後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「玄奘三蔵法師が学んだナーランダ僧院の現在の写真」

2023年10月12日 | 写真
玄奘三蔵法師が学んだナーランダ僧院の現在の写真です。
世界初の全寮制大学で、古代世界で最も偉大な学問の中心地の一つである。現在のパトナの南東約90キロの場所にあり、427年から1197年まで運営されていた。
7世紀には中国からの巡礼者が来訪し、玄奘三蔵は657冊のサンスクリット語仏典を、義浄は400冊のサンスクリット語仏典を持ち帰り、それらの仏典は東アジアの仏教に大きな影響を与えたのです。
(https://ja.wikipedia.org/.../%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%A9... )

「中国、韓国、日本の人々が尊敬する玄奘三蔵法師」

2023年10月12日 | 日記・エッセイ・コラム
玄奘三蔵法師のことを書いていると元気が出てきます。玄奘三蔵法師はアジア諸国の誇りです。そこで今日もこの三蔵法師のことを書きたいと思います。
考えてみると、中国、台湾、韓国そして日本の文化は仏教と儒教の文化です。この佛教をインドから持って来たのが鳩摩羅什(くまらじゅう、344年 - 413年) と玄奘三蔵法師でした。
今日は中国、韓国、日本の人々が共通に尊敬している玄奘三蔵法師の偉業を簡単にご紹介したいと思います。
私自身はカトリックですが特に玄奘三蔵法師と弘法大師を敬っています。

さて玄奘三蔵法師は唐時代にはるばるインドへ旅をして仏教の全ての教えを持って帰って来たのです。
現在、中国、台湾、韓国、日本で読まれているお経のほとんど全ては彼がインドから持ち帰り、漢文に翻訳したものです。そして一部はインドのパーリ語の発音をそのまま漢字で表したものです。般若心経と大悲心陀羅尼がその例です。ですから玄奘三蔵法師こそ日本文化に深い影響を与えたのです。
彼は西暦602年に生まれ、664年に62歳で亡くなりました。
西暦629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教の研究を行って、16年後の645年に経典657部や仏像などを背負って帰ってきました。以後、翻訳作業で従来伝承された仏教の誤りを正しながら、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなったのです。それでは彼の旅の道程を示しましょう。
1番目の写真は玄奘三蔵法師の旅の道程を示した図面です。
(この図面の出典は、http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/12.html です。)
インドへ入った玄奘は、ガンダーラやカシミールを経由し、ブッダゆかりの地を訪れた後に、有名なナーランダー僧院(現在のビハール州)へと赴いています。
当時のナーランダー僧院では、仏教以外にも様々な学問が行われており、数千人もの俊才たちが勉強していました。玄奘は、有名な戒賢(シーラバドラ)に師事して『瑜伽師地論』を中心に学び、この地で五年間、勉学に励んだのです。瑜伽師地論とは大乗仏教唯識派の重要な文献の一つです。 
そして西暦645年に玄奘三蔵はインドから経典657部を持ち帰ってきたのです。
帰って来た唐は名君の二代目の太宗が皇帝の時代でした。太宗は645年玄奘三蔵が持ち帰った経典の翻訳を指示します。
玄奘三蔵は長安(現在の西安)の大慈恩寺で翻訳作業を進め彼が没する664年の直前まで続けたと言われています。
2番目の写真は現在の西安の慈恩寺の境内にある玄奘三蔵法師の記念堂です。
写真の出典は、http://www.e-asianmarket.com/xian/xiantemple01.html です。
3番目の写真は玄奘三蔵法師の記念堂にある玄奘三蔵法師の像です。
この写真の出典も、http://www.e-asianmarket.com/xian/xiantemple01.html です。

4番目の写真は大慈恩寺の境内にある大雅塔です。
私は1981年に特別の許可を貰ってこの大雅塔の最上階まで登ったことがあります。当時は文化大革命の後だったので大雅塔の土の階段が崩れていたことに心が痛みました。現在は綺麗に修復され立ち入り禁止になっていると聞きました。
大雅塔の最上階で玄奘三蔵法師を想い感動しました。忘れられない西安の旅でした。
5番目の写真は日本のお寺にある玄奘三蔵法師の像です。
この写真は埼玉県の慈恩寺で私が撮りました。このお寺には玄奘三蔵法師の遺骨の一部があるという伝承があったので訪問したのです。
この訪問記は、http://yamanasi-satoyama.blog.ocn.ne.jp  の2009年9月14日の掲載記事、「日本の全仏教徒のために海を渡ってきた玄奘三蔵法師の遺骨にお参りして来ました」に書いてあります。

