★最近川崎展宏氏の俳句に関心があってネットで検索していたら氏の「虚子」についての講演記録に出会いました。http://www5d.biglobe.ne.jp/~NANPU/kouen.html
わからない点も多いのですが興味深かったので虚子について勉強したくなりました。 (愚 足)
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・・・近代の詩人達の多くが狂うのはそういうことではないかと思うのです。文学に致しましても、常に個人とその個人の独創が尊ばれます。そして新しさをお互いに競うのが近代文学の在り方でございます。そういうものに私はついて行けない、又、人々について行けないという共感が得られる時期が来ているのではないかと思います。
そういう私にとりまして、今、虚子が新しいのです。新しいというのは近代の方向で新しいのではなくて、違った意味で新しい、そういう思いを今いたしております。「今、思うこと」の中心はそういうことでございます。
そこに虚子の芭蕉の葉がございます。これをどう詠むか、
横に破れ縦に破れし芭蕉かな (昭和9・11 新歳時記)
どうしてこの句を真っ先に挙げるかと申しますと、ぼろぼろになるまで使っております虚子の新歳時記の中で、この一句が最近ぐーんと胸に来たんですね。そしてそのぐーんと来た気持ちを何とか今日この席でお話できたらと思いまして始めに挙げる次第です。・・・・・この句は単純そのものですね。しかし、何か背筋をただされる、詩歌の鞭で背中を強く打たれたといったある種の痛さと快感がある、そんな気持ちでこの句を受け取ったのでございます。その時に思い出した虚子の言葉があります。
『渇望に堪へない句は、単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句、無味なる事水の如き句、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句』
この言葉だったんですね。これは明治36年10月に「ホトトギス」に発表されました「現今の俳句界」という碧梧桐の作品に対する批評の文章なんです。実は、「渇望に堪へない句は、単純なること棒の如き句」の前に「碧梧桐の句にも乏しいやうに思はれて」と付いております。「碧梧桐の句にも乏しいやうに思はれて、渇望に堪えない句は・・・」と続いていくわけです。 では、碧梧桐とはなにか、これはやはり個性と独創を競う近代俳句の新を求め続けるという姿勢の原点となった、そういう意味で近代俳句の非常に大きな存在だということは申し上げるまでもございません。 <横に破れ縦に破れし芭蕉かな>が今の私には強靱な句に思えます。「重々しき事石の如き」というのは比喩でありますから、私が受け取ったのはまず強靱だなということ、それから単純なる事棒の如き句だと思います。<横に破れ縦に破れし芭蕉かな>それだけなのですから。無味なる事水の如き句、ちっとも味付けがしてございません。 これは正に平成の現今の俳句界で渇望に堪えない句ではないかと思った訳です。この齢になって、又一つ虚子の句を発見したという思いがします。見方を変えて言えば、これは、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句じゃないでしょうか、だってただ<横に破れ縦に破れし芭蕉かな>なのですから。何じゃこれは、冗談じゃない、何にも新しくない、ただの葉っぱじゃないかということですけれど、立場を変えれば渇望してやまない句の条件をいくつも満たしている句じゃないですか。 虚子の発言は一言でいえば、・気の利いた新しさ・を狙った碧梧桐の俳句の在り方を痛烈に批判した文章であります。私にとっては、近代俳句の問題として、現代俳句の問題として、今の自分自身の問題として、渇望に堪えないのが、単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句ということですね。無味なる事水の如き句、立場をかえていえば、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句、そういう句が出来たらなあと思います。句は授かるもので作れるものではありませんが、今こそこういう句が欲しいと思います。
わからない点も多いのですが興味深かったので虚子について勉強したくなりました。 (愚 足)
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・・・近代の詩人達の多くが狂うのはそういうことではないかと思うのです。文学に致しましても、常に個人とその個人の独創が尊ばれます。そして新しさをお互いに競うのが近代文学の在り方でございます。そういうものに私はついて行けない、又、人々について行けないという共感が得られる時期が来ているのではないかと思います。
そういう私にとりまして、今、虚子が新しいのです。新しいというのは近代の方向で新しいのではなくて、違った意味で新しい、そういう思いを今いたしております。「今、思うこと」の中心はそういうことでございます。
そこに虚子の芭蕉の葉がございます。これをどう詠むか、
横に破れ縦に破れし芭蕉かな (昭和9・11 新歳時記)
どうしてこの句を真っ先に挙げるかと申しますと、ぼろぼろになるまで使っております虚子の新歳時記の中で、この一句が最近ぐーんと胸に来たんですね。そしてそのぐーんと来た気持ちを何とか今日この席でお話できたらと思いまして始めに挙げる次第です。・・・・・この句は単純そのものですね。しかし、何か背筋をただされる、詩歌の鞭で背中を強く打たれたといったある種の痛さと快感がある、そんな気持ちでこの句を受け取ったのでございます。その時に思い出した虚子の言葉があります。
『渇望に堪へない句は、単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句、無味なる事水の如き句、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句』
この言葉だったんですね。これは明治36年10月に「ホトトギス」に発表されました「現今の俳句界」という碧梧桐の作品に対する批評の文章なんです。実は、「渇望に堪へない句は、単純なること棒の如き句」の前に「碧梧桐の句にも乏しいやうに思はれて」と付いております。「碧梧桐の句にも乏しいやうに思はれて、渇望に堪えない句は・・・」と続いていくわけです。 では、碧梧桐とはなにか、これはやはり個性と独創を競う近代俳句の新を求め続けるという姿勢の原点となった、そういう意味で近代俳句の非常に大きな存在だということは申し上げるまでもございません。 <横に破れ縦に破れし芭蕉かな>が今の私には強靱な句に思えます。「重々しき事石の如き」というのは比喩でありますから、私が受け取ったのはまず強靱だなということ、それから単純なる事棒の如き句だと思います。<横に破れ縦に破れし芭蕉かな>それだけなのですから。無味なる事水の如き句、ちっとも味付けがしてございません。 これは正に平成の現今の俳句界で渇望に堪えない句ではないかと思った訳です。この齢になって、又一つ虚子の句を発見したという思いがします。見方を変えて言えば、これは、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句じゃないでしょうか、だってただ<横に破れ縦に破れし芭蕉かな>なのですから。何じゃこれは、冗談じゃない、何にも新しくない、ただの葉っぱじゃないかということですけれど、立場を変えれば渇望してやまない句の条件をいくつも満たしている句じゃないですか。 虚子の発言は一言でいえば、・気の利いた新しさ・を狙った碧梧桐の俳句の在り方を痛烈に批判した文章であります。私にとっては、近代俳句の問題として、現代俳句の問題として、今の自分自身の問題として、渇望に堪えないのが、単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句ということですね。無味なる事水の如き句、立場をかえていえば、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句、そういう句が出来たらなあと思います。句は授かるもので作れるものではありませんが、今こそこういう句が欲しいと思います。