後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「大正時代の小寺醤油店の写真を撮って来た」

2023年10月18日 | 写真
小金井公園には江戸東京たてもの園があり昔の住宅や商店が復元展示しあります。午後から写真を撮りに行きました。まず大正時代の小寺醤油店の写真をお送り致します。港区の白金5丁目で大正時代から営業していた店です。

「この平和を守るために第二次世界大戦の莫大な犠牲者数を忘れない」

2023年10月18日 | 日記
この豊かで平和な生活を守るために第二次世界大戦の莫大な犠牲者数を忘れないことが重要だと思います。私は第二次世界大戦の莫大な犠牲者数を絶対に忘れません。310万人の日本人が尊い命を落としたのです。 
下に第二次世界大戦の国別の犠牲者数の表を示します。
この一覧表では1、国の名前、2、軍人と兵士の死者数、3、民間人を含めた死者数の総合計の3項目が順に示したあります。
(https://www.nationalww2museum.org/students-teachers/student-resources/research-starters/research-starters-worldwide-deaths-world-war  より)
Japan、日本
 212万人(兵士の死者数)
 260万人ー310万人(民間人も含めた死者の総合計)


Korea(朝鮮出身の日本兵や軍属)
  38万人-47万人


China、中国
 3-4,000,000
 20,000,000

ドリアン777さんからのコメントを示します。

中國も韓国も国内の事情での死者は先の大戦よりはるかに多い(桁違い?)そしてロシアも・・
https://youtu.be/yiIbzFMLf58

朝鮮戦争1950年6月~1953年7月 の犠牲者
総数 備考
韓国 約240万人
朝鮮 約292万人
南北合計 約532万人 (内死者350万人) 当時の人口3500万人のうち6人に1人が犠牲になった
国連軍 約15万人 内14万人が米軍

文化大革命での推定死者数は間接も含めると、合計約2000万人に及ぶ北京の「赤い八月」、広西虐殺(カニバリズム)と内モンゴル人民革命党粛清事件といった大量虐殺と共食いも特定の地域で発生した文化大革命の最中、世界史上最大のダム決壊被害である「板橋ダム決壊事故」も発生したが、中国政府は国家機密として隠蔽した。




「日本は世界で5番目の軍事大国、ご存知ですか?」

2023年10月18日 | 日記・エッセイ・コラム
世界各国の軍事力レベルを分析し、発表しているグローバル・ファイヤーパワー(Global Firepower=GFP)の報告書によると、世界138カ国・地域のうち日本は5位の軍事大国になっています。韓国は6位になっています。
(http://life.chosunonline.com/site/data/html_dir/2021/02/10/2021021080030.html )
日本には平和憲法があり軍備を放棄している建て前なのでこの事実はマスコミがあまり報道しません。多くの人が知らない間に日本の軍事力は世界の5位になっていたのです。ご存知でだったでしょうか?
 グローバル・ファイヤーパワーは一国の軍事力を人口や兵力、兵器、国防予算、地理など50項目以上を活用し、国家のパワー・インデックス点数を算定してランキングを決めています。

1番目の写真はグローバル・ファイヤーパワーが作ったランキングの表です。
ここでもう少し日本の軍事力の内容を見てみましょう。
以下は2019年の数値です。
軍事力指数:0.1707
人口:1億2612万8156
兵員(推定):30万3157
航空戦力:1572(137カ国中6位)
戦闘機:297(8位)
戦車:1004(25位)
主要艦艇:131(空母4)
軍事予算:470億ドル

自衛隊は日本の平和と独立を守り国の安全を保つための軍隊です。
自衛隊は事実上の軍隊組織であり国際法上は軍隊として扱われています。
陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊の3部隊から構成されて最高指揮官は内閣総理大臣です。この軍隊の統括を担うのが防衛大臣でシビリアン・コントロールになっています。これは1954年(昭和29年)7月1日に制定されました。
イギリスの有力シンクタンクである国際戦略研究所(IISS)の年次報告書「ミリタリー・バランス」では、2020年の日本の防衛費は世界第8位になっています。
この日本の軍隊の装備は以下の資料に詳しく掲載されています。
航空自衛隊の装備は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AA%E7%A9%BA%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A%E3%81%AE%E8%A3%85%E5%82%99%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7 に掲載されています。