今日は中国、台湾、韓国、日本の人々が共通して尊敬している玄奘三蔵法師の偉業を簡単にご紹介しました。

詳しくは、「愛と文化は国境を越える(4)日本文化の基礎を作った玄奘三蔵法師のインドへの旅」(2014年08月29日 掲載記事)にあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料======================
玄奘三蔵法師が持ち帰った大乗仏教とは?
(日本の仏教と釈迦の教えの違い(3)般若心経は大乗仏教のお経、2018年05月17日掲載記事)

「空地になっている築地市場の現在の写真」

2023年10月10日 | 写真
空地になっている築地市場の現在の写真です。

1番目の写真は築地市場の現在の写真です。

2番目の写真は築地場外市場の様子です。築地市場は豊洲へ移転したが、場外市場は変わらず営業しています。


「秋は魚が美味しい、以前の築地魚市場ものがたり」

2023年10月10日 | 日記・エッセイ・コラム

魚は四季折々何時でも美味しいいものです。食欲の秋は特に魚が美味しい季節です。私は漁港、塩釜の隣りの仙台で生まれ育ったので特に魚が大好きです。東京に移り住むようになってからは東京の築地魚市場からの魚を食べていました。なお築地魚市場は2018年には豊洲に移転しました。築地にはありません。

そこで今日は以前によく行った懐かしい築地魚市場について思い出をいろいろ書いてみたいと思います。今日ここに示す写真は2011年に撮影したものです。築地魚市場は豊洲に移転しております。

築地魚市場は全国一の魚の取引高を誇り、その存在は東京の地域文化に大きな影響を与えていました。

江戸時代の魚河岸は日本橋にあり、芝浜にも雑魚の魚河岸があったそうです。その魚河岸は江戸落語や江戸文学にたびたび取上げられています。

散在していた魚市場を統一して、昭和10年に築地に大きな市場をつくりました。明治時代に外人の居留地だった築地が海軍省の用地として広い野原になっていたのです。それを東京都が借り受けたのです。

場所は日本橋から築地に移転しましたがその市場には江戸時代からの庶民の文化が息づいているのです。そんな雰囲気が懐かしくなって、以前にぶらりと築地場外市場へ出かけてみました。

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1番目の写真は波除神社です。

この波除神社は万治2年、1659年出来た神社です。その由来はこの記事の末尾にあります。この波除神社が以前の場外市場の東端になり、その前を右折すると中央区営の大きな駐車場がありました。

この公共駐車場の北側から晴海通りまでの一角が場外市場で、一般人向けの昔風な店が文字通りひしめいていました。魚だけでなく何でも売っていました。すし店も数多くありました。ここの寿司は魚が新鮮で美味いので東京中の人が集まって来るのです。そんな以前の様子を写真で示します。001

2番目の写真は以前の築地魚市場の場外市場です。

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3番目の写真は以前の築地魚市場の場外市場にある寿司清です。築地に行ったとき決まって寄る寿司清です。

平凡なチラシの味が圧倒的に美味です。魚が新鮮なだけでなく美味な魚介類だけを丁寧に選んで使っています。さすが築地の寿司屋でした。なお寿司清は数多くの支店がありますが築地店は抜群でした。

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4番目の写真は寿司清のちらし寿司です。帰りがけに、家内の好物の煮あなごの棒寿司も買いました。その他、何と言ってもマグロの専門店が多く、サクのマグロを売っていました。

さて以前の築地市場を出て、浜離宮の方角へ車を走らすと築地運河にヨットが係留されている所に出ます。この係留地から何度かヨットに乗ったことがあったので懐かしく思い写真を一枚撮りました。銀座七丁目に近い都心のマリーナです。047

5番目の写真は銀座七丁目にあるヨットマリーナです。ついでにここから出航すると見える風景の写真をお送り致します。

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6番目の写真は東京湾です。

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7番目の写真は隅田川の河口から上流方向を見た風景です。

今日は以前によく行った築地魚市場についての思い出を書きました。懐かしい思い出を書きました。

尚、下に江戸の魚河岸の歴史や関連資料のURLを付記しておきました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=====関連資料======================

