575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

「魂の一行詩宣言」で少し分かった。    愚足

2008年10月27日 | Weblog
★角川春樹がこんな姿勢で俳句を作っているとは恥ずかしながら知らなかった。
 「のっぴきならぬ一行詩」なら難解なのもやむおえぬか。
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       宣 言

 私はながく俳句を詠んできた。また、多くの句集、俳論を著してきた。
 現在、私は父・源義が昭和33年に創刊した俳誌『河』を先年亡き母から引き継ぎ、その「主宰」をしている。
 そして私は今、新たに次なるこの運動を提唱し、展開することを決意した。

    - 「魂の一行詩」 - である。

 魂の一行詩とは、日本文化の根源にある、「いのち」と「たましひ」を詠う現代抒情詩のことである。古来から山川草木、人間も含めあらゆる自然の中に見出してきた「魂」というものを詠うことである。
 一行詩の根本は、文字どおり一行の詩でなければならない。
 俳句にとって季語が最重要な課題であるが、季語に甘えた、あるいはもたれかかった作品は詩ではない。芭蕉にも蛇笏にも季語のない一行詩は存在するのだ。私にも季語のない一行詩がある。

   老人がヴァイオリンを弾く橋の上  『海鼠の日』

   泣きながら大和の兵が立つてゐる  『JAPAN』

 ただ、詩といっても五七五の定型に変わりはない。五七五で充分に小説や映画に劣らない世界が詠めるからである。
 また、秀れた俳句は、秀れた一行詩でもある。
 したがって、俳句を否定しているわけではない。本意は「俳句的俳句」、物に託す「物説」、事柄に託す「事説」、あるいは技術論ばかりの小さな「盆栽俳句」にまみれている俳壇と訣別することだからである。

 今、私は「俳句」という子規以来の言葉の呪縛から解き放たれ、独立した。私の美意識は俳句よりも「魂の一行詩」を選択したのだ。
 俳句は「いのち」も「魂」もつぎ込む価値のある器。自らの生き方、生きざまを描くものである。つまり魂に訴えていくものなのである。訴える力さえあるならば、また、心と魂(頭ではなく)で詠めば、定型という枠を自ら破壊するエネルギーをもった一行詩が生まれるであろう。
「魂の一行詩」という名称を提唱するのも、俳壇外のより多くの人にアピールするためでもある。詩眼を持つ若い世代にも門を開きたいと思う。
 この運動は短詩型の「異種格闘技戦」 - K1のようなもの(笑)であるから、詩、短歌、俳句、川柳、それぞれ出身のかたがたにも是非、「魂の一行詩」のステージに上がられることを望む。

 この運動は文学運動である。
 自分の人生を詩そのものとして生きる私の魂を賭けた運動である。
 100年前の正岡子規以来の俳句革新運動である - そのことをここで宣言する。

         亀鳴くやのつぴきならぬ一行詩    春樹

コメント (1)
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