2番目の写真は航空自衛隊の戦闘機で構成されたブルーインパルスです。

3番目の写真は航空自衛隊の大型輸送機です。

海上自衛隊の装備は以下の資料にあります。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E4%B8%8A%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A%E3%81%AE%E8%A3%85%E5%82%99%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7

4番目の写真は海上自衛隊のヘリコプター母艦、「いずも」です。垂直離着陸機の戦闘機も乗せているので事実上は航空母艦です。

5番目の写真は海上自衛隊の潜水艦です。この潜水艦は事故で右の潜水翼が破損し修理のため帰港したところです。
さて最後になりましたが陸上自衛隊の装備の詳細は、https://www.mod.go.jp/gsdf/equipment/index.htmlに 掲載されています。

今日の記事の題は、「日本は世界で5番目の軍事大国、ご存知ですか?」です。ご存知の方も多い筈です。自衛隊の関係者や自衛力増強を進めた政治家はよく知っていました。
一方日本には平和憲法があり軍備を放棄しているのです。自衛隊の軍備の増強は明らかに憲法に矛盾しています。軍備の増強はあからさまに出来難いのです。
従って日本のマスコミは自衛隊の軍備の増強は控え目に報道します。国民の多くは平和憲法が好きなのです。かつて安倍総理が憲法改正をしようとしましたが出来ませんでした。
日本人は建て前と本音が違う場合もあります。憲法は建て前で国の飾りのようなものです。ですから憲法と自衛隊の矛盾は、それでも良いと思う人が多いのでしょう。
私自身は憲法を現実に合わせて改正し矛盾を解消すべきだと考えています。
皆様はどのようなご意見でしょうか?

今日は世界で5番の軍事大国になった日本のことを説明し、自衛隊の装備や戦力をご紹介しました。そして自衛隊と平和憲法の矛盾を論じました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「鎌倉についての妻の思い出と数多くのお寺の写真」

2023年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム
鎌倉はいろいろな意味で確かに魅力ある町です。観光客が絶えません。
しかし私にとって鎌倉は特別な意味があります。家内が生まれ、そこで終戦の年まで育った場所でした。終戦時は国民学校2年生でした。
家内は結婚以来何度も、何度も鎌倉での楽しい思い出を話します。
家内の話を聞いてから、私も彼女の昔の家の近所を何度か散歩しました。そして鎌倉の中をいろいろ歩き回りました。
家内が鎌倉生まれで小学校まで住んでいた処は長谷寺の近くで現在の鎌倉文学館の下でした。幼稚園は六地蔵の傍にあった聖母幼稚園へ行っていたそうです。その幼稚園を探したら名前は変わっていましたがありました。
通っていた小学校は御成小学校です。現在も当時のままの門がありましたので写真を撮りました。
1番目の写真は御成小学校の門です。御成小学校は海蔵寺や寿福寺に行く途中にあるので何度も行きました。戦前の校門と講堂が残っています。
昔住んでいた家の上の丘は「加賀様山」と呼び、毎日のように遊んでいました。現在、鎌倉文学館学館がありますが当時は加賀藩主だった侯爵前田氏の別荘でした。鎌倉文学館はその別荘の建物をそのまま使っています。何度か入りましたが川端康成、芥川龍之介、久米正雄ら鎌倉文士やゆかりの作家300人余の原稿や初版本が展示してあります。そして昔の別荘の華麗な内装や家具を眺めて楽しみました。
そして子供の頃の妻は自宅から路地を抜けて、江の電の線路を渡り由比ヶ浜によく行ったそうです。夏になると親類の若者や子供達が海水浴に来て、何日も泊っていきます。

