角川源義<かどかわげんよし>1917年 富山
の生まれ。源義の遠祖は宇多源氏の系統で
美濃の斎藤龍興に仕えたのちに豊臣秀吉の
家臣となっています。播磨の平田城を知行。
大阪夏の陣のあと、富山に戻り土着したと
いわれ、源義が自らの出自に興味を抱き歴
史に詳しいのも当然かもしれません。
源義は神通中学校の時に雑誌「改造」を読
み文学に傾倒していきます。特に漢文の造
詣が深く国語の教師を困惑させたといわれ
ています。京都の予備校で学び上京。國學
院大学に入学し、柳田国男、武田祐吉から
民族学や国文学の指導を受けます。
都内の城北中学校の教師を経て、1945年に
板橋の小竹町で角川書店を創業。1949年に
発刊した角川文庫本の成功により岩波書店、
新潮社と肩を並べます。1952年、俳句総合
誌「俳句」を創刊。1961年には俳句協会の
設立に尽力し「俳句文学館」の建設を行う
など日本の俳壇において多大な功績を残し
ます。
源義は、格調高く品のある飯田蛇笏や石田
波郷の自由な新興俳句の影響を受け、さま
ざまな句風を試みています。また、中世の
民族学や古典文学に精通していることから
難解な句が多いといわれています。しかし、
晩年の句集「冬の虹」では日常の何気ない
生活の情景を詠んだ平明な句へと変遷して
います。
荻窪の「幻戯山房」は源義の居宅。その跡
に記念館が建てられています。私生活が奔
放だった源義は息子の春樹と激しい確執が
あったといわれています。しかし、この記
念館では源義の娘「辺見じゅん」の歌集が
源義の句集と仲良く並んでいます。
「炎天の 野の駅はるか パナマ帽 若き父なれ 清きまぼろし」<辺見じゅん>
「冷酒や 蟹はなけれど 烏賊裂かん」<角川源義>
角川源義。角川書店の創業者で渾名は鬼源。
源義は58歳にて急逝。辞世とされた句。
「後の月 雨に終わるや 足まくら」<角川源義>
写真と文<殿>