一晩泊まることになった.道僧が帰った後,娘がはらんだことを知った両親は激怒し,娘を家から追放する。
娘は僧を訪ねて行き,そのまま住みつき3 人の息子を生んだ.道僧はそれが自分の息子であることを確認するために試練を課し,双方の血が再結合したことで父子関係を認めた.
このような内容は,超現実的方法によって父母の承諾もなしに妊娠し追い出される点や,息子と父親との出会いと親子関係の確認が行われる点で,李圭報(1169-1241)の『東国李相国集』などに共通しています。
(2)春香伝とは、そしてその粗筋
春香伝は李氏朝鮮時代の説話で、妓生の娘と貴族の両班の息子の身分を越えた恋愛を描いた物語です。
18世紀頃、民族音楽的語り物であるパンソリ、すなはち「春香歌」の演目「春香歌」として広まるとともに、小説化も行われました。韓国では現在も人気のある作品であり、映画化も何度か行われています。
あらすじは次のようなものです。
南原府使の息子の李夢龍と、妓生(キーセン)である月梅の娘の成春香は、広寒楼で出会い、愛を育みます。しかし、父の南原府使としての任期が終わり、李夢龍は都に帰ることになります。夢龍と春香は再会を誓い合って別れます。
新たに南原府に赴任した卞府使は、成春香の美貌を聞きつけて我が物としようとすます。
しかし成春香は李夢龍への貞節を守って従いません。激怒した卞府使は成春香を拷問し投獄します。
都に帰った李夢龍は科挙に合格して官吏となり南原に再び行きます。そして成夢龍は卞府使の悪事を暴いて彼を罰し成春香を救出し、二人は末永く幸せに暮らしたという話です。韓国人なら誰でも知っている話です。
その他、「沈清伝」や「薔花紅蓮伝」なども検索すると内容が出て来ます。
「沈清伝」;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E6%B8%85%E4%BC%9D
「薔花紅蓮伝」;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%94%E8%8A%B1%E7%B4%85%E8%93%AE%E4%BC%9D
韓国にも高尚な古典文学だけでなく、こんな男女の愛のものがたりもあるのです。それは高尚な万葉集の他に井原西鶴の人情話があるのと同じことです。