竹久夢二<たけひさゆめじ>1884年 岡山の酒
造業の次男として生まれます。叔父宅に寄宿
して神戸高等学校に入学。しかし、父が酒造
業を廃業したことで中退を余儀なくされ、家
族で九州に転居します。1902年 18歳の時に
早稲田大学へ入学。1905年 平民新聞に絵が
掲載されたことから早稲田大を中退して挿絵
画家としての道を歩み始めます。
1907年 読売新聞に入社。「夢二画集 春の巻」
がベストセラーとなり、雑誌「少女」に「宵
待草」の原詩が掲載され、挿絵画家であり詩
人として広く知られることになります。
絵入りの小唄集「どんたく」を出版し、日本
橋に「港屋絵草紙店」を開店します。1915年
雑誌「子供之友」と「新少女」を創刊。その
翌年、セノオ楽譜より出版された「お江戸日
本橋」の表紙画が話題となり、宮内省のバイ
オリニストが「宵待草」に曲をつけ全国的な
大ヒットとなります。
夢二は俳句を1,256句発表しています。その
多くは平民新聞への投句。平民新聞は社会主
義を信奉する幸徳秋水が主宰する左派の政治
機関紙です。しかし、夢二は政論の渦中にあ
りながら場違いとも思える乙女チックな句を
詠んでいます。
「花の下「かあいいピスの墓」とあり」<夢二>
自由詩が得意だった夢二。しかし「詩」は当
時の大衆に馴染みがありません。そこで、夢
二は俳句を「小唄風」にして詠んでいます。
「おぼろ月 お一人なのと 念を押し」<夢二>
夢二は、その言動からして社会主義を信奉し
ていません。しかし、軍部の芸術への介入を
不快に感じていたことは事実でしょう。夢二
は軍国主義を批判した句ばかり詠んでいた時
期があります。そのため、1910年の大逆事件
で拘留されています。
「廃兵を 父にもちける 御代の春」<夢二>
面長でなで肩。儚げで憂いを湛える夢二の女
性像。しかし、その実生活での恋愛は別離や
嫉妬などで苦悩に満ち、夢二の恋多き人生は
安穏ではなかったようです。
竹久夢二。享年50歳。辞世の句。
「死に隣る 眠り薬や 蛙なく」
写真と文<殿>