2番目の写真は鎌倉の由比ヶ浜の風景です。
家内の父親は横須賀の海軍の経理学校で教えていました。自由な思想の持ち主で陸上競技や野球を楽しんでいました。
鎌倉は終戦まで大規模な空襲が無かったので、戦前の余裕のある楽しい生活が続けられたのです。
鎌倉に行く度に家内が元気はつらつになるので、何度も行くことになりました。そのうち私自身も第二の故郷のように思うようになります。
そんなわけで、ついでに鎌倉にあるお寺の写真をお送り致します。全て家内が撮った写真です。
3番目の写真は鎌倉仏教を代表する建長寺の山門です。
4番目の写真は円覚寺の方丈です。
5番目の写真は浄福寺の山門です。
6番目の写真は浄智寺の本堂です。
7番目の写真は浄明寺です。
8番目の写真は海蔵寺です。質素で小さなお寺です。侘びを感じさせるたたずまいです。この雰囲気が好きで何度も行ったお寺です。
9番目の写真は光明寺の山門です。この光明寺の山門だけは例外的に壮大です。浄土宗の本山の一つの「大本山」なので大きいのです。

写真に示した建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の5つを鎌倉五山といいます。当時の政治権力者が新しい禅宗の寺院を格付けし管理をする制度で選ばれたお寺です。 

鎌倉のお寺めぐりの魅力は「質素な美の世界」にあるようです。日本人の心の琴線を掻き立てるのです。

今日は鎌倉についての妻の思い出をご紹介いたしました。そして鎌倉にある数多くのお寺の写真をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「本当の桃源郷、中国の西逓村と宏村に近い黄山の紅葉」

2023年10月16日 | 写真
桃源郷、中国の西逓村と宏村に近い黄山の紅葉の写真をお送り致します。
国古代王朝の祖とされ、道教や医学など様々な文化の始祖ともいわれる神話伝説上の帝王、黄帝が不老不死の霊薬を飲み仙人となったと伝わる山が、自然遺産にして文化遺産の黄山です。
多くの文人が訪れ、画や詩の題材としてきました。

「本当の桃源郷、中国の西逓村と宏村」

2023年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は本当の桃源郷をご紹介します。中国の黄山の麓にある西逓村と宏村です。中国の南部の黄山の麓の安徽省にある村です。昔から桃源郷と言わている村です。
この西逓村と宏村の2つの村は世界遺産として登録されているのです。そこには明時代や清時代の暮らしが現在もそのまま伝えられているのです。
早速ですが「安徽南部の古村落 - 西逓・宏村」の風景写真をご紹介したいと思います。
写真と説明文は長谷川 大さんの『世界遺産ガイド』(https://allabout.co.jp/gm/gc/325134/ )を参考にしました。
西逓村と宏村は20Km離れていますが同じ地域です。

1番目の写真は西逓村にある牌坊です。村の入り口にある村の出入り口です。

2番目の写真は西逓村の路地です。道は細く、入り組んでいます。
漆喰の白壁、灰褐色のレンガ、すがすがしい青空、水路を流れる清流……何気ない路地がたまらなく美しいそうです。
3番目の写真は西逓村の店です。
4番目の写真は宏村の、明・清時代の家並みと南湖です。白と青の淡い色彩がとても美しいです。宏村は西逓村の北20kmにあります。
5番目の写真は宏村と南湖の風景です。桃源郷と間違えられるだけある美しい景色です。
6番目の写真は宏村の街角風景です。西逓と宏村は家並み全体が世界遺産に登録されており、この中で人々は日々の生活を送っています。外には田園と山岳が広がっている農村です。
7番目の写真は外の畑から農産物を昔ながらの天秤棒で運んでいる光景です。

これらの写真で示した2つの村についてはいろいろ調べましたが、長谷川 大さんの写真と紀行文がしみじみとしていて、とても感動的なものだったのでご紹介いたします。

この西逓村と宏村については中国人にさえほとんど知られていない辺境の村なのだそうです。それが世界文化遺産に登録されたのです。
村には、かつての繁栄を物語る白壁の独特な住居が立ち並び、周囲の美しい山々の景色とあいまって、まるで桃源郷のようなのです。

