575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

新蕎麦やすすりて後の善光寺  千香子

2020年11月23日 | Weblog
作者の千香子さん。
妙高へ行く途中長野駅前で食べたそばが、これまでに食べた中で1番おいしいそばだったそうです。時間があり善光寺もお参りされたとのこと。

花より団子ならぬ「寺より新蕎麦」ですね(笑)まずはお蕎麦を食べて、お参りはそのあとです。

では選句された皆さんからのコメントです。

★「善光寺」への流れがスムーズ。なかなかこうは行きません。 (能登さん)
★旅の目的の優先順位が、わかりました。 (智恵さん)
★お参りするのはまず新蕎麦を食べてから? (すみさん)
★信州へ来れば善光寺、善光寺へ行く前にまず蕎麦というのが常道ですね。参道では蕎麦屋さ んが軒を連ねています。(等さん)
★新蕎麦を食べた後に善光寺に参る満足感を感じる。(泉さん)

地名や固有名詞を入れるのは時に難しいことがありますが、「すすりて後の善光寺」。「後の」が利いています。そして、皆が知っている善光寺。まさに、牛に引かれるかのように良い方向に導かれ、見事に着地した感じがしました。麗子








コメント (4)
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「きょうも涙の日が落ちる」

2020年11月23日 | Weblog



渥美清<あつみきよし> 1928年都内上野の生
まれ。父は新聞記者、母は小学校の教師です。
1942年に巣鴨中学校に入学しますが、東京大
空襲で自宅を失います。そのため工場で働き
露天商などもして糊口を凌ぎます。

1946年、中央大学の商学部に入学。やがて、
大宮の日活館で初舞台を踏むことにより俳優
の道へ本格的に進むことになります。ちなみ
に、芸名の「渥美」は愛知県の渥美半島のこ
とで「清」は座長が別の役者と間違えて呼び
そのままになったといわれています。

1951年、浅草のフランス座の専属となります。
当時のフランス座は、関敬六、東八郎、長門
勇など一流のコメディアンが活躍。喜劇役者
への登龍門といわれていました。1961年「夢
で会いましょう」というNHKの人気テレビ番
組に出演。1962年の「あいつばかりが何故も
てる」で映画の主演を務めます。

1968年に山田洋次の脚本による「男はつらい
よ」がテレビで放送。高視聴率を得たことから
映画化。「男はつらいよ」は27年間で48作品
という、ギネス記録にも認定される世界的なロ
ングヒット映画となります。

「村の子が くれた林檎ひとつ 旅いそぐ」<風天>

渥美は映画の放埓な寅さんと違い、寡黙で真面
目な性格。私生活は一切明らかにせず、山田監
督も結婚したことや住所を知らなかったという
エピソードがあります。

「蛍消え 髪の匂いの なかに居る」<風天>

渥美の俳句好きは有名で、俳号は「風天」。あ
る時、俳人の尾崎放哉をドラマにしたいと友人
の早坂暁<脚本家>に持ちかけます。しかし、橋
爪功を放哉役にNHKがドラマ化してしまいます。
渥美は次に種田山頭火に注目。渥美が取材旅行
をおこない早坂暁が脚本を書きますが、すでに
「男はつらいよ」は国民的映画。ほのぼのとし
た寅さんのイメージが壊れると反対され、山頭
火の役はフランキー堺で制作されます。ちなみ
に「山頭火なんでこんなに淋しい風ふく」はモ
ンテカルロ最優秀賞を受賞しています。

「ポトリと 言ったような気がする 毛虫かな」<風天>

渥美は雑誌「アエラ」が主催する「アエラ句会」
の会員。句会で詠まれた句は「風天 渥美清のう
た」森英介<著>として新春文庫より発刊されて
います。

「台所 誰も居なくて 浅利泣く」<風天>

余談ですが、仕事で本人にコメントを依頼して
いたことがあります。しかし、いつも締め切り
を過ぎてしまい代筆。コメントでなく俳句を依
頼すれば一句詠んでくれたかもしれません。最
後のコメントをご紹介。

「ほら、見な、あんな雲になりてえんだよ」

渥美清 俳優そして俳人。享年68歳。


写真と文<殿>
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