後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「韓国理解のために(4)豊かな朝鮮民族の文学作品」

2021年01月12日 | 写真
日本に古事記や日本書紀,萬葉集があったように百済、新羅、高句麗の三国にも同じような文学作品や歴史書があったのです。そして百済、新羅、高句麗の以前から「郷歌」という漢詩に相当するような詩歌が連綿とあったと言われています。
朝鮮の古典文学や書物の歴史については近畿大学の山田 恭子氏が体系的に良く整理した詳細な研究報告書を発表しています。彼女は韓国国立ソウル大学校人文大学院国語国文学科の古典文学専攻博士課程修了していて朝鮮の文字や文書の専門家です。
そこで今日は山田 恭子氏の下記の学術書を簡略化してご紹介したいと思います。
「文学からの接近:古典文学史:―― 時代区分とジャンルを中心に」、山田 恭子、http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/nomahideki/edu_04_004_yamada_se4l.pdf
この研究論文ではまず韓国古典文学史を考える上で重要な時代区分やジャンルについて言及し、韓国古典文学の全体像を把握することを目的としています。
そして時代区分を以下のように6つの時代に別けています。
口碑文学,漢文学,国文文学(ハングル文字)の研究結果から,古代前期、後期、中世前期、後期,近世,近代の6 期に分けて考察しています。
口碑文学は5世紀になって漢字や漢文学が入ってくるまでの口承文学です。この口承文学は後に「帝釈本解」へと発展します。
そして古代後期とは,建国神話の出現,漢字伝来と漢文学の成立,郷歌の形成に至るまでの時代をさすそうです。
郷歌とは,新羅の三国統一期である6 世紀頃から高麗中期である13 世紀まで存在した文学形式を意味します。しかし広義の郷歌とは紀元前からあった形式で中国漢詩に対する当時の朝鮮の歌謡を広くさす呼称でした。
そして百済、新羅、高句麗の三国時代には.『三国史記』や『三国遺事』が書かれたのです。
それはさておき、中世文学の時代は、漢文学の時代です。科挙制度の前身ともいえる新羅の読書出身科が788 年に,本格的な科挙試験は958 年に実施されたことも漢文学の隆盛とつながったのです。しかし漢文学は訓民正音を用いた国文文学とも共存しました。
最初は漢字を利用した吏読 を通じて,次には朝鮮語を直接表記できる訓民正音との併用されたのです。私が想像しているのはこの訓民正音は日本の万葉仮名に相当するものと思います。
中世前期は郷歌と漢文学,特に漢詩が盛行したのです。
そして1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、「訓民正音」を正式に公布し、公文書にも使用するようになったのです。それが現在のハングルです。
朝鮮では日本と同様に教養のある人は現在でも漢字の読み書きが出来るのです。
以上のように朝鮮の文学は日本と同様にいろいろな分野があり、内容も豊かなのです。それが何故伝わって来なかったかを簡単に書いておきます。
原因はいろいろあるでしょうが、一番大きな原因は中国文化があまりにも輝かしかったからです。朝鮮文化は中国文化の亜流とみなしたのです。ですから大和朝廷は遣隋使や遣唐使を派遣して本家本元の中國文化を導入してきたのです。
その目的は中国の政治組織や制度、そして輝く文化を導入して大和政権の権威を上げ、政権基盤を盤石にするためだったのです。この伝統は朝鮮民族の輝かしい文化の客観的な評価を妨げたのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


今日の挿絵代わりの写真は大韓民国の歴史的村落:河回と良洞の写真です。
出典は、https://worldheritagesite.xyz/yangdong/ です。









===参考資料:=========================================
最後に韓国人なら誰でも知っている小説の「春香伝」と「帝釈本解」のあらすじをご紹介します。
(1)「帝釈本解」の内容
裕福な家に1 人の娘がいて,大切に扱われていた.ある日両親は娘を置いて出かけなければならない用事ができ,娘は一人家で留守番をしていた.
そのとき道僧が尋ねてきて布施米を請うた.娘は米を袋に入れるが,穴が開いていてなかなか米がたまらなかった.こうしているうちに夜遅くなり,僧は娘の家に一晩泊まることになった.道僧が帰った後,娘がはらんだことを知った両親は激怒し,娘を家から追放する。
娘は僧を訪ねて行き,そのまま住みつき3 人の息子を生んだ.道僧はそれが自分の息子であることを確認するために試練を課し,双方の血が再結合したことで父子関係を認めた.
このような内容は,超現実的方法によって父母の承諾もなしに妊娠し追い出される点や,息子と父親との出会いと親子関係の確認が行われる点で,李圭報(1169-1241)の『東国李相国集』などに共通しています。

(2)春香伝とは、そしてその粗筋
春香伝は李氏朝鮮時代の説話で、妓生の娘と貴族の両班の息子の身分を越えた恋愛を描いた物語です。
18世紀頃、民族音楽的語り物であるパンソリ、すなはち「春香歌」の演目「春香歌」として広まるとともに、小説化も行われました。韓国では現在も人気のある作品であり、映画化も何度か行われています。
あらすじは次のようなものです。
南原府使の息子の李夢龍と、妓生(キーセン)である月梅の娘の成春香は、広寒楼で出会い、愛を育みます。しかし、父の南原府使としての任期が終わり、李夢龍は都に帰ることになります。夢龍と春香は再会を誓い合って別れます。
新たに南原府に赴任した卞府使は、成春香の美貌を聞きつけて我が物としようとすます。
しかし成春香は李夢龍への貞節を守って従いません。激怒した卞府使は成春香を拷問し投獄します。
都に帰った李夢龍は科挙に合格して官吏となり南原に再び行きます。そして成夢龍は卞府使の悪事を暴いて彼を罰し成春香を救出し、二人は末永く幸せに暮らしたという話です。韓国人なら誰でも知っている話です。