2005年、中国中央テレビが2万以上もある中国の村落(鎮)の中から、特に魅力的な「十大名鎮」を発表しました。ここでも見事選ばれたのが、安徽省の西逓村と宏村だったのです。
4~5世紀の詩人・陶淵明は、『桃花源記』の中で、山に迷い込んだ漁師が桃の林に囲まれた美しい農村を発見する物語を描いています。
中国人はこの外界から隔絶した2つの美しい村を「桃源郷」と呼び理想郷として憧れて来たのです。
そこは四方を山に囲まれ、その山々は現在は「黄山」と呼ばれています。黄山は中国の名勝がすべて集まっているといわれる世界遺産として別に認定されています。
西逓村と宏村は奇跡的な景観に守られた盆地ということで桃源郷のモデルではないかという噂が立ち、やがて「小桃源」の名を冠するようになったのです。特に西逓の異名は「桃花源里人家」と呼ばれています。
また古くから中国中から写生家を集めていて、特に宏村は「中国画里郷村」といわれているのです。

長谷川 大さんの紀行文によると、西逓村・宏村の両村を歩いていて感じるのはなんといっても素朴さで、大都会とは空気が圧倒的に違うそうです。
それは世界のどこでも同じに、田舎の村のやさしさというか、たとえば何かを忘れていっても盗まれることはないだろうな、困ってその辺に立っていたらきっと誰か助けてくれるだろうな、そんな安心感があるそうです。
たとえば街角で子供たちが駆けている。おばあさんが水路で野菜を洗っている。お母さんが籠にお茶を入れて道端で売っている。井戸端会議に花が咲いている。軒下で麻雀をしている。こんな何気ない日常の光景がたまらなく美しいそうです。
陶淵明が描いた桃源郷は天国でも黄金の国でもなく、人々が日々天地と会話しながら農地を耕す、ごくごく普通の農村だったのです。 
西逓村と宏村はいつか見たことのある懐かしい風景ではないでしょうか?何故
か旧懐の情は胸を温かくします。

中国は共産主義革命がありました。しかし西逓村と宏村では、そんなことは微塵も関係無く人々は悠々と暮らしているのです。
ヨーロッパの古い中世の町に行くと同じような風景があります。
そんな風景はしみじみとした人の一生を感じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

===2村の歴史を詳しく知りたい方々の為に==============
西逓村;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%80%93%E6%9D%91

西逓村は中華人民共和国安徽省黄山市黟県西逓鎮にある村である。
11世紀、宋朝の元祐年間にある河川の西岸にできた。そのため、元の名を「西川」といった。物資輸送の駅として使用されたため西逓(「逓」は宿場)と呼ばれるようになり、また「桃花源裡人家」とも呼ばれた。
この村を支えていたのは胡氏である。10世紀、唐の昭宗の子が変乱から逃れてこの地に隠れ住み、胡姓を称した。胡氏は1465年に商売を始めて成功し、土木、建築、修祠、道路整備、架橋などを行った。17世紀中ごろ、胡氏から官僚が出たため、さらに発展した。18世紀から19世紀にかけて、西遞の繁栄は頂点を極め、600もの豪邸が作られた。
西遞村の中心には東西を貫く幹線道路があり、その両脇に並行する道路との間に沢山の路地がある。敬愛堂、履福堂、刺史牌樓の公共施設も設けられていた。現在でも明清建築の124棟が観光用に保全されており、そのほとんどが一般に公開されている。そのほかの主要建築物に、1578年に作られた青石牌坊、1691年に作られた大夫第(医師屋敷)などがある。
2000年11月30日、オーストラリア ケアンズで行われた第24回ユネスコ世界遺産委員会により、「安徽南部の古村落」として、宏村と共に世界遺産に登録された。

