575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

「困った時の風頼み」等

2016年05月01日 | Weblog
遅速さんから”この欄に投稿してほしい”と言われ、皆さんの俳句力向上に少しでもお役に立てば・・・と、お受けしました。
私の俳句歴は定年退職後からで、もう14~5年になりますが、トンネルを一つ抜ければまたトンネルと、どこまで行っても闇の中で、手探りをしながらもがき続けているのが現状です。

さて、今から5年前の平成23年7月、長野県小諸市で開かれた「こもろ日盛り俳句祭」に、私の大学時代からの親友、湯口昌彦氏に誘われて参加しました。湯口氏はこれからもたびたび登場させますが、今売り出しの井上弘美さんの主催する「汀」の初代編集長で、私を”悪の道・俳句”に引っ張り込んだヤツで、私に俳句の手ほどきをしてくれた先生です。

「俳句祭」では、著名な先生の講演やシンポジウムのほか、句会や吟行、はたまた列車貸切の俳句会などもありました。私は山のお寺の吟行に参加し、崖に蛇の抜け殻の皮がぶら下がっていたので、
  「くちなわの皮は懸崖仏座す」
と詠みました。

この句について湯口氏は”1句の中に句材が「くちなわ」「懸崖」「仏」と3つもあり煩わしい。井上先生は材料は2つと厳しく言われている”と言い
  「くちなわの皮は懸崖そよぎをり」と添削し、さらに
  「くちなわの皮懸崖の風とあり」と添削してくれました。

湯口氏曰く、”風は無色透明で、どんな句にの状況にも寄り添ってくれる。句材を減らして後が困った時などは風に頼め”と教えてくれました。
皆さんも一度試してみてください。(等)


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復帰への思いに重き火を燃やす   遅足

2016年05月01日 | Weblog
沖縄旅行。28日に本島の最北端、辺戸岬へ。
占領下にあった時、県民が本土復帰を願いを込めて狼煙の火をあげた場所です。
天気がよければ与論島が見えるはずでしたが、黄砂のためか、見えませんでした。
昭和47年の沖縄返還を記念した「日本祖国復帰闘争碑」が建っていました。

4月28日は、沖縄が日本から切り離されてアメリカの占領下に入った日でした。
この日には、4・28県民集会が那覇で開かれることになっていました。
辺戸岬に、夜の集会に参加する予定の方たちが、観光客に宣伝活動をしていました。
ここで出会ったのが、元先生で作っている北星会の会長さんでした。
ささやかなカンパをお渡しして激励しました。ご苦労様です。

この日の様子を琉球新報は次にように報じています。

1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効してから28日で64年となった。
敗戦後、連合国軍の占領下にあった日本は条約発効で独立を果たしたが、
沖縄や奄美は日本から切り離された。
沖縄が日本復帰するまで米施政権下にあった27年間、本土から沖縄へ基地が移転。
日本国憲法が適用されず、人権が蹂躙(じゅうりん)された。
過重な基地負担など現在の沖縄差別の源流ともなったこの日は「屈辱の日」と呼ばれる。

日本政府は52年7月、米国民政府との連絡を担う那覇日本政府南方連絡事務所(南連)を設置したが、
沖縄の住民を「琉球住民」と定義し、沖縄在住で日本本土の国籍を持つ「日本人」とは区別していた。
南連の沖縄政策は、「日本人」は保護の対象だが「琉球住民」は対象外としており、
識者は「沖縄差別の源流ではないか」と指摘している。

2013年4月28日には、安倍晋三首相が主権回復の日式典を催し、沖縄からは強い反発の声が上がった。
28日午後6時15分から、沖縄平和運動センターが県民集会とデモ行進を県庁前で開かれた。

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