その他、「沈清伝」や「薔花紅蓮伝」なども検索すると内容が出て来ます。
「沈清伝」;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E6%B8%85%E4%BC%9D
「薔花紅蓮伝」;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%94%E8%8A%B1%E7%B4%85%E8%93%AE%E4%BC%9D

韓国にも高尚な古典文学だけでなく、こんな男女の愛のものがたりもあるのです。それは高尚な万葉集の他に井原西鶴の人情話があるのと同じことです。

「お勧めの散策場所の写真をお送りいたします」

2021年01月10日 | 日記・エッセイ・コラム
東京の郊外には広い都立公園が幾つのも散在していて散策場所に不自由しません。そして案外知られていない府中市の「郷土の森博物館」の庭が広大で、静かな散歩におすすめの場所です。
その「郷土の森博物館」の庭の写真をお送り致します。









さて府中市郷土の森博物館には多くの昔の建築物を森全体に散在しています。敷地面積は約14haです。欅の大木、梅林、紫陽花の群、紅葉等々楽しめます。広い無料駐車場もあります。
詳しくはそのHP、http://www.fuchu-cpf.or.jp/museum/ に出ています。
静かな公園ですので是非一度お出掛けになってみて下さい。

「ロダンと荻原碌山」

2021年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム
信州、安曇野に彫刻家、荻原碌山の美術館があります。以前に訪問し感動しました。
碌山は明治12年安曇郡東穂高村に生まれ30歳で結核で死にました。相馬愛蔵・黒光の店である新宿中村屋で亡くなったのです。

碌山はパリでロダンの作品に感動し、日本へ西洋の彫刻を導入したのです。その功績を忘れるべきではありません。
明治維新以後にいろいろな分野で起きた東西の文化の衝突と融合を考えながら客のほとんどいない静かな美術館を歩みながら考えました。
荻原碌山はニューヨークに住みながらパリにも滞在しました。そこでロダンの彫刻を見て感動し、自分でもブロンズ像を作り始めます。
その前に彼の日本での生活を見てみましょう。
1879年(明治12年)に長野県南安曇郡東穂高村に5人兄弟の末っ子として生まれます。
少年の頃にキリスト教に接し、安曇野で断酒会に入会します。洗礼も受けたのです。
この経験が西洋へ目を向けるきっかけになったと考えられます。
明治34年より渡米、ニューヨークで西洋画を学びます。そして1904年 (明治37年)パリでオーギュスト・ロダンの「考える人」を見て感動し、彫刻家になる決心をします。
1906年 (明治39年)に再び渡仏し、アカデミー・ジュリアンの彫刻部に入学します。
1907年 (明治40年)にはロダンに面会をはたします。そして「女の胴」や「坑夫」などを制作します。
彼はパリで西洋文化の彫刻の魅力を身をもって理解したのです。これこそが東洋と西洋の融合の一例ではないでしょうか?
1908年(明治41年)に帰国し、新宿にて彫刻家として活動を始めます。
そして「文覚」が第二回文展で入選します。
1909年 (明治42年)には「デスペア」を制作し。第三回文展に「北条虎吉像」と「労働者」を出品します。
1910年 (明治43年)に「母と病める子」や「女」などを制作しますが、4月22日急逝します。しかし第四回文展にて「女」を文部省が買上げました。
荻原碌山は30歳の若さでこの世を去りましたが、日本では生前から高く評価され、文部省主催の『文展』にも何度も彫刻を出展したのです。西洋の彫刻の魅力を紹介したのです。このお陰で日本でも数多くの西洋流の彫刻家が育って来たのです。
さてロダンと碌山の彫刻の違いは何でしょうか?
ロダンの彫刻は上野の西洋美術館や箱根の彫刻の森美術館にあります。
そのロダンと碌山の違いを私個人の感じで言えばロダンは力強く自分の哲学を主張しています。西洋人の特徴の自己主張が強いのです。
しかし碌山の彫刻は内省的、繊細で東洋的な美しさを感じさせます。
例えば代表作の『女』は両手を後ろに回し縛られているように見えます。顔は天を仰ぎ悲し気です。体のフォルムは東洋の女です。何故か女の悲しみが感じられるのです。
ロダンの力強い自己主張を真似た「文覚」や「労働者」という作品もありますがロダンほど力に溢れていません。
ですから荻原碌山は彼の独創性で西洋と東洋の文化の融合を示したのです。
そんなことを考えさせる信州、安曇野の碌山美術館です。
写真で碌山美術館の様子を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は蔦の覆われた碌山美術館の様子です。