宏村;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8F%E6%9D%91
この村は中国安徽省黄山市黟県宏村鎮にある村。2000年に世界遺産に登録され、2001年に中国政府国務院により中華人民共和国全国重点文物保護単位に、2003年に中国歴史文化名村に指定されている。明清代の歴史建築が数多く残る村落で、家々をめぐる水路が完全な姿で残っており、「牛」の形に例えられる村の配置は徽州の村落の典型的な代表例である。
安徽省南部黄山市にある黄山の南西麓に位置する。黟県の県城からは東北へ11kmの位置にあり、現在は宏村鎮がこの集落に置かれている。集落は黃山の余脈である雷崗山を背後にし、西に邕溪河と羊棧河に面している。全村面積は約28万平方m。
11世紀、北宋時代の政和3年(1113年)に汪氏一族により、集落が結成された。汪氏一族は、村が作られる前から宏村に居住し、今では汪氏一族の住まいとなっている。明朝の万暦頃に、村内にある泉を掘り、そこに川の水を引き入れ、南湖を造った。
清朝中期になると、当時の村名「作弘」が6代皇帝乾隆帝の名に当たるとして、「宏村」に改名された。村内には、清の建物がおよそ140現存する。これらの建物は全て、徽州を基盤とする設計がされている。
村内には水を供給する整備がされている。村の全景がはっきりと牛に例えられ、村内向かって西の丘が首、出入り口が角、村の前後の橋が足となっている。
2000年11月30日、オーストラリアケアンズで行われた第24回ユネスコ世界遺産委員会により、「安徽南部の古村落」として、西逓村と共に世界遺産に登録されている。

「米戸 靖彦さんが送って下さった裏磐梯のデコ平湿原の感動的な紅葉風景」

2023年10月15日 | 写真
米戸 靖彦さんがご親切に送って下さった写真です。とても美しいのでここに掲載させて頂きます。感動的な写真です。
出典は、





「今日のカトリック関口教会の年間第28主日のミサの流れと風景写真」

2023年10月15日 | 写真
今日はインターネットから放映されるミサの動画に合わせて聖歌を歌ったり祈りの言葉を唱えました。
カトリック教のミサの流れは入祭唱、聖歌などをもって、始まります。 その後、ミサを執り行う司祭と信徒とが、いくつかの種類の祈りを唱え合います。 旧約聖書と新約聖書からいくつかの部分を朗読し、司祭が説教を行います。 その後、皆で信仰を宣言する祈りのことばを唱えます。
今日の 関口教会の年間第28主日のミサの風景写真を順にお送り致します。
アーメン。

「今日のカトリック関口教会の年間第28主日のミサの動画配信」

2023年10月15日 | インポート
10月15日10:00 司式 天本昭好神父(主任司祭)
https://www.youtube.com/watch?v=wwbGRG08uJE

入祭の歌  典118 主は豊かなあがないに満ち
いつくしみ・栄光の賛歌 ミサ曲610・612
答唱詩編  典123①③④ 主はわれらの牧者 
アレルヤ唱 典273 年間第28主日
信仰宣言 ニケア・コンスタンチノープル信条(1)
奉納  典183 われらはシオンで神をたたえ  
感謝・平和の賛歌 ミサ曲613・614   
拝領  カ典18 神を探し求める者よ
閉祭  カ聖374 野ばらのにおう

写真は今日のミサです。


「The Silk Roadという本を出版したヘディンと日本人の憧れ」

2023年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム
駱駝に乗った胡人が月の砂漠を列になって静かに歩いています。シルクロードの旅です。日本人の憧れの風景です。この憧れはリヒトホーフェンの探検とヘディンの本、『The Silk Road』が原因になったのです。

今日は私の憧れのシルクロードにまつわることを書いてみたいと思います。
シルクロードは中国と地中海世界の間を結ぶ古い交易路でした。
この「シルクロード」という名はドイツの地理学者リヒトホーフェンが初めて1877年に使いました。
続いて、リヒトホーフェンの弟子のスウェーデンの地理学者ヘディンが1900年に楼蘭の遺跡を発見したのです。ヘディンは自らの中央アジア旅行記を『The Silk Road』の本を1938年に出版し、シルクロードが世界で広く知られるようになったのです。
つまりシルクロードを有名にしたのはドイツの地理学者リヒトホーフェンと弟子のスウェーデンの地理学者ヘディンだったのです。それは20世紀の始めでした。
そして最近の2014年になってシルクロードは「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」としてユネスコの世界遺産に登録されたのです。
日本でもシルクロードや楼蘭が有名になり多くの人が憧れるようになったのです。それは昭和時代のはじめ頃からでした。
昭和11年生まれの私も「月の砂漠」という童謡を知ってから長い間シルクロードに憧れてきました。シルクロードは日本人の憧れです。
日本画家の平山郁夫もシルクロードに憧れていたのです。平山郁夫の美術館は八ヶ岳の麓の甲斐小泉にあります。私共も何度も訪ねました。平山郁夫の日本画をご紹介いたします。心静まる美しい風景画です。全ての写真は家内が撮ったものです。

