575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

「蕋<しべ>の中」

2020年11月07日 | Weblog



三橋鷹女<みつはしたかじょ> 1899年千葉
の生まれ。本名は「たか子」父は成田山新
勝寺の重役で成田町の助役を務めています。
三橋家は江戸時代から歌人を輩出。幕末の
歌人で、約2万首の和歌を詠んだといわれる
神山魚貫<かみやまなつら>は鷹女の遠縁に
あたります。和歌の記された色鮮やかな色
紙や短冊に囲まれた幼い鷹女。和歌は玩具
の絵柄だったのかもしれません。

成田高校時代の鷹女は、テニスが好きなス
ポーツ少女で数学が得意で作文は苦手。文
学少女という印象はありません。ちなみに、
鷹女は面長で撫で肩。そのため、竹久夢二
の描く女性に似ていると学内で評判になっ
たといわれています。

卒業後、上京し兄の慶次郎宅に身を寄せま
す。兄の慶次郎は若山牧水や与謝野晶子に
師事する歌人。影響を受けた鷹女は短歌の
道へと進みます。

1922年に俳人であり歯科医師の「東謙三」
と結婚し俳句を学びます。そして「原石鼎」
<はらせきてい>の「鹿火屋」<かびや>に
入会し俳句の研鑽を積みます。やがて「紺」
の俳句コラムの選者を務め、モダニズム俳
句の「富澤赤黄男」<とみざわかきお>の
「薔薇」にも参加。その後継誌「俳句評論」
の顧問となり、新興俳句の女性俳人として
世間にその名が知られるようになります。

「鞦韆は 漕ぐべし 愛は奪ふべし」<鷹女>

鷹女は新興俳句ならではの詩的表現を巧みに
駆使しています。そのため、初期の句集では
自在に口語を用いた前衛的な俳句が目立ちま
す。さらに、晩年においても衰えることなく
迫力ある句を詠んでいます。

「老いながら つばきとなつて 踊りけり」<鷹女>

三橋鷹女。享年74歳。消えゆく自らの生命を
詠んだ最後の句集「橅」<ぶな>より引用。

「椿一重 死は生き生きと 蕋<しべ>の中」


写真と文<殿>
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