2番目の写真は明治42年の第三回文展に出展した「労働者」です。

3番目の写真は碌山美術館の内部の様子です。

4番目の写真は遺作で明治43年の第四回文展で文部省が買い上げた「女」です。

5番目の写真は荻原碌山です。

「西洋の彫刻は見ていると何故か感動する」

2021年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム
西洋の彫刻は見ているといつも感動します。何故感動するのか説明出来ません。
時々見て感動したくなります。
そこで今日は箱根彫刻の森美術館と上野の西洋美術館の松方コレクションから西洋の彫刻の優れた作品の写真をお送りいたします。
はじめに箱根彫刻の森美術館ある彫刻の写真を6枚示します。箱根彫刻の森美術館には特にヘンリー・ムーアとメダルト・ロッソの彫刻が数が多く蒐集してあります。
強羅のなだらかな斜面にゆったりと展示してあるので新鮮な山の空気を吸い散歩しながら彫刻群を楽しめるめるのです。箱根に行ったら必ずのように寄る所です。
6枚の写真は、http://www.hakone-oam.or.jp/ から写真をお借りしました。

1番目の写真はオシップ・ザッキン(1890年 - 1967年)の「住まい」です。

2番目の写真はヘンリー・ムーア(1898年- 1986年)の「横たわる像:アーチ状の足」1969-70年制作、 ブロンズ です。

3番目の写真はアリスティド・マイヨール(フランス 1861-1944)の「とらわれのアクション」1906年制作、ブロンズ、213×104×95cmです。

4番目の写真は、後藤良二(日本1951-)の「交叉する空間構造」1978年、強化プラスティック、鉄、塗料、530×943×275cm です。

5番目の写真は、カール・ミレス(スウェーデン-アメリカ 1875-1955)の「人とペガサス」1949年、ブロンズ、250×336×140cm です。

6番目の写真はメダルト・ロッソの「病院の病める男」( 1889) です。1858年 トリノに生まれ、1928年に ミラノで亡くなりました。
彼はイタリアの彫刻家で、ミラノのブレラ美術学校で絵画を学び,のち彫刻に転じた人です。 1884年パリに出て J.ダルーのもとで制作し、ロダンやドガと知合い,印象派風の代表的彫刻家の一人となり,思いに沈む婦人や病気の子供らの像を好んで制作しました。

次に上野の西洋美術館松方コレクションから4枚の写真を示します。
松方コレクションには48点ものオーギュスト・ロダン(1840-1917)のブロンズ彫刻があります。しかもそれらはロダンの代表作を網羅しているのです。野外の前庭と展示室の第一室にあります。
今日は野外展示のロダンの3点とブールデルの弓を引くヘラクレス像をご紹介いたします。
なお松方コレクションの全ての絵画とその題目や制作年は、https://www.google.com/…/the-national-museum-of-western-art… にあります。

7番目の写真はロダンの「地獄の門」(1880-1917年制作)です。

8番目の写真はロダンの「カレーの市民」(1884-2188年制作)です。

9番目の写真はロダンの「考える人」(1902-1903年制作)です。

10番目の写真はE.A.ブールデル作(1909年制作)の「弓を引くヘラクレス」です。
力強さ、逞しさ、人の体の美しさを表現した芸術家たちの作品に会えることで大きな幸せを感じます。

皆様が感動をもって今日もお元気にお過ごしなられるようにお祈りいたします。  後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、梅とロウバイの花の写真を撮りに行った」

2021年01月08日 | 日記
小金井公園の梅とロウバイの花が咲く季節になりました。午後からその写真を撮りに行きました。今年は寒いせいか満開になっていませんでした。写真をお楽しめ頂ければ嬉しく存じます。









「新年の奥多摩の風景写真を撮りに行く」

2021年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム
奥多摩という地名がありますがその範囲は曖昧ではっきりしません。その上、多摩川の上流には奥多摩町という町があります。しかし奥多摩という地名の範囲はもっと広く青梅市から上流地帯の地域の総称です。
多摩川の上流は山紫水明の美しい場所なので都心から観光客の多い所です。その観光名所はインターネット上で沢山紹介してあります。一例は、https://www.ikyu.com/kankou/arealist8115/ にあります。
私どもは過去60年に観光名所はほとんど訪れました。しかし老境にいたると賑やかな観光地を避け、静かに自然の風景を見て楽しむようになりました。奥多摩の山々多摩川の流れの風景、そして落葉した雑木林の美しいシルエットが心を打ちます。
昨日もそんな風景に憧れて新年の奥多摩の風景写真を撮りに行って来ました。御岳駅のそばの多摩川と、「鳩の巣」駅から見た山並みと、雑木林のシルエットの写真をお送りいたしまっす。







終わりにもう二か所の静かな名所をご紹介します。
多摩川の上流の沢井という所に元禄15年創業の小澤酒造があります。「澤乃井」という銘柄の地酒を造ってています。「澤乃井」は「沢井村」で出来た酒なのでそう命名したものです。
撮って来た小澤酒造の写真を送りします。

ここは見学自由の蔵元です。静かに酒蔵に入ると新酒の良い香りがします。ぜひ訪問してみてください。
さてもう一つの名所は下の写真んき示した奥多摩湖です。

この湖は小河内ダムで出来た人造湖でです。ダムの建設は昭和13年にはじまり戦後の1957年に完成しました。湖底に沈んだ小河内村の945世帯の人々は移住して行ったのです。
移住の様子は『湖底のふるさと小河内村報告書』、https://blog.goo.ne.jp/kenmatsu_fs/e/2fe8b1559b226d7c6422de6b1fe785c6 に出ています。
八ヶ岳の麓に移転した酒井冶孝さんの手記、http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=411 も貴重な記録です。