(1)魚河岸四百年:http://www.sakanaya.co.jp/history/

(2)築地波除神社(なみよけじんじゃ)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E9%99%A4%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE

明暦の大火後、築地の埋め立て工事が行われたが、荒波の影響で工事は難航した。その最中のある晩、光を放ち漂う御神体が見つかり、万治2年(1659年)、現在地に社殿を建て祀った。その後、波が収まり工事が順調に進んだことから、以降厄除けの神様として信仰を集めることとなった。

(3)築地市場:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%89%E5%9C%B0%E5%B8%82%E5%A0%B4

江戸時代から東京の食品流通を担ってきた日本橋魚河岸をはじめとする市場群が、1923年(大正12年)9月に起きた関東大震災で壊滅したのを受け、12月、隅田川や汐留駅といった水運、陸運に恵まれていた旧外国人居留地(築地居留地)の海軍省所有地を借り受けて臨時の東京市設魚市場を開設したのが、築地市場の始まりである。

(4)魚河岸ものがたり:http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-23752

(5)『築地魚河岸三代目』(つきじうおがしさんだいめ)は、『ビッグコミック』(小学館)で連載中の漫画作品。作画ははしもとみつお。原作は大石けんいち1巻)、鍋島雅治2-21巻)、九和かずと他(21-)。201210月現在、単行本(小学館ビッグコミックス刊)が第36巻まで発売されている。出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%89%E5%9C%B0%E9%AD%9A%E6%B2%B3%E5%B2%B8%E4%B8%89%E4%BB%A3%E7%9B%AE

築地の魚市場(築地市場)を舞台とし、魚介の食材を題材としたグルメ漫画である。2008年に松竹系公開で映画化された。

銀行の人事部員だった赤木旬太郎は、上司に命じられて行ったリストラ執行の責任を、自分なりに取って退職、妻の父の跡を継いで築地魚河岸の仲卸「魚辰」の三代目を務めることにした。右も左もわからない築地で持ち前の明るさ、食いしん坊、好奇心で築地・魚を通じて起こる様々な問題を解決していく。


「国の天然記念物の都井岬の野生馬」

2023年10月09日 | 写真
草原の向こうには、どこまでも続く日向灘が広がっています。御崎馬は現在約100頭くらいいます。
この都井岬の野生馬は約320年前の軍馬飼育が始まりでした。江戸時代に高鍋藩秋月家が軍馬を飼育するための牧場を開いたのです。都井岬では極めて自然に近い形で放牧が行わてきました。
馬の検査や管理のため、年に一度は村をあげて「駒追い」が行われてきました。藩主と郡代、牧奉行が見守るなか、雌は繁殖用に、一部の雄は種馬候補として残し、残りは軍馬に使用されていたのです。

昭和28年(1953)には「岬馬およびその繁殖地」として国の天然記念物に指定されました。(https://www.tabirai.net/sightseeing/tatsujin/0000480.aspx )
写真をお送り致します。


「敗戦から茫々78年、ドサクサで私が行った事」

2023年10月09日 | 日記・エッセイ・コラム
今年は日本の敗戦から茫々78年です。敗戦の後、子供たちは面白い経験をしました。生活は苦しかったのですがかつてない冒険の日々でした。
今日は敗戦後、私が行った事や見た事のいろいろを書いてみたいと思います。
太平洋戦争の敗戦は1945年でした。昭和11年に仙台に生まれた私は9歳でした。
私の少年の頃の冒険とは日本軍が放置した上陸用舟艇に乗って広瀬川を川下りをする冒険です。上陸用舟艇は勝手に拝借し、川下りの後は岸辺に放置しました。悪童連と5回ほど上陸用舟艇での川下りをしました。岸辺に放置した上陸用舟艇は無くなっていましたから、広瀬川から太平洋に流れて行ったのでしょう。上陸用舟艇は長さ10メートル位で兵隊が10人以上乗れる小型なものでした。川下りをした広瀬川の写真を示します。
1番目の写真は評定河原橋の上から見た広瀬川です。真ん中の山並みの右の小高くなった所に青葉城跡があります。左の樹々の上には伊達政宗の霊廟がある経ヶ峰が聳えています。この写真の上流に第二師団の軍隊の兵舎が並んでいました。そしてそばの広瀬川の岸辺に上陸用舟艇が15隻ほど放置されていたのです。
2番目の写真は経ヶ峰の断崖です。上陸用舟艇での川下りをした場所です。上陸用舟艇はここから500メートル位上流の第二師団跡の河原に放置してありました。上陸用舟艇は折り畳んであったので両方の側面を起こして棒で支えて乗り込みます。あとは持参して行った竿で上陸用舟艇が浅瀬に座礁しないように方向を変えながら川下りをするのです。
一番遠くまで川下りをしたのは愛宕山の下まででした。重い上陸用舟艇は何度も座礁するのでした。

