哥川<かせん> 江戸時代中期 越前三国湊の
生まれ。遊女であり俳人。源氏名は「泊瀬
川」あるいは「長谷川」教養が高く容姿端
麗であったと伝えられています。
江戸時代、太平洋沿岸は船の近づけない難
所が多く、こうした海岸線を「灘」とよび
船乗りたちから恐れられていました。この
危険な太平洋沿岸を帆走し紀州のみかんを
江戸に運び巨万の富を得たとされるのが紀
伊国屋文左衛門です。一方、日本海沿岸は
良港が多く海難事故を避けることから海上
輸送のルートとして古くから利用されてい
ました。そのため、三国湊は北前船の寄港
する物流の一大拠点として栄えたといわれ
ています。なお、北前交易については司馬
遼太郎 「菜の花の沖」に記されています。
三国の遊里は、松ケ下、上新町、出村の三
箇所。井原西鶴は「北国にまれな色里」と
称賛しています。近松門左衛門も三国の遊
郭を舞台とした歌舞伎「傾城仏の原」の脚
本を書いています。三国の遊女は江戸の花
魁と比べても遜色がなく、さらに、束縛が
ないため、旅に出ることも自由だったと伝
えられています。
本題に入ります。哥川は三国の遊郭「荒町
屋」の遊女で永正寺の住職で俳人の「杉原
巴浪」より俳句を学びます。当時、遊郭の
遊女は、茶道や華道に精通。俳句も身につ
けるべき芸事や教養のひとつでした。哥川
は江戸に赴き俳句を学んだり、金沢の俳人
加賀千代女と句会を催したりしています。
「おく底の しれぬ寒さや 海の音」<哥川>
31歳の頃に遊女を辞めた哥川は 「豊田屋」
という遊郭の主人となりますが、やがて仏
門に入り出家。越前の瀧谷寺で庵をむすび
隠棲します。
「あさがほや 有明の月を しけれど」<哥川>
哥川は江戸時代の遊女。出生も没年も定か
でなく句集なども編まれていません。しか
し、その句からは300年という時を経ても
ほのかな色香が漂います。これが座敷の旦
那衆を虜にしたといわれる哥川の魅力かも
しれません。
「梅が香や その一筋の 道*ゆかし」<哥川>
*ゆかし 知りたい
写真と文<殿>