美しい多摩湖の風景を見ると時々、小河内村の人々のシルエットも見えるような気がします。美しく悲しい風景です。そんなことを考えながらドライブから帰って来ました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「韓国理解のために(3)驚異的な韓国の熱烈な宗教信仰」

2021年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム
韓国と日本を比べて一番違うことは宗教に対する考え方です。韓国人は宗教を熱烈に信仰していますが多くの日本人は宗教に無関心です。韓国人は日本人に比べると仏教やキリスト教への信仰が非常に篤い民族なのです。
韓国の四大宗教は仏教、プロテスタント、カトリック、儒教です。
2005年の調査では総人口4700万人のうち宗教を信じている人は53%です。このうち仏教徒は23%、プロテスタントが18%、カトリックが11%です。
この数値は日本に比べると非常に大きな信者数になります。韓国社会は実に仏教とキリスト教の優勢な社会なのです。
佛教は日本の曹洞宗に似た禅宗の曹渓宗が一番盛んで2000万人の信者がいるそうです。
曹渓宗のお寺は2444寺あります。日本と非常に違うのは韓国では僧侶は絶対に妻帯しないで一生独身を通すことです。カトリックの神父と同じなのです。

今日は韓国の熱烈な宗教信仰の実態を簡略にご紹介したいと思います。
それではさっそく幾つかの韓国の宗教風景の写真を見てみましょう。

1番目の写真は2014年8月14日からローマ法王のフランシスコ教皇が韓国を訪問した時の韓国人の歓迎ぶりを示す写真です。写真の白い車にローマ法王が乗っています。
ローマ法王は韓国のあちこちで大規模な野外ミサが行いました。毎回、数十万人規模の信者が集まったと言われています。フランシスコ教皇はその後日本に来られましたが、日本ではこんなに多くの人が集まりませんでした.。

2番目の写真は韓国の全州 にあるカトリック教会の美しい風景です。韓国では全人口の約11%がカトリックであると言われています。日本のカトリックは人口の僅か0.3 % です。

3番目の写真は韓国の11の世界文化遺産の一つの曹渓宗の海印寺の山門の写真です。
写真の出典は、http://www.seoulnavi.com/special/5003998 です。

4番目の写真は韓国の三大祈祷院の普門寺の本堂の内部の写真です。
写真の出典は、 http://www.hikorea.jp/tour/tour_view.php?topinfo_tcode=TB1320394145 です。

5番目の写真は韓国の墓地の写真です。写真の出典は、http://seoul2.blog97.fc2.com/blog-date-200908.html です。
韓国ではお墓には生花ではなく造花を捧げるのでいつまでも鮮やかなのです。お墓には漢字を彫りこみます。
韓国では経済的に豊かな人は墓地となる山を入手して、この山を一族又は家の共有の墓地とするのが昔の風習でした。しかし最近ではこの写真のように共同墓地が普通です。

韓国の仏教は三国時代(4世紀から7世紀)に中国から朝鮮に入ってきました。仏教は新羅(668年-935年)や高麗(918年-1392年)の時代に於いて最も優勢な文化的影響力を持っていたのです。儒教も同様に中国から初期に伝わりましたが儒教は朝鮮李朝樹立までは仏教の下の立場に置かれていたのです。
仏教は韓国の東部、つまり嶺南地方や江原道では、伝統的に強力であり、そこでは現在でも人口の半数以上が仏教徒となっているそうです。
韓国の仏教には禅宗が主ですがその他、様々な「宗派」が存在します。しかし、圧倒的大多数(90%程)の寺は曹渓宗に所属しています。韓国で最も古く有名な寺、例えば仏国寺や梵魚寺は曹渓宗です。
ソウル中心部の曹渓寺がその総本山です。その他、韓国の仏教に関しては末尾の参考資料に説明があります。
仏教信者は仏教とシャーマニズムの一種の「三聖閣」とを結び付けて信仰しています。この「三聖閣」は仏教の寺院の奥に存在しています。「三聖閣」には「山神」や「七星神」や「独聖」が祀ってあります。
まあ簡単に言えば韓国の山岳信仰ですね。日本の神社とお寺の混淆と同じようなものです。

結論を簡単に書きます。
韓国には驚く程多数のキリスト教信者がいます。その一方、韓国人は仏教や儒教やいろいろな原始宗教を混淆して信じています。
一番分かり難い原始宗教は「三聖閣」という殿閣です。

韓国人は日本人よりも宗教を信じている人々が非常に多いのです。
誤解を避ける為に書きますが、宗教を信じている人は善良とは限らないのです。私は無宗教でも立派な人格を持っている方を沢山知っています。

今日は驚異的な韓国の熱烈な宗教信仰の実態wそ簡略のご紹介たしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
========参考資料====================
(1)朝鮮の仏教:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99 なお、韓国には円仏教などの仏教系新宗教が存在し、立正佼成会、真如苑、創価学会、霊友会の日本の宗教法人の拠点が存在します。