3番目の写真は旧陸軍の上陸舟艇です。私が川下りした上陸舟艇はもっと小さくてエンジンもついていませんでした。これが敗戦直後のドサクサに私が行ったことです。
そして敗戦直後にはいろいろな事があったのです。
1945年の8月には私は仙台の北方の田舎に疎開していました。そこ出身の航空兵が8月15日の直後に零戦に乗って復員して来たのです。故郷の上空に来ましたが飛行場がありません。仕方無く狭い河原に不時着します。
少年だったわれわれは零戦の操縦席のガラスを割り、ガラス片を持ち帰りました。そのガラス片は合成樹脂で出来ていたので硬い物とこすると甘いバナナの香りがするのです。甘いものに飢えていた当時は零戦の風防の合成樹脂は貴重品だったのです。
その他、敗戦直後にはいろいろな事がありました。日本国内で終戦を迎えた兵隊はすぐに復員出来たのです。軍用トラックごと田舎に帰った者もいました。軍馬に乗って郷里へ帰った者もいました。

4番目の写真は旧陸軍の軍用トラックです。
疎開先でこんな軍用トラックを見ました。トラックはガソリンが無くて農家の裏に放置してありました。

5番目の写真は今から出征する軍馬です。農家の馬もこのように出征して行ったのです。多くは二度と帰って来ませんでした。
さて終戦を迎えて日本国内では、将校は部下の兵隊達がアメリカ軍の捕虜になる前に復員させてしまったのです。その折軍隊の物資もアメリカ軍に接収されるくらいならと部下に分け与えたのでしょう。将校たちはアメリカ軍が進駐するまで踏み止まりました。
兵隊たちは軍用トラックに乗ったり軍馬に乗って故郷に帰って来ました。家内は疎開先の農家で、馬に乗って復員して来た疎開先の息子から馬の世話を教えられ、やがて馬が大好きになったそうです。 
戦後の新聞には日本軍の隠匿物資がいろいろと摘発されたことが報じられていました。隠匿物資は今考えると将校たちの責任のように思えます。
敗戦直後の仙台の街には軍服姿の復員兵が溢れていました。ギターを持った白衣の傷病兵が歌を唄って物乞いをしていました。並木路子のリンゴの歌や笠置シズ子の東京ブギブギが街に流れていました。

茫々あれから78年。日本も住み良い国になったものです。しかし戦没した方々、南の島々でそしてシベリアで飢死した将兵のことを私は絶対に忘れません。
皆様は終戦直後にどんな経験をされたでしょうか?

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日のカトリック関口教会の年間第27主日のミサの動画配信」

2023年10月08日 | 日記
今日のカトリック関口教会の年間第27主日のミサの動画配信です。

10月8日10:00 司式 天本昭好神父(主任司祭)
https://www.youtube.com/watch?v=R0IZz90UeSI

入祭の歌  カ典12 神はすべてのものを治め
いつくしみ・栄光の賛歌 ミサ曲610・612
答唱詩編  典80④⑤⑥ 神よわたしに目を注ぎ 
アレルヤ唱 典270 年間第27主日
信仰宣言 ニケア・コンスタンチノープル信条(1)
奉納  カ典30 流れのほとり  
感謝・平和の賛歌 ミサ曲613・614   
拝領  カ典310 キリストはぶどうの木
閉祭  典387 神はキリストのうちに

