野沢凡兆<のざわぼんちょう>石川県金沢市 江戸初
期の生まれ。しかし、生年不詳で出自は謎に包まれ
ています。京都で医業を営み松尾芭蕉と出会ったと
ころから凡兆は文献に登場します。
「初しぐれ 猿も小蓑を ほしげ也」という冒頭の句
より始まる「猿蓑」の編集を松尾芭蕉、向井去来と
共に編集したことにより俳壇の注目を集めます。元
禄4年7月に発刊された「猿蓑」は芭蕉を超える41
もの秀句が入集されています。
猿蓑に入集されている「田のへりの 豆つたひゆく 蛍
かな」は凡兆の句です。しかし、芭蕉に大きく添削さ
れ、気分を害した凡兆は編纂時に削除を主張。伊賀上
野の豪商の句として入集したという逸話があります。
凡兆は自我が強いのでしょうか。師である芭蕉とトラ
ブルばかり起こしています。そして、芭蕉が旅先で出
会った放浪の俳諧師「八十村路通」<やそむらろつう>
を乞食坊主として、粗略に扱うなどの不祥事が重なり
芭蕉より破門されてしまいます。
やがて、凡兆は抜け荷の罪に関わったとされ投獄され
ます。出獄後、志太野坡<しだやば>、服部土芳<はっ
とりとほう>など芭蕉の門弟たちとの交流を再開しま
すが「猿蓑」の頃と比べどこか精彩を欠いた感があり
ます。ちなみに、凡兆の妻「とめ」俳号「羽紅」は芭
蕉門弟の才媛といわれ「猿蓑」に入集されています。
「石山や 行かで果せし 秋の風」<羽紅>
高浜虚子は、「芭蕉や去来の主観より離れ、敢然と客
観視を貫いた凡兆は高く評価されるべき」と「凡兆小
論」に記しています。また、室生犀星は「芭蕉の門弟
で凡兆を超える句は稀」と絶賛。凡兆が高評価を得る
には長い時が必要だったようです。
「禅寺の 松の落葉や 神無月」<凡兆>
写真と文<殿>