(2)韓国の仏教:http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/bukkyo.htm
韓国の寺院は寺院後方、大雄殿より高いところに「三聖閣」という殿閣を置くことが多い。韓国の山岳信仰と融合したものである。何を主体に祀るかで山神閣、七星閣、独聖閣などと言う場合もある。いずれも仏教以外のとこ ろから韓国仏教に融合したものである。 三聖閣という場合は、「山神」、「七星神」、「独聖」を祀り、建物は正面4本の柱、側が2本の柱で囲まれた建物となる。
山神は韓国土俗の「山神霊」が変化したもので18世紀末から19世紀初めにかけて発生した信仰である。山神は護法転身の結果、人格神の山神、化身の虎とし て現れるという。山神に対しては無病長寿、子孫繁栄を祈願する。山神図は虎と子供を率いて手に長寿などの象徴を載せることが多い。
以上のように書くと韓国の佛教と日本の佛教は同じように見えますが、次のように決定的に違う事があるのです。

(1)韓国の僧侶と修行者は絶対に結婚しない。もし結婚すれば僧侶や修行者の資格を失う。
(2)韓国の僧侶と修行者は殺生戒を厳密に守る。日本の僧侶や修行者は肉や魚を食べる。韓国では絶対に食べない。
(3)韓国の僧侶と修行者は仏教のその他の戒律を厳しく守る。

私はこの違いは非常に大きな違いだと思っています。自分で戒律を守ることが出来ないので、何故か韓国の仏教が本物のように感じています。

「たましん美術館特別展覧会『足跡』のご案内」

2021年01月05日 | 日記・エッセイ・コラム
私の住んでいる小金井市は武蔵野にあります。そしてこの地域は多摩地域と呼ばれています。
武蔵野の範囲はあいまいです。
その範囲について明確な定義はありませんが広辞苑によれば「埼玉県川越以南、東京都府中までの間に拡がる地域」と書いてあります。川越市は埼玉県の南部にあります。ですから武蔵野は埼玉県の南部から東京の郊外を意味するようです。都心は含まれないようです。
しかし正確な範囲は何処にも書いてありません。武蔵野の範囲はあいまいなのです。
一方これに対して多摩地域の範囲は明確に決まっています。
多摩地域は、平安時代から幕末まで1,000年以上にわたって「武蔵国多摩郡」でした。
そして明治時代に現在の東京都の前身に当たる「東京府」に属する地域が「東多摩郡」、それ以外の地域が「西多摩郡」「南多摩郡」「北多摩郡」(いわゆる三多摩)となったのです。
ですから多摩地域とは一般的に、東京都の西側に位置するエリアのことを指します。
それはそれとして、としてこの多摩地域を主な営業範囲にしている金融機関に多摩信用金庫というものがあります。
この多摩信用金庫は多摩地域の絵画芸術の振興にも努力して来ました。そして「たましん美術館」を運営しています。この美術館は多摩地域在住の画家の作品を多数収蔵しています。
今回以下のような特別展覧会を開催することになりましたのでご案内いたします。
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たましん美術館特別展覧会『足跡』のご案内
立川駅の南口にある、たましん美術館は特別展覧会『足跡』を1月9日から2月7日まで開催しますのでご案内申し上げます。
展示される絵画は飛永頼節の抽象画など20名の多摩地域の画家の作品です。
詳しくは、「開館記念展Ⅲ足跡1974‑2020—所蔵品と新作から見える多摩の美術—Act. 2」、https://www.tamashin.or.jp/post/sokuseki をご覧ください。
たましん美術館は〒190-8681 東京都立川市緑町3-4多摩信用金庫本店1階にあります。
参考資料として、「飛永頼節の抽象画の世界、その多様な構図と色彩の美しさ」を再録しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============================
「飛永頼節の抽象画の世界、その多様な構図と色彩の美しさ」
2020年06月17日 | 日記・エッセイ・コラム
飛永頼節さんは最近知り合った抽象画の画家です。お話を聞きどうしても絵が見たくなりました。そうしたらご自分の画集を一冊下さいました。1927年生まれですが、とてもお元気で現在も描いておいでです。
数十枚の抽象画を見て感動を覚えました。構図が面白く澄んだ色彩が美しいのです。
私は大胆に数十枚の抽象画を2つのグループに分類しました。若いころの情熱に溢れた華やかな絵画と老境に描いた鎮魂を主題にした一群の「レクエム」と題した絵画です。原爆で亡くなった人々の鎮魂を祈る絵画です。
そこで2つに分類した絵画を2つの記事としてご紹介したいと思います。今日は若いころの情熱に溢れた華やかな絵画です。
前置きはこれぐらいにして、さっそく5枚の絵画をお送りいたします。

1番目の写真は「聖母子(2)」です。1979年作のアクリル・キャンバスで91cmx72.5cmの大きさです。
飛永頼節さんは長崎県生まれでキリシタン文化を背負っているのでしょう。飛永頼節さんの父上は五島列島の警察署長でした。先祖は隠れキリシタンの島に住んでいたようです。

2番目の写真は「いのち(1)」です。1985年作のアクリル・キャンバスで116.5cmx91cmの大きさです。

3番目の写真は「或る晴れた日に(1)」です。1986年作のアクリル・キャンバスで162cmx130.5cmの大作です。

4番目の写真は「燃える大地」です。1989年作のアクリル・ペンキ・紙で62.2cmx46.4cmの大きさです。飛永頼節さんは長崎で原爆に被爆しました。生き延びましたが街の惨状が心に焼き付いているようです。