1番目の写真は玄奘三蔵法師をテーマにした『仏教伝来』です。東京藝術大学で助手を務めていた1959年ごろの制作です。平山郁夫はインドへ旅した三蔵法師を尊敬していました。この制作が切っ掛けになり中国とローマを結ぶシルクロードに強い興味を持ちその風景画を沢山描くようになります。

2番目の写真は何度か訪れた甲斐小泉の平山郁夫シルクロード美術館に展示してあった「月光砂漠行」です。
平山郁夫は1968年以降シルクロードに関連する国々を数十回訪問し各地の風景画を描いています。訪れた国は中国、中央アジア、西アジア、東南アジア、地中海地域などシルクロードと関連のあった国々約37ケ国です。
平山郁夫の一生はシルクロードに魅せられた生涯だったのです。

3番目の写真は同じくシルクロード美術館に展示してあった「アフガニスタンの砂漠行」です。
この美術館の1階にはシルクロードと関連のあった陶磁器、織物、イスラーム美術の彫刻、ガンダーラ美術の仏像、硬貨など約9000点の一部が展示されています。平山郁夫のシルクロードにかける情熱の強さに圧倒されます。

4番目の写真はインド洋を東西に繫ぐ「海のシルクロード」です。
「シルクロード」はドイツ語でSeidenstraßenと複数形になっていますが,全て内陸の交易路を意味し海のシルクロードは含まれていません。「海のシルクロード」は後世の人々が付けた名前です。

5番目の写真は平山郁夫シルクロード美術館に展示してあった北杜市から見上げた「甲斐駒岳」です。私の山小屋から見える甲斐駒岳なのでついでに示します。
そして私が想像している遥かなるシルクロードの風景写真を2枚お送り致します。
写真は「シルクロードの風景写真」を検索してインターネットからお借り致しました。


最後に平山郁夫画伯の日本画について簡単に感想を書きたいと思います。
平山郁夫の日本画を見ると何故心が静まります。それはたぶん絵の背後に仏教的な祈りがあるからです。
平山郁夫は先の戦争や原爆被爆の体験から、終生「平安と鎮魂」を求めていたのです。仏教的な祈りでした。
奈良の薬師寺に奉納された壮大なスケールの『大唐西域壁画』と『ナーランダの月』は正しく心の平安と全ての死者の鎮魂を祈った壮大な絵画です。
平山郁夫の絵画の裏には何時も静かな仏教的祈りがあるのです。

私は彼の絵が大好きですが、家内は何となくつまらない絵だと言います。

今日はシルクロードを有名にしたドイツの地理学者リヒトホーフェンと弟子のスウェーデンの地理学者ヘディンをご紹介しました。そしてシルクロードが日本人が何故憧れるか理由を説明しました。平山 郁夫画伯の日本画をご紹介しました。心静まる風景画です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「目が覚めるような紅葉の風景」

2023年10月14日 | 写真
ここに示す写真の出典は、https://jafmate.jp/drive/sp_20221001.html です。

1番目の写真は山中湖と富士山です。

2番目の写真は十和田湖の子ノ口から流れる流れる奥入瀬渓流です。

3番目の写真は栗駒山方面から小安峡へ向かう奥小安峡の紅葉です。

4番目の写真は早朝の朝日を浴びて真っ赤に染まる三国峠です。

「今日の都立武蔵野公園の写真」

2023年10月13日 | 写真
都立武蔵野公園は武蔵野に残る草原や雑木林を配した野趣に富んだ公園です。そして公園の真ん中を流れているのが野川です。いつも釣人がいる丸池もあります。
午後に 青空の下で、ゆっくり散歩しながら写真を撮って来ました。



「大きな樹々の写真撮りに行く」

2023年10月12日 | 写真
近所に国立の学芸大学があります。構内の大きな樹々が秋の色になっています。広い構内には子供連れの主婦が三々五々のんびりと散歩しています。私ものんびり写真を撮って来ました。長閑な秋の午後でした。