添付の写真は、東京のカトリック関口教会の写真です。


「ウクライナの戦争は10年以上続く?!」

2023年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム
ウクライナとロシアの戦争はベトナム戦争のように10年以上続くと思います。理由は明白です。ウクライナ側がクリミア半島を奪回し東部のロシア占領地からロシア軍を完全に駆逐するまで続くのです。それまでは絶対にウクライナは停戦に同意しません。誰の目にも明らかです。
ロシアはクリミア半島と東部のロシア占領地に強固な防衛陣地を構築してしまったのです。ウクライナ側がこれを攻撃し占領するまでは10年以上かかると考えられます。たとえ停戦交渉が始まったとしても合意には長い年月がかかります。ウクライナ側はロシア軍を完全に駆逐するまでは絶対に停戦には合意しません。
その上、ウクライナ側のロシアに対する怨念は歴史的な背景もあるのです。
歴史的にみるとウクライナとロシアは兄弟国です。仲の良かった時代と悪かった時代が交錯した複雑な関係です。仲の悪かった時代はコサック時代でその後のロマノフ王朝時代はロシアとウクライナは一体化しています。そしてウクライナはロシア革命のさなか独立し、ウクライナ国民共和国でした(1917〜20年)。しかしソ連時代になるとその独立が破綻するのです。
そしてソ連崩壊後に悲願の完全独立が達成されたのです。
今回のロシアによるウクライナ攻撃は上記の複雑な関係史の延長なのです。
・・・ソ連時代のウクライナ・・・
1922年に成立したソ連は、制度上は各共和国の自由意思による結合の連邦国家で、ウクライナもソ連を構成する共和国の一つでした。しかしスターリンの時代になると、モスクワに完全に統制されソ連の一行政単位となったのです。
 1923年ソ連は、各共和国の民族、文化に応じた施策を慫慂する「土着化」政策を進めます。これは、1917年末から1921年末まで続いた内戦でモスクワの共産党に執拗に抵抗したウクライナを取り込むための政策でもあったのです。これによってウクライナでは、ウクライナ人の登用、ウクライナ語化などが進められました。
これがソ連崩壊後のウクライナの独立につながったわけです。
・・・ウクライナ正教会の「独立」・・・
 ウクライナはわずかな期間でしたが独立した時期がありました(ウクライナ国民共和国、1917〜20年)。このときウクライナ正教会もロシア正教会から独立しようという動きます。それが現実的な動きとなったのは、ソ連が崩壊しウクライナが独立した時でした。
1920年ウクライナ独立正教会が設立され、21年にはキエフおよび全ウクライナの府主教が任命されます。儀式にもウクライナ語を使用しました。しかしソ連政府は次第に規制を強め、1930年にはウクライナ正教会の解散させられます。

以上のようにロシアの武力侵攻に背景には複雑なウクライナとロシアの歴史的な関係がからんでいるのです。

今日はウクライナとロシアの戦争はベトナム戦争のように10年以上続く理由を説明しました。

挿絵代わりの写真は美しいウクライナの田舎の風景とロシアのミサイル攻撃で破壊された都会の風景です。写真はインターネットからお借りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「昔の農村の面影を残す近所の風景」

2023年10月07日 | 写真
この辺は昔は小金井村という農村でした。水はけの良い土なので水田が作れず畑作だけでした。あちこちに雑木林があり、その間に畑作農家が散在していました。私の家の近所には今でも雑木林や畑作が残っていて昔の農村の面影を残しています。
今日は気持ちの良い秋晴れなので近所を散歩しながら雑木林や畑の写真を撮って来ました。その写真をお送り致します。


「秋の七草の花の写真をお楽しみ下さい」

2023年10月07日 | 写真
今日はいかにも秋らしい爽快な青空が広がっています。気温も丁度散歩に適したものです。こんな日は近所の草原を歩きまわります。歩きながら秋の七草の花を探そうと思います。7つは無理でも尾花や萩くらいは見つかるでしょう。
ご存知と思いますが秋の七草のご紹介を致します。
秋の七草は、奈良時代初期の貴族で歌人である「山上憶良(やまのうえのおくら)」が詠んだ二首の歌が由来とされています。

ひとつは
「秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり) かき数ふれば 七種(ななくさ)の花」

もうひとつは
「萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌の花」

尾花とはススキのことです。
また、朝貌は諸説ありますが、アサガオではなく、キキョウの花という説が有力です。

次に秋の七草の花の写真をお送り致します。
7枚の写真は順に以下のとうりです。
1,紫色の萩
2,白色の尾花
3,紫色の葛(クズ)の花
4,ピンク色の撫子(ナデシコ)の花
5,黄色の女郎花(オミナエシ)の花
6,紫色の藤袴(フジバカマ)の花
7,紫色の桔梗(キキョウ)の花

写真の出典は、https://www.i-iro.com/nanakusa-aki-iro です。

今日はいかにも秋らしい爽快な青空なので秋の七草の花の写真をお送りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)