5番目の写真は「鳥」です。1997年作のアクリル・紙で26cmx26cmの大きさです。

ここに示した絵画は5番目の「鳥」以外大きな作品です。私は絵画の写真を見る時、原作の大きさを考え、原作の迫力と美しさを想像しまます。今回もそのように見ると飛永頼節さんが精魂込めて描いている様子が目に見えるようです。
それはさておき最後に飛永頼節の略歴を示しおきまずす。
1927 長崎生まれ、1945 長崎にて被爆、1953 行動美術研究所に学ぶ。
現在はTama Artist and Citizen Netに所属している。
主な個展 や展覧会は以下の通りです。
1961〜'63年、読売アンデパンダン展(東京都美術館)
1962 〜'64年、集団α展(東京・第一画廊、京都・青銅画廊 吉仲太造・末松正樹等と)
1965年、日本、今日の美術展(東京・村松画廊 アートクラブ・代表岡本太郎)
1970年、日本の肖像展、ミニモニュマン展(東京・サトウ画廊)
1971年、自然、人間拡張への反証展(東京・サトウ画廊)
1975年、第1回東京展(東京都美術館)
1976年、今日の<空間>展(横浜市民ギャラリー・横浜市主催)
1977〜'82年、コンフリュアント展(横浜市民ギャラリー・横浜市主催)
1979年、日本現代美術の20人展(立川・伊勢丹 - コミッショナー山本太郎・野村太郎)
1984〜'96年、ポイントナウ展(横浜市民ギャラリー)
1994〜'05年、TAC(多摩現代美術家会議)展
受賞は2005年、藝術出版社主催、第11回美奄大賞展にて大賞受賞

今日は飛永頼節さんの若いころの情熱に溢れた華やかな抽象画を5枚ご紹介いたしました。続編では鎮魂を主題にした一群の「レクエム」と題した絵画をご紹介する予定です。

その続きは次のとうりです。
「飛永頼節の抽象画の世界、原爆死者への鎮魂のための絵画群」
2020年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム

「韓国の世界文化遺産「昌徳宮」と「景福宮」の写真」

2021年01月05日 | 写真
ソウル市の世界文化遺産の一つ「昌徳宮」の写真をお送りいたします。
「昌徳宮」は「宗廟」から徒歩で約10分です。宗廟が朝鮮王朝の王様の魂を祭る霊廟であるのに対し昌徳宮は宮殿遺跡です。
また、「昌徳宮」から地下鉄で一駅の場所にはソウル五大宮の一つ「景福宮」があります。
「昌徳宮」は太宗5年(1405年)に建設された朝鮮王朝時代の宮殿です。正宮である景福宮の離宮として建築されました。昌徳宮の正殿も太宗5年(1405年)に出来ました。
写真は順に景福宮正門「光化門」、昌徳宮の正門「敦化門」、昌徳宮の正殿の「仁政殿」です。
写真の出典は、https://www.konnichiwa-asia.com/seoul-changdeokgung/ です。





「曾遊の地の雪景色(10)雪の花巻と宮沢賢治」

2021年01月03日 | 日記・エッセイ・コラム
宮沢 賢治は1896年に岩手県の花巻に生まれ 1933年に亡くなりました。享年37歳でした。生涯独身でした。
法華経を信仰しながら悲しい美しい物語を沢山書きました。その物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」というものでした。
しかし彼の作品は生前ほとんど一般には知られず無名でした。没後、草野心平らの尽力により作品群が広く知られ世評が急速に高まります。
今日は1981年に訪問した花巻の宮沢 賢治記念館の周辺の雪景色の写真をお送りいたします。

1番目の写真は岩手県花巻市の郊外の冬の風景です。
写真の出典は、https://www.city.hanamaki.iwate.jp/kanko/location/spot/1000653.html です。

2番目の写真は宮沢 賢治記念館の周辺の南斜花壇の雪景色です。
写真の出典は、https://www.city.hanamaki.iwate.jp/miyazawakenji/kinenkan/1003990.html です。

3番目の写真はシグナルの道の雪景色です。写真の出典は2番目の写真と同じです。

4番目の写真はよだかの碑の雪景色です。写真の出典は2番目の写真と同じです。

さて宮沢賢治は盛岡の高等農林学校を1920年に24歳で卒業し花巻農学校で教鞭をとっていたのです。
しかし賢治は1926年(大正15年)にこの花巻農学校を退職してしまいます。
そうして羅須地人協会を設立しました。花巻に羅須地人協会の建物を作り農民を助けたのです。東北地方の冷害で苦しむ農村で、肥料の使い方の相談に乗り稲作の増産に協力したのです。そして最後は肥料の石灰を作る砕石会社で働いたのです。
そして1933年(昭和8年)に急性肺炎で死去しました。死の前日、農民から夜遅くまで肥料の相談を受けていたと言います。法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言します。
戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められているそうです。

