575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

ことし生まれの子       (清水哲夫の増殖する俳句歳時記より)

2008年10月06日 | Weblog
   秋かぜやことし生れの子にも吹く     小西来山
   どの子にも涼しく風の吹く日かな     飯田龍太

 小西来山は西鶴や芭蕉よりも若年だが,ほぼ同時代を生きた大阪の俳人だ。「酒を愛し,人形を愛し,そして何よりも俳句を愛した」俳人である。
 掲句は一見どうということもない句に見えるが,それは私たちがやむを得ないことながら、現代という時代のフィルターを通して読んでしまうからである。
 前書きに、こうある。「立秋/天地平等 人寿長短」。すなわち来山は,自分のような大人にも「ことし生れの子」にも、平等に涼しい秋風が吹いている情景を詠み,しかし天地の平等もここらまでで、人間の寿命の長短には及ばない哀しさを言外に匂わせているわけだ。このときに「ことし生れの子」とは、薄命に最も近い人間の象徴である。一茶の例を持ち出すまでもなく,近代以前の乳幼児の死亡率は現代からすれば異常に高かった。したがって往時の庶民には「ことし生れの子」は微笑の対象でもあったけれど、それ以前に大いなる不安の対象でもあったのだった。現に来山自身,長男を一歳で亡くしている。
 この句を読んだとき,私は現代俳人である飯田龍太の「どの子にも涼しく風の吹く日かな」を思い出していた。龍太は「どの子にも」の「子」に「天地平等」は言っていても「人寿長短」は言っていない。「どの子にも」という現在の天地平等、これから長く生きていくであろう「子」らの未来を言っているのだ。類句に見えるかもしれないが,発想は大きく異なっている。俳句もまた、世に連れるのでる。

★夏に三人目の孫が生まれ、この文に出会って「どの子」にも戦争・環境など不安な未来の「人寿長短」への想いが拭えないのであるが。 
 
                  (愚 足)
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする