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鈴木しず子 1919年 都内神田三河町の生ま
れ。愛知県犬山市の小学校を経て淑徳高校
へ入学します。しかし、若い女性と再婚し
た父親との確執などがあり、停学や謹慎処
分を繰り返し女子大への進学に失敗します。
「謹愼と いふこと強ひられ つつに花」<しず子 >
その後、専門学校で製図を学び東芝車両に
設計士として入社。社内の俳句サークルに
参加したことで「松村巨湫」<まつむらき
ょしゅう>が主宰する「樹海」へ投句する
ようになります。1946年 自らの句集「春
雷」を刊行。27歳の若き女性の句集として
話題となります。出版に際し、巨湫は、し
ず子が女子大に入学していたら句集は生ま
れなかっただろうと語っています。
「高女卒とは 名のみばかりに 八重櫻」<しず子 >
しず子は、母親と婚約者を同時期に亡くし
ています。職場での結婚も1年で破綻。同
棲した米兵を麻薬中毒で失い自暴自棄にな
ってしまった感があります。やがて、しず
子は岐阜柳ヶ瀬のダンサーや各務原の米軍
向けのキャバレーのホステスなどの仕事を
転々とします。
「ダンサーに なろか凍夜の 駅間歩く」<しず子 >
1952年「樹海」の同人たちがしず子の未
発表の句をまとめ「指環」を発刊。しかし、
しず子は出版記念会に出席した後、行方不
明になっています。実は「指環」の出版は
しず子の明確な許諾を得てなく、同人たち
により出版されたといわれています。結果
として「指環」は娼婦の詠んだ句集と評さ
れています。しかし、こうした過激な批判
に対し出版元は沈黙しています。宣伝にな
ると考えたのでしょうか。しず子が身を隠
したのは当然かもしれません。
「娼婦また よきか熟れたる 柿食うぶ」<しず子 >
ちなみに、しず子が巨湫に送り続けた俳句
は7,300にも及び、10年間「指環」で掲載
を続けています。しかし、しず子が再び俳
壇に現れることはなく、自殺説などの推測
が生まれたため幻の女性俳人といわれてい
ます。
「秋櫻 うつすら想ふ死 のてだて」<しず子 >
余談ですが、鈴木しず子を知ったのは「椎
名林檎」のエッセイ。椎名は「夏みかん酸
っぱしいまさら純潔など」というしず子の
本の帯に推薦文を書いています。河出書房
新社刊。
写真と文<殿>