それはさておき、宮沢賢治にまつわる思い出を少々書きます。あれは随分昔の1981年のことでしたが、私共は盛岡に滞在したことがありました。北上川のほとりの光原社を訪れて賢治の「注文の多い料理店」の初版本を触らせて貰ったのです。まだ若かった家内が、「初版本は日本に僅かしか残っていないのよ」と言って感動していました。
そして花巻市に行って宮沢賢治記念館を訪問し花時計も見ました。そして復元された羅須地人協会に行きました。
それは高台に建っていて眼下には水田が広がり、その向こうは北上川になっているのです。羅須地人協会の中の黒板には「下ノ畑ニイマス」と白墨で書いてありました。
賢治の記念碑の前でドドドッと風が吹いて来て不思議な雰囲気になりました。本当に賢治が下の畑に見えるような錯覚に襲われたのです。その感じが今でも忘れられません。

今日は1981年に訪問した花巻の宮沢 賢治記念館の周辺の雪景色の写真をお送りいたしました。そして宮沢賢治記念館や羅須地人協会の建物を訪問した時の思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


過去に掲載し宮沢賢治に関する記事の一覧を末尾に示します。それぞれの記事の後ろに掲載年月日が示してあります。
ブログは、http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama です。
そして特に「銀河鉄道の夜」を詳しく書きましたので、下にその記事を再録致しました。
==下は宮沢賢治についての私のブログの掲載記事です==================
(後藤和弘のブログ、http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama)

(1)宮沢賢治の作品を気楽に読む・・・注文の多い料理店、風の又三郎、オッペルと象、ドングリと山猫、よだかの星、、、掲載年月日:2013/10/27
(2)あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(2)北十字、鳥捕り、豪華客船沈没など 2013/10/26
(3)あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(1)星祭りの夜のカンパネルラの水死と再会 2013/10/25
(4)宮沢賢治、「銀河鉄道の夜」・・・あなたの銀河鉄道、私の銀河鉄道、2013/10/24
(5)「風の又三郎」・・・あなたの又三郎、私の又三郎 2013/10/24
(6)金子みすずの童謡詩と鯨の戒名  13/04/10 
(7)みにくいヨタカの姿・・・宮沢賢治の童話「よだかの星」の鳥 、13/04/04
(8)宮沢賢治の作品を気楽に読む(11)完結編:注文の多い料理店、風の又三郎、オッペルと象、ドングリと山猫、よだかの星、、、12/06/01
(9)日本人の手で全世界を佛教国にするという発想は悪くない・・・そして宮沢賢治のこと、    2012/05/09
(10)宮沢賢治の作品を気楽に読む(9)「雨ニモマケズ」は法華経から生まれた詩、       12/05/09
(11)宮沢賢治の信奉していた法華経と国柱会の説明、12/05/08
(12)宮沢賢治の信奉した法華経の特徴は何でしょうか?  2012/05/08 
(13)宮沢賢治が終生会員だった国柱会とは何か?  12/05/08
(14)宮沢賢治の作品を気楽に読む(8)「注文の多い料理店」の序、12/05/08
(15)37歳で逝った賢治の親不幸・・・そして残された原稿の山、12/05/04
(16)宮沢賢治の作品を気楽に読む(7)数多くの旅をしていた宮沢賢治、12/05/03
(17)宮沢賢治の作品を気楽に読む(6)膨大な作品群に踏み迷う、 12/05/02
(18)宮沢賢治の童話集、「注文の多い料理店」の出版、2012/04/20
(19)宮沢賢治の作品を気楽に読む(5)大正13年出版の「春と修羅」から、12/04/20
(20)宮沢賢治の活躍始まる・・・農学校、羅須地人協会、東北砕石工場技師、そして東京、樺太、大島への旅、12/04/17
(21)宮沢賢治の作品を気楽に読む(4)盛岡高等農林学校時代の作品、12/04/16
(22)宮沢賢治の作品を気楽に読む(3)盛岡中学卒業し、病気で岩手病院に入院、  12/04/15
(21)宮沢賢治の作品を気楽に読む(2)盛岡中学3年の頃、2012/04/05
(22)盛岡高等農林学校と宮沢賢治、12/04/04 
(23)宮沢賢治の作品を気楽に読む(1)盛岡中学の頃、12/04/03
(24)突然ですが、宮沢賢治の「慟哭」という詩とその朗読をお送りします、11/11/01
(25) 時代が変わっても宮沢賢治の作品は愛されている 2015年12月16日

===2013年月25日掲載記事:『あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(1)星祭りの夜のカンパネルラの水死と再会』==============

宮沢賢治の作品には彼の心象風景や謎めいた表現が沢山書き込んであります。ですから読む人はその心象風景や謎めいた表現を自分なりに想像してしまいます。
そうすると宮沢賢治の作品は彼から少し離れて、読んでいる人特有のものになるのです。大げさに言えば宮沢賢治の作品は読者の数だけ違ったものになるのです。
「あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」」とはそういう意味を込めているのです。ですから、私の「銀河鉄道の夜」も、読む自分の年齢にしたがって違ってきます。賢治の作品を何度も読み返している人が沢山いるのはそのせいもあるのでしょう。
そこで筑摩書房の宮沢賢治全集第十巻の中にある「銀河鉄道の夜」をもう一度読んでみました。
第十巻には「ポラーノの広場」、「オッペルと象」、「風の又三郎」、「北守将軍と三人兄弟の医者」、「グスコーブドリの伝記」、「銀河鉄道の夜」、そして「セロ弾きのゴーシュ」が編纂されています。
その中で何故か「銀河鉄道の夜」には、私にとって理解できない謎が沢山あって、気になって仕方が無い作品なのです。
しかしいずれは私もこの銀河鉄道に乗って旅立つのです。自分がこの世と別れて「銀河鉄道」に乗ったと考えて、この作品を読んでみると書いてあることがよく分かるのです。

