575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

欧陽修の「秋声賦」      遅足

2012年08月23日 | Weblog
欧陽脩は、北宋の政治家で学者。
1007生まれですから、日本では平安時代、源氏物語が
完成した頃に生まれた人です。

欧陽修の「秋声賦」以下、長文ですが、紹介します。
正確ではありませんが、大意はつかめると思います。


私(欧陽修)が夜、本を読んでいると、
西南の方からなにかがやって来るような音が聞えた。
「奇妙だな。初めは、雨の降るような音がしていたが、
風のさびしく吹きすさむような音になったと思ったら、
今度は、水が勢よく走って岩に当るような音がした。
大波がたって、俄かに風雨がやって来たようである。
それは、物に触れると、金属が鳴っているようにも聞こえる。
また、兵が敵に向って、物も言わずに速く走り、指揮官の号令も聞えず、
人や馬の足音だけが聞えているという風でもある」。

召使の童子に言った「何の音だろう。外に出てしらべて見よ」と。
帰ってきた童子は答えた。「星や月が白く輝いてきよらかでした。
天の川は空にあり、雨が降っているのでもありません。
またあたりに人声もなく、人馬の影など見えません。
ただ樹の枝が鳴っているだけです」と。

あの音こそ、悲しい響き。秋の声であろう。
秋の色は痛ましく淡く、静かである。
秋のすがたは、澄んで明るく、天は高く日の光も透き通って輝く。
空気は身にしみて冷たく、人の肌や骨を針でさすようである。
秋の心はさびしくて、山河も物さびしい。
秋の声は、ものがなしく、さしせまってかん高く聞こえ、勢いも強い。
草が緑こまやかに茂り、木がこんもりとしげって、目を楽しませているのに、
秋の気に吹きはらわれると、草の色は変り、木の葉は落ちてしまう。
草木が枯れ、葉が落ちるのは、秋の強い力のためである。

秋はまた、裁判官のような存在でもある。陰である。
生き物を殺す性質があるので、武器にも似ている。
五行説では、秋は金にあたる。
金は、天地を道理に従わせる働きがある。
秋は、道理に従って、常に物事を引きしめ、殺す。
天の万物に対する働きは、春には物が発生し、秋には物が実るのである。
故に秋は音楽では商声にあたり、西方の音を支配している。
十二律の中で夷則は七月、即ち秋の音律である。
商の字は音が傷で、物が老い、おとろえるという意味がある。
また夷則の夷は、戮、即ちころすという意味である。
万物が盛りを過ぎ、衰滅枯死すのは道理である。

心のない草木のようものでも、秋風にひるがえり落ちる。
人間には心がある。万物の中で最もすぐれた存在であるが、
心配は、心を動揺させる。仕事は、体をつかれさせる。
心の中に動くことがあれば、感情がゆり動かされる。
まして力の及ばないことを願い、出来もしないことを心配すれば、
心身を苦しめることになるのはいうまでもない。
色艶のよい顔がすぐ年老いて枯木のように衰え、
まっ黒な髪が白髪まじりになるのも、もっともなことである。
どうして金石のように不変な生れつきでもない人間の身で、
心を持たず、感動しない草木と生命力を比べ争おうとするのか。
おろかなことである。
誰が人の命をそこなようなことをするのであろう。
自然の理がそうするのである。
どうして秋の声を恨むことがあろうか。

と、語り了ったが、童子は答えもない。
無邪気に頭を垂れてねむっている。
溜息のような秋の虫の声が聞えているばかり。
いつの間にか夜が更けていた。

出典は、新釈漢文大系16 古文真宝(後集)・星川清孝著です。

  金剛の水のあげたる秋の声   遅足



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