この作品のあらすじです。
夏の夜空にかがやく天の川には銀河が流れていて、そこに鉄道があり列車が走っているという話です。人間は死んで天に登り、星になる。ですから銀河鉄道の汽車に乗っている人は死んだ人です。
主人公のジョバンニ少年が、星祭りの夜に水死した親友のカンパネルラを探しに行きます。カンパネルラは、水に落ちて溺れそうになっている友人のザネリを助けるために飛び込んで、水死したのです。一方ザネリは助かるのです。
カンパネルラを探そうと暗い丘に登って行きます。そしてジョバンニは、いつの間にか銀河鉄道の汽車に乗っているのです。そして其処でカンパネルラを見つけ、一緒に汽車の旅をします。
その列車にはいろいろな人が乗ってきます。
ただ一つだけご紹介すれば、大きな氷山にぶつかった豪華客船の沈没の時、無理にボートに乗らずに死んでしまった少女と弟がぬれ鼠で乗って来るのです。大学生の家庭教師も一緒です。
3人は皆、沈没の衝撃で靴を失い、裸足です。それがいつの間にか温かい柔らかい靴を履いています。それがこの汽車の不思議なところです。童話ですから「タイタニック號」という名前は書いてありませんが私はそのように想像しています。
最後に、一緒に乗っていたカンパネルラもみんなも銀河鉄道の列車から消えて行きます。ジョバンニは降りて現世に帰る時が来ます。
親友のカンパネルラと永遠の別れです。ジョバンニは現世に戻り、病気の母親を助け、真の幸福を求めて元気よく生きて行きます。この童話の一行、一行がしみじみとしています。一行、一行にこの世の悲しみが滲んでいるのです。涙が出て来るのです。
もう一度読んでみてこの作品のキーは死んでしまった愛する人と再会するという奇蹟です。
再会出来るために重要なのは、ジョバンニとカンパネルラの心温まる強い絆です。
カンパネルラは川に落ちたザネリを救って、自分が死んでしまうのです。
友のために死んだ者は天国へ行くのです。
行方不明になったカンパネルラの捜索を見ながら、彼の父が自分の腕時計を凝視して、キッパリ言うのです。「もう駄目です。落ちてから45分たちましたから。」
この一言に父の悲しみが溢れています。ですからこそジョバンニは死せるカンパネルラともう一度会わねばなりません。
そして銀河鉄道の中でカンパネルラを見つけるのです。(続く)




「コロナでも初詣で賑わう神社の風景」

2021年01月02日 | 日記・エッセイ・コラム
趣味にはいろいろありますが私の趣味の一つに文化人類学というものがあります。ですから日本民族の文化に深く影響を与えている神道や仏教と日本人のかかわりに興味があります。
昨日は自分の初詣もかねてコロナが日本人の信仰にどのような影響を与えているかを取材して来ました。
近所の4つの神社の初詣の風景の写真を撮って来ました。
結論を先に書けば、驚いたことに全然影響が無く、神社は例年のように初詣で賑わっていたのです。
それでは写真を示します。

1番目の写真は府中市にある初詣で賑わっている大国魂神社の参道です。

2番目の写真は初詣客が群がっている大国魂神社の本殿です。

3番目の写真は小金井市の貫井弁天の前に行列をつくっている初詣客です。

4番目の写真は貫井弁天の本殿の前に並んでいる初詣客です。

5番目の写真は小金井市の稲穂神社の外に行列をつくっている初詣客です。

6番目の写真は稲穂神社の本殿の前の初詣客です。

7番目の写真は初詣客がいない府中市の人見稲荷神社です。ここは毎年、初詣客がいない静かな神社なので私どもが好きな神社です。ところが昨日は10人ほどの初詣客が後から来たので驚きました。

この神道という日本固有の宗教の歴史はとても古く旧石器時代や縄文時代からの自然崇拝から始まりました。弥生時代から古墳時代にかけて次第に現在の神社ような建物が出来ました。
神道は日本人の民族宗教なのです。
1番目の写真に示した大国魂神社は約2000年前の弥生時代に起源がある神社なのです。
ですからコロナが流行っても人々の神道の信仰は揺るぎなかったのです。
日本人の宗教信仰の強さを示しているようです。
このように文化人類学という趣味では宗教的風景の写真が重要になるのです。

今年も皆様にとって幸多い年になりますようにお祈りいたします。   後藤和弘(藤山杜人)

「元旦のミサに行きました」

2021年01月01日 | 日記
今日はめでたい元旦です。教会では降誕祭が続いていて、今日は神の母聖マリアの日です。
今年も皆々様にとって幸多い年になるように祈って来ました。
今日のカトリック小金井教会のミサの写真をお送り致します。







「謹 賀 新 年」

2021年01月01日 | 日記・エッセイ・コラム
新年にあたりご一家のご健康と平和をお祈りいたします。

今年も皆様にとって幸多い年になりますようにお祈りいたします。

今年もよろしくお願いします。

写真は昨年12月に撮った多摩川と多摩湖の風景です。

             2021年1月1日          後藤和弘(藤山杜人)